吸血伯爵令嬢フィーネの追想録

染井由乃

第一章 偽装婚約と追懐の恋

第1話

 華やかな舞踏会の夜。


 月明かりが降り注ぐ広大な庭の中、人気のない東屋で、私は社交界を賑わす青年を押し倒して、にこりと微笑んでいた。


 押し倒された青年もまた、端整な笑みを深めて、紺碧の瞳で私を睨み上げる。


 傍から見れば、舞踏会の熱に浮かされた二人の男女に見えるだろうか。


 でも残念、私たちの間に流れる空気はそんな甘やかなものではなかった。


 その証拠に、青年は挑発的な笑みを浮かべ、半ば乱暴な仕草で私を引き寄せる。


「本性を現したな、吸血鬼。……必ずこの手で殺してやるよ」


 ご令嬢たちを騒がせる美声で凄む青年を前に、私もまた八重歯を覗かせるようににやりと笑みを深めた。


「ふふふ、威勢のいいこと。でもその前に、私があなたの血、吸いつくして差し上げるわ!」


 月夜に浮かぶ二人の影が長く伸びる。庭園の傍を流れる小川がさらさらと涼し気な音楽を奏でていた。


 なんてことない、ある舞踏会の、夏の夜。


 これが、私の人生を揺らがす運命の出会いであることを、このときの私はまだ知らない。




♦ ♦ ♦︎   




「フィーネお嬢様! お目覚めの時間ですよ!」


 私の一日は、メイドのリアに起こされて始まる。


 天蓋から下ろされた薄紅色の絹のカーテンを割り入って入ってくるリアを、私は瞼を擦りながら見上げた。


「もうちょっとだけ眠っていたいわ……リア」


 我がクロウ伯爵家の美貌を最大限に活用してかわい子ぶれば、リアは灰色の瞳を見開いて一瞬面食らったように瞬きをする。だが、それは本当に僅かな間のことで、すぐに顰め面に戻ってしまった。


「毎朝毎朝同じ手には引っかかりません! さあ、起きてください! ご朝食の時間に遅れてしまいますよ」


「……はーい」


 こうなってしまったら説得しようがない。リアはベッドから引きずり下ろしてでも私を起こそうとするだろう。最終兵器のお兄様を呼ばれてしまっては敵わない。


 寝ぼけた頭でベッドから足を下ろし、リアの手を借りて、真っ白なネグリジェからワインレッド色のドレスに着替える。私のドレスは、どれもこれも濃い色ばかりだ。それも全て、この黒髪と紫の瞳に合わせたものだった。


 姿見に映る私は、自分で言うのもなんだが今日も今日とて大変美人だと思う。お父様譲りの艶のある黒髪、日焼けも染みも知らない白い肌。同年代のご令嬢に比べれば少しだけ高い身長。


 うん、毎晩きちんと手入れしている甲斐があるというものだわ!


