第26話

 その後、半ば強制的に公爵家に連行された私は、クラウスと共に怪しいほどに完璧に整えられた昼食をいただき、今は公爵家の広大な庭に流れる小川の縁に立っていた。


 クラウスと言えば、私の隣で呑気に釣り糸を垂らして釣りを楽しもうとしている。きらきらと輝く水面の傍で楽し気に釣りをするクラウスの姿は、それなりに絵になったが、当然ながら私の心を晴らしてくれるようなものではない。


 クラウスに気づかれぬよう小さく溜息をついて、さらさらと流れる小川を見下ろした。ハイデン公爵家の屋敷は王都の中でも外れの方にあるので、自然が豊かな印象だ。クラウス曰く、公爵領の屋敷の庭はもっと広いらしい。


 クラウスに言われるがままに共に食事をし、彼につられてて小川にやって来たはいいが、彼が何をしたいのかは全く分からなかった。彼にどんな意図が隠されているのか分からないが、これではただ一緒に遊んでいるだけだ。


 想い合う婚約者同士なら、これも素敵な休日の過ごし方なのかもしれないが、私とクラウスはそんな甘い関係ではない。クラウスの考えていることが分からないこの状況は、どうにも気が抜けなくて疲れてしまいそうだ。

 

 クラウスには、お兄様の婚約の話はしていなかった。今はとてもじゃないが、冷静に話せる心境ではないのだ。


「フィーネ、もっとこっちに来い。魚が見えるかもしれないぞ」


 やけに親し気にクラウスに呼びかけられ、渋々彼の隣に移動する。指の長さほどの小魚の影ならば、先ほどからちらちらと見えていた。


 クラウスは、実に楽しそうに釣りをしていた。「王子様」と言った風情のクラウスには陽の光は良く似合っていたが、彼の性格を考えると釣りなんていう素朴な遊びを楽しむのは少しだけ意外な気がする。


「……クラウスは、釣りが好きなの?」


 傍に寄ったことで沈黙が気まずくなり、社交辞令的に問えば、クラウスはふっと自慢げに笑った。


「一人で出来ることは大体好きだ。釣りも読書も、絵を描くのもな」


「へえ……それは意外だったわ。絵を描いたりするのね」


 私も嗜み程度に挑戦してみたことはあるが、まるで才能はなかった。お兄様は手放しに誉めてくださったが、私に甘いお父様やお母様が笑みを引きつらせる出来栄えだったということは相当だ。


「父上と母上くらいにしか見せたことはないんだが……昨日、過去の絵を整理していたら、面白いものを見つけてな」


 ちらりと私の様子を伺うクラウスに視線で続きを促せば、彼は間を置かずに口を開いた。


「例の……薄紅色の花の絵があったんだ。随分幼いころに描いているから、見れたものじゃないが……」


「薄紅色の花って……夜会の時にあなたが思い浮かべたという花?」


「ああ」


「それは少し……気になるわ。私ね、あの花をよく夢に見るのよ」


 クラウスと見ている花が同じだったなら、私たちには何か共通点があるということなのだろうか。薄紅色の花と共に蘇る、あの得体の知れない懐かしさの正体に一歩近づけるかもしれない。


