第3話

 舞踏会は、王国レヴァインの王城で開かれた。


 水の国とも呼ばれる王国レヴァインの王城というだけあって、王城を取り囲む庭園にはいくつもの小川が張り巡らされ、前庭には巨大な噴水が煌めいている。どこにいても、さらさらと美しい水音が聞こえてくるのがこの城の特徴だ。


 もっとも、舞踏会の夜は別だ。清らかな水音も賑やかな音楽に掻き消されてしまう。


 特に今日はそれが顕著だった。何せ今夜は、王国レヴァインの王女様の生誕祭なのだから。


 舞踏会の始めだけは厳かな雰囲気で、我がクロウ伯爵家も四人そろって王女様にお祝いを述べたが、空気が張り詰めるのはそのわずかな時間だけだ。挨拶が終われば、まだ幼い王女様は広間から姿を消し、大人たちの舞踏会が始まる。


 今はまさに、王女様が退出し、華やかな宴が幕を上げたところだった。


 お父様とお母様は、挨拶を終えた後、お二人で退出なさってしまった。何でも、王女様の生誕をお祝いする歌劇に招かれているらしい。他の家も似たようなもので、広間に残されたのは殆どが若者ばかりだった。


 広間の中心でくるくると踊る男女を見つめながら、私はお兄様の隣でふっと笑みを深める。


「とっても華やかですわね、お兄様!」


 深紅の絹のドレスに身を包み、お兄様の腕に手を添えながら彼を見上げる。シャンデリアの光が眩しい。


「そうだね。やっぱり、王女様の生誕祭だからかな」


 白銀の髪の左側だけを上げたお兄様は、直視するのを躊躇われるほどの麗しさだった。相変わらず右目は前髪で隠しておられるけれど、それがまた怪しげな魅力を醸し出していてたまらない。思わず、口を開けてだらしなく見惚れてしまうほどの素晴らしいお姿だった。

 

 お兄様の礼装の胸元に収められているハンカチは、私のドレスを仕立てた生地と同じ絹のハンカチで、さりげなくお揃いにしてくれているのが嬉しい。本当ならばこういう合わせ方は恋人同士でするのかもしれないが、私たちの間ではもう慣れたことだった。


「今日のフィーネも相変わらず、誰より素晴らしいよ。君の隣に立てることを光栄に思う」


「ふふふ、お兄様ったら大袈裟ですわ。それは私の台詞ですのに。お兄様より美しい方なんて、きっと世界中探してもおりませんわよ!」


「ここにいるじゃないか」


「相変わらずお上手ですわね。妹を口説いてどうするのです」


 お兄様の言葉が甘いのはいつものことだ。この甘さを他のご令嬢にも向けて下されば人気に拍車がかかるというものなのだが、お兄様は基本的に興味のない相手にはそっけない。冷たくあしらうわけでもないのだが、うわべだけの対応をなさるのだ。


「口説いたらどこにもいかずに傍にいてくれる?」


「またそんなこと仰って……」


 これもいつも通りのやり取りだが、ちらちらと周囲の視線を集めていることに気が付いた。そのほとんどがお兄様に見惚れる視線だが、もしかすると中にはレニーの言うように、要らぬ勘繰りをする人もいるのかもしれない。


 勘違いされるとしたら、まず間違いなく私をからかうようなお兄様の言動だと思うのだが、それを完全に拒否できない私にも非があると分かっていた。お兄様が私に甘いのは言うまでもないが、なんだかんだ言って私も、お兄様のこととなると甘くなってしまうのだ。


「私にばかり構う必要はありませんのよ。もしもご一緒したいご令嬢がいらっしゃったら、私は休んでおりますので遠慮なく行って来てくださいませ」


 流石にエスコートなしで一人でうろつくわけにはいかないが、バルコニーで休むくらいなら問題ないだろう。折角着飾った美しいご令嬢たちが集まっているのだ。お兄様だって多少の息抜きは必要だろうと思っての発言だったが、お兄様は私の手を離そうとしなかった。