 リアの手を借りて黒髪の毛先だけを緩く巻いて、ドレスに合わせたチョーカーを首元に飾れば、伯爵令嬢フィーネ・クロウの出来上がりだ。


「今日も今日とて大変お美しいですわ、お嬢様」


 隣で私の支度をしてくれたリアが、仕上がりを見て満足そうに笑う。私もまた、リアにふっと微笑みかけた。


「えへへ、強そうに見える?」


「それは、どうでしょう……。お嬢様の目は、大変お優しそうに見えますから」


 リアは苦笑いを浮かべてドレスのリボンを直してくれる。メイドなのにお世辞を言わないのがリアのいいところではあるのだが、私としては大変不満だった。


「でも、いいではありませんか。お優しそうに見えて困ることなんてないでしょう?」


 リアの指摘はもっともだが、私としてはやっぱり納得いかないのだ。


 どうしても、お母様のようないかにも「高嶺の花」という雰囲気のレディになりたくて仕方がない。


「困ることはないけれど、やっぱり強そうに見えてほしいわ! だって私は――」


 姿見の前で笑みを深め、胸を張ってみせる。


「――王国レヴァイン唯一の吸血鬼一族、クロウ伯爵家の令嬢なんですもの!」


 こうして胸を張れば、いくらか強そうに見えないかしら、とほくそ笑んでいると、毎朝恒例のやり取りに飽き飽きしているらしいリアが小さく溜息をついた。


「お嬢様、間違ってもそれを外で仰ったりしないようにしてくださいね」


「……言ったところで誰も信じないと思うけれど」


 吸血鬼なんてものは、この国でも周辺諸国でも、お伽噺の中の存在に過ぎない。気の遠くなるような昔には、吸血鬼もそれなりにいて、人間と上手く暮らしていたらしいけれど、時代と共に数が激減してしまった。


 だが、確かに吸血鬼の家系は今も細々と続いているのだ。


 何を隠そう、クロウ伯爵家は、この王国レヴァインの唯一の吸血鬼一族なのだから。


 時代と共に身を潜めるように生きるようになった私たちは、今やごく普通の伯爵家一族として平和に暮らしている。


「いけません。神殿の関係者の中には、今も吸血鬼の存在を信じている者もいるようですし、お嬢様の身に何かあったらと思うと……」


 心配そうに溜息をつくリアを見て、私は軽く頬を緩めた。

 

 リアの一族、バート家は、代々クロウ伯爵家に務める使用人一家だ。


 バート一家だけは、私たちが吸血鬼であることを知っている。だからこそ、他の使用人よりもずっと近い距離でクロウ伯爵家を支えてくれていた。


 リアたちの業務内容は、他の使用人たちとさして変わらない。家事全般に、主の身支度、お茶の用意などだ。


 ただ一つ、彼らにしか出来ない業務があるのだが――。


「さあ、お嬢様。ご朝食の前にちゃんと血をお飲みくださいね」


 リアは慣れた手つきでメイド服の左袖を捲ると、そのまま左手首を私に差し出してきた。


「きょ、今日はとっても体調がいいの。飲まなくても平気かなあ……なんて思っているのだけれど」


 差し出されたリアの白い手首から視線を逸らして、私は取り繕うように笑う。


 だが、吸血に関して人一倍厳しいリアが見逃してくれるはずも無かった。


「何を仰っているのですか。体調を崩してからじゃ遅いのですよ!!」


「うう……」


 ずい、と目の前に差し出されたリアの手首を見て、思わず私は顔をしかめた。


 吸血鬼一族とはいっても、血を飲まなければ死ぬというわけでもない。基本的に栄養は人と同じ食事から摂ることが出来るし、満腹感もそれで得られる。


 ただ、定期的に血液を摂取しないと、調子が悪くなるのだ。


 命に係わるような体調の崩し方ではないのだが、微熱が続いたり、倦怠感がずるずると続いたりするという、地味だけれども妙に不快な状態に陥る。


 それを回避するために、私たちクロウ伯爵家の者は、こうしてバート使用人一家から定期的に血を貰うことになっているのだ。


 貰う血の量だって、大したものじゃない。ワイングラスの半分にも満たない程度の血で、数日は元気に暮らせる。リアたちが健康に被害を及ぼすような量を貰っているわけでもない。

 

 だが、私は吸血鬼一族に生まれながら、この吸血という行為が苦痛で仕方ないのだ。


 白い柔肌に歯を立てるのはものすごく痛そうだし、血は美味しくもない。そもそも、目覚めて早々血を飲むなんて重い。

 

 他の使用人の目に触れないという点で、起床後のこの時間に吸血するのが最も安全ではあるのだが、16年生きてきても未だ慣れない習慣だった。


「ほら! 一思いに! ご朝食が冷めてしまいますよ? ご家族をお待たせしていいんですか!?」


「そ、それは嫌だわ!」


 クロウ伯爵家はとても仲が良い。お父様はお仕事の時間が迫っていたら、やむを得ず先にご朝食を召しあがっていることもあるけれど、それ以外の時は私が席に着くまで必ず待ってくださっている。お兄様に至っては、ご用事があっても私が席に着くまで食事を摂ろうとしない。


