第27話
「うーん、なかなか難しい装飾ですね……。お時間を取ってしまい申し訳ありません」
「いいのよ、リア。突然ごめんなさいね」
ハイデン公爵家の客間の姿見の前、私とリアは着慣れぬデザインのドレスと格闘していた。洗いさらした黒髪からは、伯爵家で使っているものとは別の石鹸の香りがする。
伯爵家から着てきたワンピースは、今は公爵家のメイドたちの手によって洗われているはずだ。
こんな事態になったわけを語るには、今から一時間ほど前に遡らなければならない。
♦ ♦ ♦
「見て、クラウス! また違う種類のお魚が釣れたわ!」
クラウスの指導のもと、小川での釣りに夢中になっていた私は、すっかり慣れた手つきで小魚を釣り糸から取ると、水を張った桶の中に入れた。悔しいがクラウスの指示は分かりやすく、私もだいぶコツを掴んできた気がする。
「慣れたものだな……。それにしても、社交界の高嶺の花が釣り、ね……。男どもが聞いたらどんな顔をするかな」
「何よ、教えたのはあなたじゃない」
再び釣り糸を垂らして小川に向き合えば、背後から楽し気な笑い声が聞こえてくる。
「いや……お前がこんなに釣りが好きだとは思わなかった。連れて来た甲斐があったな」
「まさか、今日の目的は釣りなの……?」
私の隣に立ったクラウスを見上げれば、彼はふっと口元を緩める。
「まあ、当たらずとも遠からずだな……」
「それならそうとあらかじめ言ってくれれれば、もっと動きやすい服装で来たわ」
街に出るために誂えたワンピースだから、普段のドレスよりはずっと動きやすいが、こうして野外で遊ぶのならもっと装飾の少ないものを選んだだろう。今、私が身に纏っているワンピースは、シンプルながらもリボンが至る所にあしらわれていて、外で遊ぶのには向いていない。
「へえ、意外だな。釣りなんていう何でもない用事で呼び出しても、来てくれるってわけか」
クラウスのその言葉に、思わずはっとした。あんまり楽しかったから忘れていたが、彼とは契約関係に過ぎないのだ。確かに普段の私ならば、「そんな用事で呼び出さないでくれる?」と可愛げのないことを言っただろう。
「っ……別に、命のかかった契約なんだからどこへ呼び出されたって行くってだけよ。深い意味はないわ」
取り繕うように否定したものの、既に遅かったらしく、クラウスはどこか意味ありげなにやにやとした笑みを浮かべていた。
今日は優しい一面を見せることも多いが、やはり腹立たしい男だ。気に食わない。
ふん、と鼻を鳴らすようにして再び小川の方へ向き直ると、ふと、小川を挟んだ芝生の上に小動物がいることに気が付いた。
白い羽根とまるまるとした体が何とも愛らしい。思わず、先ほどまで抱いていた苛立ちも忘れて、クラウスの方へ向き直る。
「見て! クラウス! アヒルがいるわ!」
思ったよりもクラウスは傍にいて、距離の近さに軽く瞬きをしてしまったが、彼もアヒルの存在に気が付いたらしく、ふっと頬を緩める。
「本当だ。珍しいな」
「どこから来たのかしら?」
「もしかしたら逃げ出してきたのかもしれないな。後で使用人に確認してみよう」
「随分悠長ね。その間にもっと遠くに行ってしまったらどうするの?」
思わず一歩踏み出して、アヒルの動向を探る。さっさと捕まえに行った方がいいのではないだろか。
「おい、あんまり足を踏み出すなよ」
クラウスらしからぬ心配の仕方に、思わずにやりと笑みが浮かぶ。
「意外に心配性なのね、大丈夫よこのくらい――」
そのまま半身彼の方を振り返った瞬間、ふと、足が滑るのが分かった。クラウスがひどく慌てたように紺碧の瞳を見開く。恐らく、私も似たような顔をしていただろう。
「っ……フィーネ!」
