第15話
「偉い! 偉いですよ! フィーネお嬢様!!」
朝から華やいだ声を上げるのは、左手首から滴る血を白い布で押さえるリアだった。清々しい朝に、手首から血を流しているメイドというのも何とも物騒だと思うが、傷つけたのは他ならぬ私である。
「うう……決してリアを非難するわけではないのだけれど、やっぱり不味いわ。気持ち悪い」
私は私で、リアに差し出された布で口元を覆っているところだった。たった今、数日に一度の吸血を終えたところだ。
「後々体調を崩さないためには、必要なことですよ、お嬢様」
てきぱきと自らの手首に包帯を巻きつけたリアは、私に吸血された直後だと言うのに随分とご機嫌である。灰色の目を輝かせながら鼻歌交じりに私の身支度を整える彼女を見ていると、彼女に痛みを与えることを憂いでいるこちらの方が馬鹿馬鹿しくなってくるくらいだ。
「リア、手首は痛くないの? 私、結構強めに噛んだつもりよ?」
「このくらい、猫に甘噛みされているのと変わりませんよ! お嬢様に吸血されたって、レニーに自慢してやるんです!」
「そ、そう……自慢にはならないと思うけれど」
バート一族の中にも、色々あるのかもしれない。彼らは私たちに吸血されることを名誉と思っているような節があるし、一族の事情にはあまり突っ込まないでおこう。
「しかし、一体どういう心境の変化なのです? やはり、クラウス様とお会いするのが楽しみだから張りきっていらっしゃるのですか?」
「いえ、彼、というよりは……」
今夜は、クラウスにエスコートされて参加する初の夜会が控えている。まだ正式に婚約したというわけでもないのだが、事実上の婚約お披露目のような意味合いを兼ねていた。
だが、珍しく私が吸血をした理由は、彼というよりお兄様のせいだ。訳も無く涙が零れるあの夢を見た後は、どうしてかちゃんと血を飲まなければ、という気持ちになる。吸血という行為に乗じた、八つ当たりと言えばその通りだった。
吸血とはいっても、私の場合はそんな大層なものではない。私の歯は八重歯が普通の人間より少し尖っているという程度で、牙と呼べるほど立派なものではなかった。吸血のためにナイフを用いることが殆どだ。
こういう点でも私は出来損ないなのだと思うが、生まれ持った性質を嘆いても仕方がない。いざという瞬間には、工夫して八重歯で皮膚を穿つしかないのだ。
「理由はどうあれ、前向きに吸血をしてくださるのは嬉しいです。お嬢様の健康が第一ですからね」
手際よく私の黒髪の毛先を巻いて、リアはにこにこと笑う。このところ何かと悶々と考えることが多い私だが、幼馴染と言っても過言ではない彼女の笑みにはいつも癒されていた。
「私の健康を考えるなら、今日のおやつはチーズケーキがいいわ」
「いいでしょう、今朝はちゃんといい子で吸血出来ましたからね! 私からシェフに伝えておきます」
リアの機嫌を取るには大人しく吸血したほうがよさそうだわ、と一人ほくそ笑んでいると、私室のドアがノックされた。このノック音はレニーだろう。いつも通り入室を許可すると、燕尾服を纏ったレニーが現れる。
「お嬢様、ご朝食の準備が整いました」
「ありがとう、今行くわ――」
鏡越しにレニーに笑いかけようとして、思わず口を噤んでしまう。いつもはリアに負けず劣らず朗らかな表情をしているレニーが、今日はやけに沈んだ顔をしていたからだ。
「……何かあったの、レニー」
今度はきちんとレニーの方を振り返って問いかけた。彼ははっとしたように笑みを取り繕ったが、すぐに視線を彷徨わせてしまう。
「ちょっと、はっきりしなさいよ。お嬢様の御前よ?」
リアは昔から変わらない口調で弟を諫めた。それでも尚レニーは視線を伏せていたが、やがてぽつぽつと言葉を並べ始める。
「いや……少し、マリー姉さんのことが心配で……」
「マリーがどうかしたの?」
マリーは、リアやレニー同様、クロウ伯爵家に使えるバート一族の使用人だった。お兄様付きのメイドの一人で、少し癖のある黒髪が美しいメイドだった。