 正直に言えば、クラウスが幼少期に描いたというその花の絵を見てみたかったが、公爵夫妻にしか見せていないようならば、私が見ることは叶わないだろう。


「夢に、か……」


 クラウスは意味ありげに繰り返したと思えば、小川から視線を上げて横目で私を捉えた。


「じゃあ、後で見に行くか? 本当に、大した絵ではないんだが……」


 クラウスらしからぬ親切な申し出に、思わず目を見開いてしまう。ご両親にしか見せない絵を、どうして私に見せてくれようとするのだろう。


「それは……ありがたいけれど、いいの?」


「別に、隠している趣味というわけでもない。それに……」


 クラウスは再び小川に視線を落とすと、ぽつりと呟いた。


「……何となく、お前になら見せてもいいかと思ったんだ」


「っ……」


 一体、どういう心境の変化だろう。思わず何度も大袈裟に瞬きをしてクラウスを見つめてしまう。


 確かに私もあの夜会を機に、クラウスに対する感情は多少変わった。憎らしいだけの公爵令息ではなくなった。


 でも、彼は別だと思っていた。彼は吸血鬼を憎んでいる。私のことなんて、優しくする価値のない化け物だと決めつけていて、それは揺らぐことはないと思っていたのに。


 何だか、調子が狂う。クラウスも、自身の心境の変化に戸惑うような素振りを見せるから尚更に質が悪い。


 返す言葉を探すように、小川が反射する陽光を見つめていると、不意にクラウスが声を上げた。


「お、釣れそうだぞ、フィーネ」


 クラウスの言葉通り、彼の持つ釣り竿から垂らされた糸が揺れていた。釣りというものを間近で初めて見る私は、好奇心を隠さずにその様子を見守った。


 それをクラウスも見ていたのか、にやりとどこか意地の悪い笑みを浮かべたかと思うと、突然に釣り竿を差し出してきた。


「ほら、貸してやるから釣ってみろ」


「え!?」


 問答無用で釣り竿を手渡され、間抜けな声を上げてしまう。案の定、その動揺をクラウスに笑われたが、張り詰めた糸が揺れるさまを前に、私は気が気ではなかった。


「ちょっと! 私、お魚なんて釣ったことないのよ! どうすればいいの!?」


「そのまま思いきり引いてみろ」


「そんなこと言われたって……」


 魚が糸を引く未知の感覚に、やはり戸惑ってしまう。詳しくは分からないが、ぐずぐずしていてはいけないのではないかと焦る気持ちも生まれた。


 クラウスはそんな私を見て笑っていた。だが、馬鹿にするような笑い方ではなく、奮闘する私を慈しむような感情が窺えて、ますます調子が狂う。


「ほら、早くしないと逃げてしまうぞ。吸血鬼のくせに、小魚相手に怖がるなよ」


「お魚の血なんて飲まないもの! 獲物にしたことが無いものは全部怖いわよ!」


「よく分からない理論だな……」


 くつくつと笑いながら、不意にクラウスが背後から私の手に手を重ねる。彼らしくない行動に戸惑うよりも、私は目の前の魚を何とか逃がさないことに必死だった。


 そのままクラウスの手に導かれるようにして釣り竿を引くと、簡単に小魚が水面から顔を出した。思わずクラウスの方を振り返り、達成感から満面の笑みを浮かべる。


「釣れた! 釣れたわ! クラウス!」


 半ば興奮気味に報告すれば、クラウスは驚いたように私を見つめ、ふい、と視線を逸らしてしまった。


「……殆ど俺の力だけどな」


 減らず口を叩きつつも、クラウスは私の方を見ようとはしなかった。耳の端が僅かに赤かったが、今は彼に構っている暇はない。


「クラウス! このお魚どうすればいいの!? このまま持っていくの?」


 釣り糸にぶら下がるようにしてぴちぴちと尾ひれを動かす小魚の扱いは、私にはまるでわからなかった。このまま何か水につけた方がいいのだろうか。


「あまり振り回すな。貸せ」


 クラウスは私の手から釣竿を回収すると、慣れた手つきで糸から魚を取り外し、水が張られた桶の中に入れた。狭い桶の中で小魚は再び元気に泳ぎだす。


「これ、食べられるの?」


「恐らくな」


 思わず屈みこんで魚を覗き込んでみる。思えば、生きた魚をこんな間近で見たことは初めてだ。


「生きているお魚ってきらきらしていて綺麗なのね」


 感心するように呟けば、頭上からくすくすと笑い声が降ってくる。軽く顔を上げれば、クラウスがいつになく柔らかな表情で笑っていた。


「お前は子どもみたいだな。可愛らしい一面もあるじゃないか」


 ごく自然な調子で紡がれた言葉だったが、言い終わってから、はっとしたようにクラウスが私を見つめる。


 クラウスが、私を可愛らしいというなんて。見た目を皮肉交じりに褒められたことはあっても、そんな言葉は初めて聞いた。


 だが、それよりも子どもみたいだと言われたことの方が気にかかるのは事実だった。私は立ち上がるなり、ずい、と彼に詰め寄って、普段の調子で口を開いた。


「初めて釣りをしたんだもの。仕方ないでしょう? 次はおしとやかに釣ってみせるわよ」


「釣りに淑やかさなんて求めてないだろ、誰も」


「いいから、早く次の準備をしてよ!」


「相当お気に召したらしいな? そうやって笑ってる方がずっといいぞ」


 クラウスは指先で私の頬をつねると、彼らしくもない楽しそうな笑みを浮かべて私を見下ろした。


 やっぱり、今日は調子が狂いっぱなしだ。そんな風に笑われると、どんな表情をしていいのか分からなくなる。


「あ、悪い。魚を触ったままの手だった」


「最低! もう! レディの顔を何だと思ってるのよ!!」


 一瞬だけ神妙になりかけた雰囲気が、クラウスの一言で見事に崩れ去る。それもなんだか彼らしいような気がして、気づけば私は、私を悩ませるお兄様への想いも憂いもこの一時だけは忘れて、ごく自然な笑い声を上げていたのだった。

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