第16話
朝食を終えた後、私は早速お兄様の部屋を訪ねようとした。朝の伯爵邸を歩きながら、すれ違う使用人に挨拶をする。皆、これから各々の仕事へ向かう途中のようだった。
その中で、偶然にも、青白い顔をしたマリーとすれ違ったのだ。
黒に近い濃い灰色の髪と正反対に、抜けるように白いマリーの肌を見ていると、やっぱり不安になってしまった。
メイド服から覗く首筋には、噛みつかれたような跡があって、手首ではなく首筋から吸血している辺り、お兄様の荒れようは相当なものだと察してしまう。
私はマリーを使われていない客間に呼び寄せて、このところのお兄様の様子を訊ねることにした。あまりに青白い顔をしていたので、遠慮するマリーを説得して何とか椅子に座らせる。
「マリー……レニーから聞いたわ。あなた、相当無理をしているんじゃいかしら……」
それだけでも、マリーは何の話か察したのだろう。血色の悪い顔を更に青くして、懇願するように私を見上げた。
「お嬢様! どうか、ノア様を責めないで差し上げてください。私は平気です。確かに多少顔色が悪く見えるかもしれませんが、倒れるほどひどい貧血というわけでもないのです。むしろ、私よりもずっとノア様の方が苦しそうで……」
マリーはそっと首筋に手を当てながら、切なげに瞳を揺らがせた。
マリーもまた、お兄様に恋をするメイドの一人だ。このところ不安定な様子のお兄様に、思うところがあるのかもしれない。
「今は平気でも、倒れてからじゃ遅いのよ……。辛いときは、他のメイドと変わるべきだわ」
私の言葉に、マリーはただ静かに首を横に振った。
「他のメイドは皆……黒髪ではありませんから」
バート使用人一家の特徴は、灰色の瞳に灰色の髪だ。マリーだって完全な黒髪というわけではないのだが、限りなく黒に近い灰色の髪を持っていた。
「……黒髪であることがそんなに大事なのかしら」
「はい、今のノア様にとっては、何物にも代えがたいはずです。私の髪なんて、お嬢様の見事な御髪と比べるのもおこがましいようなものですが……それでも縋らずにいられないくらい、ノア様は弱っていらっしゃるのです」
マリーは今にも泣きだしそうな目で、真っ直ぐに私を射抜いた。
「どうして……お嬢様は、ノア様の妹君なのでしょうか。あの方を幸せにして差し上げられるのは、お嬢様しかいないのに」
「……何を、言っているの」
思わず笑うように口走ったが、指先は細かく震えていた。
それは、出来れば口にしてほしくなかった言葉だ。マリーと同じことを、私も何度繰り返し考えたか分からない。
「出過ぎた真似をいたしました。無礼をお許しください」
マリーがその場に立ち上がって深々と礼をする。彼女の黒に近い濃い灰色の髪が、お辞儀と同時にさらりと流れた。
……その髪に、お兄様は触れたのかしら。その灰色の髪に、お兄様の指が絡んだのかしら。
思わずお兄様がマリーから血を貰う光景を想像しそうになって、咄嗟に頭の隅に追いやった。想像するだけで、頬が熱を帯びるような気がする。
普段でさえ、怪しい色気を漂わせているお兄様なのだ。吸血鬼としての本性を露わにしているときは、直視できないほど蠱惑的であるに違いない。お兄様に血を捧げているメイドたちが、心を奪われるのも納得だ。
「いいの。怒っているわけではないのだから……」
マリーをお辞儀させたままであることに気が付いて、私は取り繕うような笑みと共に告げた。マリーはおずおずと顔を上げ、視線を彷徨わせる。
「重ね重ね申し上げますが、お嬢様……ノア様にお会いになるおつもりならば、どうか、お手柔らかに」
それだけを告げて、マリーは逃げるように立ち去ってしまった。彼女の後姿を見送りながら、少しの間、頬に帯びた熱を冷ますように深呼吸を繰り返す。
