第24話
「婚、約……?」
朝食の真っ只中、朝に相応しいあっさりとした野菜のスープが運ばれてきた折に、私はかつてないほどの衝撃を受けていた。
今朝の朝食の席には、このところでは珍しいことにお兄様もいらっしゃって、心の底で浮かれるような気持ちがあったのに、お父様が口になさったたった一言で、一気に打ちのめされてしまった。
手にしていたはずのスプーンは、いつの間にか床に落ちていたらしく、家族全員の視線が私に集まっている。だが、私にはその失態を取り繕う余裕など既に残されていなかった。
「もう一度……もう一度仰ってくださいませ、お父様」
縋るようにお父様を見つめれば、お父様は深い紅色の瞳を苦し気に揺らがせた。先ほど衝撃的な一言を放った際もどこか躊躇われるような素振りだったから、そう何度も同じことを口にしたくないのかも知れない。
お母様もどこか気遣うような眼差しを私に投げかけていて、朝の爽やかな食堂に何とも言えない気まずさが漂う。
だが、沈黙を破ったのは、今日も今日とて拭いきれない翳りを帯びた瞳で笑うお兄様だった。
「じゃあ、僕からもう一度言おうか、フィーネ。ユリス侯爵家から僕に縁談が来た。お相手は僕と同い年のミシェル嬢だ」
ユリス侯爵家と言えば、ベルニエ帝国の吸血鬼一族だ。クロウ伯爵家と同様に、侯爵家として世を忍んでいる、由緒正しい家門だった。
「フィーネも会ったことあるんじゃないかな。白金の髪が美しい、吸血鬼のご令嬢だよ」
確かに何かの折に、ご挨拶をしたことはあるかもしれない。顔は思い出せなかったが、吸血鬼らしい美しいご令嬢だった気がする。
そのご令嬢と、お兄様が、婚約。
まだ正式に決まったわけではないだろうが、断る理由のない話だった。吸血鬼の婚姻は吸血鬼同士で行うことが大原則なのだから、両家からしてみればこんなに好ましい縁談はない。
お兄様は、無感情な瞳で私を見ていた。ただ、口元だけは無理やり取り繕ったような笑みを浮かべていて、心臓をぎゅっと握られたような感覚を覚える。
お兄様が望んだ縁談ではないことは、火を見るよりも明らかだった。そして今も、前向きな気持ちというわけではないのだろう。わざわざご自分で婚約の話を繰り返したあたり、多少自棄になっているのではないだろうか。
思わず、お兄様の視線から逃れるように俯く。気づけば指先が細かく震えていた。
いつかこんな日が来る、ととっくのとうに覚悟していたことのはずなのに、いざ直面してみれば、こんなにも胸が苦しくて痛くて仕方がない。
お兄様が、婚約。
――私ではない、美しいご令嬢と。
その事実に仄暗い感情を覚えるのは、私が今もお兄様に惹かれ続けている証なのだろう。それを認めたくなくて、指先の震えを握りつぶすように、ぎゅっとドレスを掴んだ。
これでいい、これでいいはずだった。私とクラウスの婚約はともかくとして、お兄様は然るべきご令嬢を迎え入れて幸せになるべきなのだ。私などに囚われず、誰からも祝福される道を歩むべきなのだ。
「フィーネ……まだ、正式な決定というわけじゃ――」
気遣うようなお母様の言葉を遮って、私は無理やり微笑みを取り繕った。
「――ご婚約……おめでとうございます、お兄様。……どうか、ミシェル嬢と素敵なご家庭を築いてくださいませね」
声が震えていたことを除けば、妹としては、模範解答と言えるだろう。
だが、その言葉を受けたお兄様の瞳の翳りが一層増したのを見て、お兄様の溺愛する「フィーネ」としては一番言ってはいけない言葉だったのだと悟った。
胸が、引き裂かれるように痛い。どくどくと早まった脈は少しも落ち着く気配を見せなかった。
食堂の隅に控えていたメイドの一人が、新しいスプーンを持ってきてくれたが、とても食事を再開できる気分ではなかった。
「……申し訳ありません、少し、体調が優れませんので……失礼いたします」
