第2話
「今夜の舞踏会の支度は万全かしら、フィーネ。足りないものはない?」
私の到着を待って始まったクロウ伯爵家の朝食は、穏やかに進んでいた。朝日が差し込む食堂の中は、いつもと同じ幸せの気配に満ちている。
艶やかな声で私に問いかけたのは、朝からばっちりドレスを着こなしたお母様だ。
お母様は、お兄様より少しくすんだ白銀の髪と赤い瞳をお持ちで、他に類を見ない美しさを誇っておられる。毅然とした面持ちは、落ち着いた品の良さを醸し出していた。
「それはもう、万全ですわ、お母様! お母様の娘として恥ずかしくないような立派なドレスを仕立てましたもの」
深紅に近い絹のドレスに、惜しげもなく真珠をちりばめた今夜のドレスは、今まで仕立ててもらったものの中でも一、二を争うほど気に入っていた。後は毅然とした振舞を心がければ、立派な令嬢に見えるだろう。
「あまり飾り立てるのもいけない。悪い虫がついたら大変だ」
言葉通り心配そうに私を見つめるのは、このクロウ伯爵家の当主、私のお父様だ。お父様は私と同じ黒い髪と、深い赤の瞳をお持ちだった。
「ご心配なく、父上。悪い虫はすべて僕が排除いたします」
優雅な所作で食事を摂るお兄様が、さらりと言ってのける。私を溺愛するお兄様なら本当に「排除」しかねない辺り、引きつった笑みが浮かんでしまった。
「でも、悪い虫どころか、私に言い寄ってきてくださる殿方なんて今まで一度もいませんでしたわ。私の何がいけないのでしょう?」
夜会にはそれなりの頻度で出ているというのに、私は他のご令嬢方のように殿方に口説かれた経験というものがない。16歳にもなったというのに、浮いた話一つないのは寂しいものがある。
「フィーネは高嶺の花だからね。世の男たちは、そう簡単に近づけないんだよ」
お兄様は慰めるようにそう仰ったが、本当にそうなのかは分からない。思わず口をとがらせて、お皿の上のサラダをフォークでつついた。
「ノア……牽制もほどほどにしてあげなさい。フィーネが自信を無くしてしまったら可哀想でしょう?」
お母様がどこか呆れたように溜息をつく。お兄様はそれを受けても涼しい顔で微笑むばかりだ。
「牽制? ……何のことだか」
「あの約束がある以上、お前がフィーネを守ろうとする気持ちは分かるがな……」
お父様はどこか感傷的な眼差しでお兄様を見つめていた。その言葉に、お兄様がぴくりと肩を震わせる。
「……そのような話は、フィーネの前ではしない約束でしょう」
珍しく、お兄様の表情が翳る。軽く俯いた拍子に、前髪で隠されていた赤紫色に変色したお兄様の右目が垣間見えてしまった。
クロウ伯爵家は、とても仲がいい。お父様もお母様もお兄様も、無償の愛を私に注いでくれる。
けれども、時折こうして私の知らない感傷が、彼らの心を曇らせるのだ。16年間生きた今も、その理由は分からないままだった。
もしかすると私が生まれる前に何かあったのかもしれないと思うが、理由を尋ねてみたところで、「フィーネは知らなくていいことだ」とみんなしてはぐらかすのだ。
それだけ子ども扱いされている証なのかもしれないと思うと、何とも複雑な気持ちではあったが、暗くなりかけた雰囲気を元に戻すのは私の役目だ。
「……もう、また私に内緒のお話ですか? 私に聞かせたくないお話なら、私のいないところでしてくださいね?」
敢えて拗ねたように言えば、三人とも、どこか毒気が抜かれたようにふっと笑った。私を慈しむような、優しい眼差しが向けられる。――その視線の中に、懐古の情が垣間見えることには、今日も知らない振りを突き通した。
「それもそうだ。気分を悪くさせたのなら済まなかった、フィーネ」
お父様が整った眉尻を下げて謝罪なさる。お母様がまったくだと言わんばかりに続いた。
「とにかく、フィーネは今夜の支度のことだけを考えていればいいわ。駄々をこねずに、ちゃんとリアたちの言うことを聞くのよ?」
「駄々をこねるなんて酷い言い草ですわ。私はもう16歳、立派なレディですのよ。そろそろ婚約者だって決めたっていいのではありません?」
近頃は、友人たちに婚約者を紹介されてばかりで多少の焦りも覚え始めていた。貴族の婚約は家同士の繋がりを深めるものという意味合いが強いとはいえ、こうも男性の影がないと、自分を美人だと言い張るのも痛々しくなってくる気がしてならない。
「ベルニエ帝国のユリス侯爵家に、私より7つほど年上のご子息がいるでしょう? その方と私はいつ婚約するのです?」
吸血鬼の血は、貴重だ。だからこそ、吸血鬼の結婚相手は吸血鬼であることが大原則だった。お母様のご実家も、今は亡き王国メルヴィルの吸血鬼一族なのだ。