 今朝はお父様もお兄様も差し迫ったお仕事は無かったはずなので、きっと待っていてくださるだろう。


 これはリアの言う通り、さっさと血を飲んでしまった方がいいのかしら、と考えあぐねているとき、部屋のドアがノックされる音が響いた。


 このノックの仕方は、恐らく執事のレニーだ。

 

 入室を許可すれば、扉の先から姿現したのは、予想通り、今日も隙なく黒の燕尾服を着こなした執事のレニーだった。


「フィーネお嬢様、ご朝食の準備が整いました」


 恭しく礼をするレニーは、リアの双子の弟だ。リアもレニーも灰色の髪に灰色の瞳という、バート一族特有の色を顕著に表している。


「レニー、あなたもお嬢様を説得して。今朝も血を飲もうとしないのよ!」


 呆れたようなリアの声に誘われて、レニーも私の傍へ寄ってくる。リアとレニーは双子とは言え、十代の後半になれば男性であるレニーの方がリアよりもずっと背が高い。


「お嬢様、また駄々をこねているのですか」


「レニーまで酷い言い方だわ」


 リアとレニーは、幼い頃から私の遊び相手としてこの屋敷に務めていたので、いわば幼馴染のような関係でもある。遠慮のない物言いは相変わらずだった。


「少しはノア様を見習ってください。あの方は、今朝もさらっと吸血をお済ませになったのですよ?」


 ノアというのは、私のお兄様の名だ。白銀の髪に深紅の瞳――訳あって右目は赤紫なのだが――を持つお兄様は、かつて吸血鬼が強大な力を持っていたころの姿とよく似ているようで、吸血鬼の中の吸血鬼、というべきお方だ。


 お兄様は、とても素敵な方だ。クロウ伯爵家はもともと見目に恵まれた者が生まれることが多いと言うが、お兄様の見目麗しさは恐らく当代一であるだろうし、性格だって紳士的でとても優しいお方なのだ。


 私は、そんなお兄様が大好きで仕方がない。それは、幼いころから今も一度もぶれることのない想いだった。


「ほら、お嬢様、ぱくっと一口召し上がれ!」


 リアが再び私の前に手首を差し出してくる。彼女に続いて、レニーも畳みかけるように告げた。

 

「ちゃんと吸血出来たら、おやつはお嬢様の好きなチーズケーキにして差し上げますよ」


「チーズケーキ……」


 それは非常に魅力的な提案だ。なんだかんだ言って過保護なこの二人は、きちんと私が血を飲むまで許してはくれないのだろうし、そろそろ覚悟を決める時間なのかもしれない。


「それとも、今日はリアじゃなくて俺にしますか? 好きな方でいいですよ」


 レニーまで左手首を差し出してくるので、これには困ってしまった。肌の柔らかさは圧倒的に女性であるリアだと思うが、男性であるレニーの方が血を吸われても貧血になりにくいような気がする。


 これは困ったわ、と頭を悩ませていると、不意に背後からふわりと抱きしめられた。


「駄目だよ、フィーネ。血を吸うのはリアからにしなさい」


 甘い響きを伴った優しい声。振り向かなくても分かる。


「っ……お兄様」


 いつ部屋に入ってきたのだろう。まったく気配を感じさせないのもいつものことなのだが、毎回毎回驚かされてしまう私の身にもなってほしい。


「ノア様、助けてください。お嬢様が今日も血を飲もうとしないんです!」


 リアとレニーがそっくりな灰色の瞳でお兄様に訴えかける。


 私もおずおずとお兄様を振り返れば、お兄様は今日も今日とてはっとするほど端整な笑みを浮かべて、私を見下ろしていた。


 お兄様の右目は、色素の薄い白銀の髪で今日も隠されている。それがまたお兄様の神秘的な雰囲気を引き立たせているのだけれど、前髪に隠されたその右目を見ると、今でも少しだけ、心の奥が痛んでしまうことは誰にも内緒だ。