お兄様の顔はもう、見られなかった。顔を上げなくても、張り詰めた空気感は痛いほどに伝わってきてもう限界だった。
そのまま食堂の扉の方へ歩き出した私だったが、お父様もお母様も特に引き留めることはなさらなかった。お二人が、私がお兄様に向ける感情のどこまでを察しているのかは分からないが、お兄様の縁談話が私に衝撃を与えたことくらいは容易に想像がつくのだろう。
私室に向かう廊下は、俯きながら歩いた。じわりと涙が両目に滲む気配がする。
花の装飾が施された私室の扉を開ければ、私の部屋の整理をしていたらしいリアが戸惑ったように灰色の瞳を揺らがせた。慌てて駆け寄ってくる彼女の軽やかな足音をどこか遠い世界のことのように聞きながら、私はベッドにそっと腰かけた。
その拍子に、ぽたぽたと涙が零れ落ちる。泣いてはいけないと分かっているのに、涙は止まってくれなかった。
「お嬢様……一体、どうなさったのです?」
心配そうなリアの声に、思わず自嘲気味な笑みを浮かべる。
「お兄様の婚約者が決まったわ。ユリス侯爵家のミシェル様ですって。本当に……おめでたいことね」
これでいいはずだった。覚悟も決めていたというのに、どうして心はこうも思い通りにならないのだろう。自嘲気味な笑みを浮かべた口元とは反対に、ぽたぽたと流れ続ける涙が、忌々しくてならなかった。
「お嬢様……その……私、何と言ってよいか……」
リアは恐らく、私とお兄様の関係性を一番的確に察しているメイドだった。だからこその戸惑いなのだろうが、今だけははれ物に触るようなその言葉が余計に心の傷を抉るようでならない。ますます涙が零れてしまう。
「ふふ……折角リアがお化粧してくれたのに……これじゃあ台無しね」
強めの力で目元を拭えば、鈍い痛みが瞼の裏に走った。その痛みが不覚にも、10年前にお兄様が自ら右目の色を変えたあの出来事を思い起こさせて、最早痛いのかどうかも分からなくなってしまった。
お兄様も、私とクラウスの婚約話が上がったときには、今の私と同じような想いを抱かれたのだろうか。人知れずに涙を流したりなさったのだろうか。
……ごめんなさい、お兄様。妹で、あなたを幸せにして差し上げられなくて、ごめんなさい。
「お嬢様……」
悲痛なリアの声に、私は笑みを取り繕った。この部屋にいては、二人して鬱々と沈みゆく一方だ。
「リア……お出かけをしましょうか。久しぶりに、街でも歩きましょうよ」
私の提案がよっぽど意外だったのか、見上げたリアの目は驚いたように見開かれていた。
「ご無理はなさらない方がよろしいかと、お嬢様……」
「いいの。このまま泣いて一日を過ごすよりはずっといいわ。ねえ、悪いけれどもう一度お化粧をしてくれる? 口紅はもう一段階明るい色がいいわ」
本当はお洒落なんて少しもしたくない気分だったが、だからと言って暗い色ばかり纏っていては余計に落ち込んでしまいそうだった。ここはリアの手を借りて、無理やりにでも見目だけは華やかにしよう。
リアは気遣うような視線を投げかけ、何か言いたげなそぶりを見せていたが、一応は主である私の指示に従うことにしたらしく、慎ましく礼をしてから化粧道具の準備を始めた。
「……香水も用意して頂戴。なるべく甘くて、華やかな香りのものを」
普段は滅多に香水なんて付けないが、今だけは話が別だ。ふとすれば思い起こす、大好きなお兄様の香りを、掻き消したくて仕方がなかった。
「……かしこまりました、お嬢様」
淡々と準備を進めるリアの後姿を見守りながら、私は一人、涙の名残を拭った。一刻も早く外へ出て、この屋敷のものではない空気を吸いたい。
膝の上に置いた左手に、そっと視線を落とす。幾度となくお兄様に口付けられた薬指が、どうしてか焼けつくように痛むのだった。
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