残念ながら私が暮らす王国レヴァインの吸血鬼一族は、我がクロウ伯爵家しかない。従って、私やお兄様の結婚相手は、他国の吸血鬼一族から捜し出すしかないのだ。
幸いにも、隣国であるベルニエ帝国には、ユリス侯爵家という立派な吸血鬼一族がいる。クロウ伯爵家も何度か縁談を結んできた、縁の深い家だ。
そのユリス侯爵家には、今年23歳になろうかというご子息と18歳――お兄様と同い年のご令嬢がいらっしゃるという。私とご子息は多少年が離れているものの、その年齢差を考慮しても尚、理想の結婚相手と言ってもいい。
他の国にも吸血鬼一族はいるが、縁の深いユリス侯爵家に適齢の結婚相手がいるのならば、他を捜す理由もなかった。隣国であるから里帰りだって容易に出来る訳であるし、今までの例に倣っても、私はユリス侯爵家に嫁ぐものだと思っていた。
実際、それをお父様もお母様も完全に否定しなかったから、私は家庭教師に頼み込んで幼いころからベルニエ帝国の言葉を学んできた。おかげで、今では日常会話くらい難なくこなせるようになった。
そういう意味では、いつでも嫁げる状態にはなっているのだ。
だが、不思議なことに、私が結婚適齢期になっても、お父様もお母様もこの婚約に乗り気でないようだった。
何より、お兄様がなかなか許してくださらないのだ。婚約の話になると、必ずお兄様の機嫌が悪くなる。
そしてそれは、今朝も例外ではないようだった。
「フィーネはまだそんなことを考えなくてもいいんだよ。まだ16歳じゃないか」
ナイフとフォークを置いて、お兄様は微笑むように告げたが、唯一窺える左目は笑ってはいなかった。この目は傍目に見れば背筋が凍り付きそうになるほど怖いらしいが、私にとってはどうということはない。
「もう16歳ですわ、お兄様。私、お兄様よりたった二つ年下なだけですのよ? 子ども扱いばかりされては困ってしまいます」
「今朝はやけに食い下がるね。添い遂げたい相手でも見つかったの?」
お兄様にしては珍しく、半ば責めるような物言いだった。これには思わず肩を竦めてしまう。
「そういう、わけではありませんけれど……」
お兄様やお父様、レニー以外の殿方とは、挨拶程度しか会話をしたことがないのだ。添い遂げたい相手なんて見つかるはずがない。
「ノア、そのくらいにしなさい。フィーネが怖がっているだろう」
お父様に軽く諫められ、お兄様はようやく私から視線を逸らした。その横顔が妙に思い詰めているようにも見えて、私もまたお兄様から視線を逸らしてしまう。
お兄様は、過保護だ。多分、傍目にはちょっと異常なくらいに。
――どこにも嫁がなくていい。君はずっとこの伯爵家にいればいいんだ。僕がずっとフィーネを守るよ。
幼い頃、お兄様に抱きしめられて告げられた言葉が今更になって蘇る。流石に今も同じ思いということはないだろうけれど、この言葉は、私が前向きに婚約を考えている要因の一つではあった。
お皿の上に僅かに残っていた料理を平らげて、どことなく気まずい気持ちのままちらりとお兄様を一瞥する。
ふとした瞬間に、白銀の前髪から垣間見える赤紫色の右目。
――私のせいで、色が変わってしまったお兄様の右目。
その目を見るとやっぱり私は、いつまでもお兄様もお傍にいてはいけないのだと思い知らされるような気がするのだ。
「まったく、ノアもそろそろフィーネ離れしないと駄目よ。フィーネだって年頃なの。自由にしたいことだってあるのよ」
助け舟を出すように笑うお母様の言葉に便乗して、「そうよ、お兄様」と笑ったが、本当は私が一番分かっていた。
離れなければいけないのは、私のほうなのだと。
「……ごめんね、フィーネ。ちょっと大人げなかったよ」
多勢に無勢のお兄様は、どことなく覇気のない笑みで小さく謝罪をなさる。深紅の左目はどこか寂し気に揺らいでいて、その目を見ると胸の奥がきゅっと締め付けられるようだった。
「いいえ……私も、我儘を言いすぎました」
「我儘なんかじゃないさ。年頃の女の子としては、当然の想いだろうね」
お兄様は端整な笑みを深める。慈しむようなその眼差しの中には、何かを切望するような、切ない感情が垣間見えた。
その感情に気づかない振りをして、私は今日も子供じみた笑みを浮かべるのだ。
「……ふふ、じゃあお詫びに、今夜もお兄様がエスコートしてくださいね?」
「もちろん」
見つめ合った私たちは、どちらからともなくくすくすと笑い合う。そんな私たちを見たお父様とお母様も、どこか安心するように頬を緩めるのだ。これが、いつもと変わらないクロウ伯爵家の朝だった。
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