第4話

 私たちを呼び止めたのは、黒髪と紺碧の瞳が印象的な、すらりと背の高い美青年だった。


 質の良い衣服に身を包んだ彼からは、品の良さが滲み出ている。鋭く思えるほどの目つきだったが、端整な顔立ちがそれを魅力に変えていた。


 周囲の人々の注目は、この目の前の青年に集まっていたのだ。確かめるまでもない。彼が、先ほど広間の中央で人々の噂になっていた青年なのだろう。


「……名乗りもせずに呼び止めるのは、いくら公爵令息殿でも無礼では?」


 こんな状況でも、お兄様は揺らがなかった。先ほどまでの動揺を微塵も感じさせない不敵な笑みで、目の前の青年を見つめる。


 この一瞬で、彼が公爵令息であることを見抜くなんて。


 流石はお兄様、と心の中で目一杯の称賛を送ったが、私も私で強がるように胸を張り、高飛車な印象を受けるほどに気の強い令嬢を演じてみせる。


 どんな状況だって、私はクロウ伯爵家の令嬢なのだ。この国唯一の、吸血鬼一族の娘なのだから。いつだって毅然としてなければ。


 目の前の青年は、私とお兄様を見比べるようにしてしばらく見つめていたが、やがておかしくてたまらないとでも言いたげに笑った。


 周囲の人々は、今や会話に花を咲かせることも忘れて私たちに見入っている。


「仰る通りだ、ノア殿。だが、あなた方が遠ざかっていくのを見たら、思わず引き留めずにはいられなかった。社交界に慣れていない未熟者の無礼を許してほしい」


 青年は恭しく礼をしたが、どうにも胡散臭い笑い方をする。ますますこの場から立ち去りたい気持ちが増した。


「改めて、俺はクラウス・ハイデン。ハイデン公爵家の長男だ」


 その名前を聞いて、ぴんときた。


 クラウス・ハイデン。幼少期をベルニエ帝国の神殿で過ごした、神秘の公爵令息だ。神殿で慎ましい暮らしをした後は、ハイデン公爵領で父君である公爵の仕事を支え、その見事な経営手腕を明らかにしたという有名な公爵令息だ。


 滅多に表舞台に出て来ないという噂は私も聞いていたのだが、今夜は王女様の生誕祭というだけあって駆り出されたのだろう。


 神秘のベールに包まれていた公爵令息が、こんな眉目秀麗な青年だと分かったのだから、あの騒ぎになるのも頷けた。称賛の声に拍車がかかるわけだ。


 しかし、そんな社交界を賑わせる貴公子が、私たちに一体何の用だと言うのだろう。ハイデン公爵家とクロウ伯爵家に特別な繋がりはないはずだった。領地だって、近いとは言い難い。


 まさか私たちが吸血鬼一族であるということはバレていないとは思うが、神殿育ちというだけで、目の前の公爵令息が不気味に思えて仕方がない。


「……クロウ伯爵家のノアと申します。こちらは妹のフィーネです」


 公爵令息に挨拶をされた以上、こちらも名乗らないわけにはいかない。お兄様の紹介に合わせて、私もドレスを摘まんで小さく礼をした。


「いやあ、噂に違わぬ美しいご兄妹だ。眼福とはまさにこのことを言うのでしょうね」


 大袈裟な素振りで賞賛を送るハイデン公爵令息は、やっぱりどこか胡散臭い。


 思わずお兄様の腕に添えた手に力を込めれば、お兄様がすぐに切り返してくれた。


「……お褒めにあずかり光栄です。それで、我々に何か御用でしょうか?」


 公爵令息に対しての言葉にしては、礼節を欠いていると指摘されても否定できないくらいの物言いだったが、私の怯えを察してくれたのだろう。お兄様はやっぱり少しも怯むことなく、赤い左目で公爵令息を見据える。


「……妹君を溺愛しているというのは本当の話のようだ」


 公爵令息は意味ありげに笑みを深めると、ずい、と私たちの前に一歩歩み寄った。


「話というのは簡単なことです。クロウ伯爵令嬢――」


 ハイデン公爵令息は、不意に私の前に跪くと、優雅な所作で手を差し出した。


「――どうか、俺と踊って頂けませんか」


 毅然とした態度を意識してきた私だが、これには思わず縋るようにお兄様にしがみ付いてしまった。


 私と、踊る? この方は、本気で仰っているの?