「フィーネ、幼馴染を困らせるのはよくないよ」


 私を抱き寄せるようにして笑うお兄様の腕の中で、彼の左目を見上げる。お兄様の生まれつきの目の色を保つその左目は、血のように深い赤色だ。


「それとも、僕の血をあげようか?」

 

 甘く囁くようなお兄様の一言一言が、いちいち蠱惑的で私はいつも困ってしまう。頬が熱を帯びるのを感じながら、ぎゅっと目をつぶって必死に反論した。


「もう、お兄様! 吸血鬼同士の吸血は禁忌だって、お兄様だってご存知でしょう!」


 吸血鬼はどんな人間の血だって飲めるが、吸血鬼同士の吸血だけは禁忌だった。人が人を食べてはいけないのと同じような倫理観で定められた掟だ。そもそも吸血鬼の絶対数が少ない現代では、殆ど気にかけられなくなった掟ではあるのだが。


 だが、お兄様は一層私との距離を縮めて、愛の言葉でも囁くように甘く笑う。


「フィーネとなら、どんな禁忌も侵せるよ」


 耳の傍でお兄様の吐息を感じて、一層頬が熱を帯びた。


 心臓が早まっていることを悟られたくなくて、意味も無く目をつぶったが、横から漏れ聞こえてきたレニーの溜息に救われる。


「ノア様……頼むからそれ、屋敷の外で言うのはやめてくださいね」


 顔を上げれば、レニーが若干引き気味にお兄様を見つめていた。お兄様はレニーの灰色の瞳を見つめると、意味ありげに微笑んでみせる。


「すぐよからぬ意味で捉えるのはやめた方がいいと思うよ、レニー」


「よ、よからぬ意味って……。あのですね、お二人は大変見目麗しいんです。そこにいるだけで自然と注目を集めてしまうくらいに。話題に飢えた貴族たちは、美しく仲睦まじいお二人を見たら下世話な想像を巡らせるかも――」


 レニーの言葉はそこまでしか聞こえなかった。お兄様が私の耳を両手で塞いでしまったからだ。

 

 レニーとお兄様は何やら言い合っているようだったが、やっぱり私には聞こえない。ようやく手を離して貰えたのは、たっぷり数十秒が経ってからだった。


「まったく、レニーは君の教育に悪いことばかり言って困るね?」


 お兄様は同意を求めるように左目で私を見下ろしたが、二人の会話が聞こえていなかった私には、曖昧に微笑むしかない。


「え、ええ、そうですわね?」


「もう、お嬢様まで! 俺は本気で心配しているんですよ!!」


 レニーは軽く拗ねたようにそっぽを向いてしまった。その様子が何だか可笑しくて、思わずくすくすと笑いが込み上げる。


「……フィーネは体調も良いようだし、今日は血は飲まなくてもいいんじゃないかな。無理に飲ませて朝食が口に入らなくなっても大変だからね」


 お兄様は私の首筋に手の甲を当てて、さりげなく体温を確かめているようだった。


 お兄様の手は、いつも冷たい。夏が始まったばかりの今日も、それは変わらなかった。


「そうやって甘やかして……それでいて、お嬢様が体調を崩したら、この世の終わりと言わんばかりに嘆くんですから厄介な方です」


 リアにまで呆れたように溜息をつかれてしまったが、お兄様はまるで気にしていないようだった。これもいつものことだ。


「父上と母上がお待ちだ。早く行こう、フィーネ」


 エスコートするように差し出されたお兄様の手に、私も自然と自らの手を重ねる。


 いつも通りの、クロウ伯爵家の朝が幕を開けたのだ。

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