こんな心境でお兄様の部屋を訪ねるのは複雑だが、このまま放置するわけにもいかない。せめて一言だけでも申し上げなければ、と決意を固めて、お兄様の部屋へ向かった。
お兄様の部屋の扉は、今日のぴたりと閉じられている。装飾の少ない扉は、いかにもお兄様の好みらしかった。震える指先を握りしめて、そっと扉をノックする。
「お兄様、私です。フィーネです」
間もなくして、部屋の内側から扉が開かれる。扉の隙間から姿を現したのは、どことなく疲れたような表情のお兄様だった。
「……フィーネ」
この三週間で、少し痩せられたのではないだろうか。もともと細身のお兄様が、消え入りそうな儚さまで醸し出していて、何だか痛々しい姿だった。目の下にはうっすらと隈まである。
それもすべて、私のせいなのだろう。その確信が、またしても心の奥の熱と罪悪感を呼び起こした。
それをぐっと抑え込んで、なるべくいつも通りの微笑みを浮かべてお兄様を見上げる。
「お兄様、少しだけ、お話が――」
そう言い終わるか否か、といううちに、お兄様に手を引かれていた。
よろめくように室内に足を踏み込んだのも束の間、ぱたんと閉じられる扉の音と同時に、お兄様に壁際に追い詰められてしまう。背中に冷たい壁が当たる感触にぎゅっと目をつぶってしまった。
「僕は君を避けているつもりなんだけど……分からないかな?」
優しくて、甘い声。いつもと変わらない、大好きなお兄様の声のはずなのに、まるで知らない人が目の前にいるようだった。
お兄様の部屋は、いつもより濃い血の臭いがした。それだけ、マリーから奪った血の量が多いという証なのだろう。
その現実をまざまざと突き付けられて、一言だけでも申し上げなければ、と真っ直ぐにお兄様の瞳を見上げた。
「お兄様が私を避けておられることは分かっておりますが……どうしても話さなければならないことがあります。お兄様、マリーばかりから血を吸うのはおやめください。このままではマリーが倒れてしまいます」
「フィーネは優しいね。こんなときでも使用人のことを気遣えるんだ」
私を壁際に追いやったまま、お兄様の指先がそっと私の頬を撫でる。
掠めるようなその感触に、ぞわりと肌が粟立った。甘さを帯びた寒気が背筋をすっと抜けていく。
「じゃあ、代わりにフィーネが血をくれる?」
お兄様の深紅の瞳は怪しげに揺らめいていた。その壮絶な色気に息を呑みながらも、何とか毅然とした態度で受け答える。
「……それは、許されることではありませんわ、お兄様」
私の言葉に、お兄様は自嘲気味に微笑んで、一層私との距離を縮めた。耳朶に唇が触れそうなくらいの距離まで顔を寄せられて、思わずびくりと肩が跳ねる。
「禁忌に触れるつもりがないのなら、もうあまり僕に話しかけないでくれるかな、フィーネ。君も、いつまでも『兄』に執着されるなんて気分が悪いだろう?」
「っ……」
そんなことはない。本当はそう言いたかったけれど、それすら許されないような気がして、思わず唇を噛みしめた。
「……マリーのことは気を付けるから、今後は気軽に僕の部屋を訪ねないでくれ」
それだけを告げて、お兄様は私から離れた。翳った瞳は扉の方を見つめており、暗に私に退室を促しているのだと悟る。
「ほら、あいつと行く夜会の準備もあるだろう? 早く行きなよ」
突き放すようなお兄様の言葉を重く受け止めながら、その場で軽く礼をしてみせる。
「……失礼いたします、お兄様」
その挨拶を最後に、私はお兄様も部屋を後にした。
部屋を出たあとも、血の臭いと、胸の奥底で燻る熱がいつまでも纏わりついているような気がして、気分は晴れないままだった。
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