 舞踏会に出てきている以上、通常であれば殿方からダンスを申し込まれることもあるだろうが、私にとっては初めてのことなのだ。


 しかも相手は神殿育ちの公爵令息。今すぐドレスをたくし上げて逃げ出したいような相手だ。


 私はお兄様の腕に触れる手に力を込め、恐怖を隠すので精一杯だった。お兄様もそれを察してくださったのだろう。私の肩を抱き寄せ、申し訳なさそうな表情を作って微笑んで見せる。


「ハイデン公爵令息、大変光栄なお誘いですが、フィーネは体調が優れないのです。王女様の舞踏会で、妹と貴殿が踊る栄誉をみすみす逃すのは心苦しいですが……またの機会に」


 ここまで言えば普通は諦めるだろう。だが、公爵令息は手ごわかった。跪いたまま私たちを見上げ、人好きのする笑みを見せる。


「それは大変だ。今すぐ俺が休憩室へ案内しましょうか。幸い、広間の近くにありますよ」


 これには私もお兄様も笑みが引き攣りそうになった。この公爵令息、なかなかしつこい。


 何も私一人を休憩室に連れ込もうというわけではないのだろうが、相手は神殿育ちの青年だ。密室に閉じ込められて私もお兄様も封印される、なんて事態になったら一大事である。


 加えて、周囲の期待に満ちた眼差しが、余計にプレッシャーを与えていた。


 彼らからしてみれば、ようやく表舞台に出てきた神秘の公爵令息と、今までお兄様以外の殿方とは躍ったことの無い伯爵令嬢の私という組み合わせを、面白く思っているのかもしれない。


 それに、公爵令息をいつまでも跪かせておくというこの状況は、私たちに分が悪すぎた。相手が誰であっても、あまり長い時間膝をつかせるのは失礼だ。


「……お兄様、私、踊って参りますわ。一曲だけ」

 

 お兄様にぐっと顔を近づけ、お兄様にしか届かないような囁き声でそっと告げる。


「フィーネ……」


「大丈夫、ちょっと踊ってくるだけですもの。……彼に触れたら手が爛れる、とか、そういう心配はありませんわよね?」


「まずないと思うけど、手袋を外しちゃ駄目だよ」


「分かりましたわ」


 赤いドレスに合わせた薄手の絹の手袋を指先まできゅっと詰めて、ようやく私は前を向いた。お兄様は公爵令息を見下ろして、どことなく引き攣った笑みを見せる。


「どうやら一曲くらいならば踊る元気があるそうです。……大切な妹なのでくれぐれもよろしく頼みますね」


 頼んでいるはずなのに脅迫しているような声で、お兄様は笑った。公爵令息は微塵も怯むことなく、ぱっと明るい笑顔を見せる。


 ……でも、どうにもその笑顔が作りものっぽいのよね。


 何度目か分からない胡散臭さを感じながらも、私は公爵令息の前に歩み寄った。お兄様の手は私の指先の熱を追うように、名残惜しそうにぎりぎりまで繋がれていたが、公爵令息の前に来て完全に離れてしまう。


「……どうぞよろしくお願いいたします、ハイデン公爵令息様」


 慎ましく礼をしてから手を差し出せば、公爵令息は恭しく私の手を取り、手袋越しに手の甲に口付けた。お兄様からは数えきれないほどされた手の甲への口付けなのに、今だけはただただ恐怖しか呼び起こさない。


 ……この口付けで肌が爛れたりしたらどうしよう!


 吸血鬼と神殿は相性が悪い。それだけしか知らないが、神秘的な空気を纏わせる彼の口付けは、どう考えたって吸血鬼の私に良い効果を与えるはずもない。


 公爵令息は私の指先の震えを見るなり、どこか面白がるような笑みを見せた。


「……俺にあなたと踊る栄誉を与えてくださったことを、心よりに感謝しますよ。クロウ伯爵令嬢――いえ、フィーネ嬢?」

 

 公爵令息が言うと、まるで祈りの言葉のように聞こえて不気味で仕方がない。思わず縋るようにお兄様を見つめるも、動き出してしまった歯車は止められなかった。


 大勢の人々に見守られる中で、波乱の舞踏会が幕を開けたのだった。

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