「フィーネを一人にしたなんて知られたら、僕は父上に叱られてしまうよ。あっという間に悪い虫が寄ってきてしまうからね」


「……悪い虫は、お兄様がよけてくださっているのですか?」


「そうだよ」


 お兄様は甘く微笑んで、慈しむように私を見た。その笑みに、やっぱり私は何も言えなくなってしまうのだ。


「フィーネこそ、話したい友人がいればその子の元まで連れて行ってあげるよ。今夜は君の友人も勢ぞろいしているんじゃないかな」


「そうですわね……」


 王女様の生誕祭なのだ。主要な貴族の家はほぼそろっているといってもいい。お兄様の仰る通り、私の友人もこの会場に勢ぞろいしていてもおかしくなかった。


 ここは、お兄様の言う通りお友だちに挨拶でもしようかしら、と見知った顔を捜そうとしたその時、不意に、広間の中心の方が騒めいた。


「……何でしょうか?」


 危機感を感じさせるような騒めき方ではない。感嘆の溜息や、賛美の声が聞こえてくるから、何か素晴らしいものが広間の中心にあるようだった。


 お兄様も事態を把握しかねているらしく、二人して黙り込んで周囲の声に聞き耳を立てる。


「珍しいわね。クラウス様は滅多に姿を現さないってお話なのに……」


「流石は神殿育ちね……纏っていらっしゃる雰囲気が何だか清廉だわ……」


 さざめくように広がる話し声は、どれもがやはり好意的なものだった。皆の注目が一層広間の中心に集まっているのが分かる。


 詳しい情報は分からない。人々の噂話から分かったのは、滅多に表舞台に姿を現さない神殿育ちの誰かがやって来たということだけ。


 だが、私とお兄様にはそれで充分だった。どちらからともなく見つめ合い、小さく頷き合う。


「……帰ろうか。面倒が起きてはいけないから」


「ええ、一刻も早く立ち去りましょう。みんなが広間に目を奪われているうちに」


 決断は早かった。私はお兄様の腕に手を乗せ直し、ドレスの裾を摘まんでお兄様に導かれるがまま、静かに人の輪から離れ始めた。


 神殿育ち。それだけで、私たち吸血鬼一族にとっては脅威だ。神官たちの中でも吸血鬼なんていう存在を信じる者は少数派だが、彼らは吸血鬼を封印する術を持つとも言われている。

 

 人前で吸血したりしない限り、私たちが吸血鬼であることがバレるなんてことはまずないのだが、神殿育ちとなると何か不思議な力を授かっていても不思議はない。お伽噺の存在である私たちが、吸血鬼を封印できる力を否定するというのも妙な話だった。


 吸血鬼だって、ごく普通に神殿に入ることは出来るし、祈りの文句を唱えたところで死んだりもしないが、出来ることなら神殿だとか神だとかとは関わりたくないのが本音だ。


 貴族として最低限の信仰心を持っている振りをして、やり過ごす。それを今夜も続けるまでだ。


「……折角素敵なドレスを仕立てたのに、こんな結果になって残念だった。もっとよく調べておけばよかったよ」


 広間の中心から離れながら、お兄様が申し訳なさそうに告げる。これだけ盛大な舞踏会だ。近隣諸国からも使者がやってきている。その参加者全てを把握するなんて不可能に近い。


「こんなこともあります。屋敷に帰ったら、リアやレニーを交えて、四人で舞踏会をしましょう?」


「それは楽しそうだ。小さな舞踏会だね」


「ええ。甘いお菓子を摘まんで、交代交代で踊るのです」


 こういった華やかな舞踏会も好きだが、お兄様やリアたちと過ごす時間も大好きだった。折角だから、リアにもドレスを着てもらって、四人で踊ろう。


 そんな風に、心の中でささやかな楽しみを計画していると、ふと、背後に大勢の視線が集まっているのを感じた。お兄様もそれに気が付いたようで、私をエスコートする手を一瞬強張らせる。


「舞踏会はまだ始まったばかりだと言うのに……お早いご退出ですね。クロウ伯爵令息ノア殿、そしてフィーネ嬢」


 冷たい響きさえもある青年の声。まるで歌劇の役者のようによく通る美しい声ではあるのだが、今の私たちにとっては寒気を呼び起こすものでしかなかった。


 この声に聞き覚えはないが、嫌な予感がする。人々のこの注目具合からして、もしかしなくとも、先ほどまで広間の中心にいたはずの青年が、私たちの背後で微笑んでいるのではないだろうか。


 そう、神殿育ちの、神秘のベールに包まれた誰かさんが今、私たちのすぐそばに迫っているのだ。


 どくん、と意味も無く心臓が跳ねるのが分かる。


 呼び止められた以上振り向くしかないのだが、どうしてかこのままお兄様と二人、逃げ出したいような衝動に駆られた。


 思わず縋るようにお兄様を見上げるも、お兄様もまた、どことなく悔しそうに眉を顰めるだけだった。


 こうなってしまっては仕方がない。私はお兄様と息を合わせて、私たちを呼び止めた青年の方へ向き直った。

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