「……このところ、ノア様が吸血の際にご指名なさるのは、いつもマリー姉さんなんです。もともと、お気に入りではあったんですけど……」
少量の血しか必要としない私はともかく、お兄様は部屋に血の臭いが残る程度には血を吸わなければ体調を保てないので、吸血する相手にかける負担は私の比ではない。
だからこそ、お兄様付きのメイドは何人もいて、お兄様もメイドたちの体調を気遣って、連続で同じメイドから吸血することはないはずなのだが、一体どうしたのだろう。
「……マリー姉さんが、ノア様のお気に召したのかしら。その、吸血、以外の意味でも」
リアが言いづらそうにもじもじと告げたが、要は恋愛関係に発展しているのでは、と言いたいのだろう。
あまり考えたくはないが、真っ先に思い浮かんだ考えは私も同じだった。
どくどくと、脈が早まる気配がする。胸の奥底に沈めたはずの熱が、心を焼き尽くすかのように痛んだ。
人間と吸血鬼が恋に落ちたという具体的な話を聞いたことがあるわけではないのだが、どうせなら想いを寄せる相手から血を飲みたいと考えても、そう不自然ではないだろう。
「それならいっそよかったんだが……多分、ノア様はマリー姉さんが黒髪だから、っていう理由だけで選んでるんだと思う」
レニーの視線が気まずそうに私に寄せられる。早まっていた脈が、大きく跳ねる気配がした。
「……どうしてそう思うの」
自分でも驚くほど静かな声だった。レニーは迷うように視線を彷徨わせたが、やがて意を決したように私を見据える。
「……マリー姉さんが吸血のためにノア様に呼ばれてお部屋に伺うと……必ずと言っていいほど、ノア様はお嬢様のお名前を呟いていらっしゃるそうなんだ。それこそ、譫言のように……」
「っ……」
お兄様が、私の名前を。その光景を想像しただけで、ずきずきと胸の奥が抉られるように痛んだ。
この三週間、まともに会話が出来ていない間に、お兄様にそんな変化があったなんて。クラウスとの婚約を告げたときのお兄様の顔を思い出しては、息が出来なくなるような苦しさに襲われた。
「お嬢様、ノア様と喧嘩をなさっているようなら、どうにかしてくださいませんか? このままじゃ、マリー姉さんがもちません」
「レニー、いくらなんでも失礼よ」
レニーを窘めるようなリアの言葉に、はっと我に返る。この動揺をリアとレニーに悟られるわけにはいかない。
私はゆっくりと顔を上げ、なるべく他愛のない笑みを浮かべながら小さく首を横に振った。
「いいのよ、リア……」
私とお兄様の間にある葛藤はともかくとして、お兄様が私に向ける感情のやり場に困って、その矛先をマリーに向けているのだとしたら見過ごせない。――私も似たようなことをリアにしたばかりなので、あまり人のことは言えないのだが。
「私だって、このままマリーが体調を崩してしまったら嫌だもの。少し、お兄様と話をしてみるわね」
椅子に座ったままリアとレニーを見上げれば、彼らは灰色の瞳でじっと私を見つめていた。レニーはどことなく安堵するような表情であったが、リアは憂うような眼差しで私を見ている。
「……何かあったら、すぐに私たちを呼んでくださいませね?」
リアは、私とお兄様の複雑な関係を、恐らくは一番的確に察しているメイドだった。だからこそ、このところのお兄様の様子を見て、思うところがあるのかもしれない。
「ふふ、相手はお兄様よ。何があるって言うの?」
軽く受け流すように笑いながら、席を立つ。お父様とお母様はもう食堂で待っておられるだろう。
「さあ、朝食に向かいましょう。あまりお二人をお待たせするわけにいかないもの」
私が歩き出せば、リアもレニーも黙って付き従う。朝食を終えたら、お兄様と話し合おう。そう、心に決めながら、私は黙々と食堂へ向かった。
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