クラウスの手が腰に回るのが分かったが、遅かった。ばしゃん、と大きな水音を立てて、私たちは小川の中に落ちてしまった。
ごく浅い小川だから、流される心配というよりも川底に腰を打ち付けた痛みの方が勝っていた。ゆっくりと体を起こせば、しゃがみ込むように折り曲げた足が浸る程度の浅さの川だということが分かる。
この衝撃で、魚はきっと逃げてしまっただろう。ぽたぽたと水の滴る黒髪を耳にかければ、私と同じく無様にも小川に落下したクラウスの姿が目に入った。
彼は私ほど濡れているわけではなさそうだったが、跳ねた水が顔や髪についたらしく、ぽたぽたと水が滴っていた。その水滴が陽の光に照らされてとても綺麗で、吸血鬼の私からすれば眩しい類の美しさを放っていた。
「ふふ、庇ってくれようとしたのね。間に合わなかったみたいだけれど、一応お礼を言っておくわ。ありがとう」
小川にしゃがみ込んだまま我ながら素直ではない礼を述べれば、クラウスは大げさな溜息をつく。
「だから言っただろう。あまり前に進むなと」
「でも、少し暑かったから心地いいわ。私、小川に入ったのは初めてよ!」
「そりゃそうだろ……。お前は腐っても伯爵令嬢なんだから……」
クラウスは呆れたように笑いながらも私を視界に収めると、ふと、安堵にも似た眼差しを私に向けた。
「……少しは元気になったようでよかった」
まるで独り言のように紡がれたその言葉に、彼自身驚いているようだった。思わず、私も目を丸くしてしまう。
「……私が落ち込んでいること、分かってたの?」
陰鬱な表情だ、とは指摘されたが、まさか彼が私の心情にまで気を遣ってくれているとは思わなかった。
「お前は単純だから、考えていることが手に取るようにわかるってだけだ」
どこかきまり悪そうに視線を彷徨わせるクラウスに、私は川底に手をつきながら、ずい、と詰め寄った。紺碧の瞳が、戸惑うように私を映し出す。
「まさか……食事も、釣りも、私の気を紛らわすためなの?」
まさか、クラウスに限ってそんな、という思いは当然ある。だが、今日の彼の妙に優し気な振舞や言動を思えば、そう不思議なことでもなかった。
そのまま、まじまじとクラウスを見つめていると、私の視線に耐えきれないとでも言うように、彼はふい、と顔を背けてしまった。
「……皆まで言わせるなよ。情緒のない奴め」
クラウスは溜息交じりに立ち上がると、紳士的に私に手を差し出してきた。今までのクラウスからしてみればおかしな行動だが、今日に限って言えばもう珍しくもない。
何だか口元がにやけるような不思議な感情を味わいながら、私は素直に彼の手に手を重ねた。
「湯を用意させよう。お前が着られそうなドレスなんかあったかな……」
クラウスに手を引かれるままに立ち上がれば、水を吸って重くなったワンピースのせいで軽くよろめいてしまう。
再びバランスを崩して倒れ込みそうになった私を、クラウスが抱き留めた。今度はしっかり姿勢を保ったままだ。
「……呆れた運動神経の悪さだな」
「水に濡れたワンピースなんて初めてだから戸惑っただけよ! でも……ありがとう」
「まったく、目を離せないお嬢様だな?」
からかうようなクラウスの言葉に一睨みをしたのち、やがてどちらからともなくくすくすと笑い合う。相手はクラウスだと言うのに、とても穏やかな心地だった。
「ふふ、とても楽しかったわ。また一緒に遊んでね、クラウス」
彼の紺碧の瞳を見上げるように告げた瞬間、この間の夜会の時のように、途方もない懐かしさと僅かな頭痛に襲われる。
――フィーネ、あまりはしゃぎ過ぎると皆を心配させてしまうぞ。お前はその身の尊さを分かってない。
――でも、楽しいんだから仕方ないわ! またフィーネと一緒に遊んでね!
薄紅色の花弁と共に蘇るのは、黒髪の少年と少女が楽しげに笑い合う風景。眩暈にも似た壮絶な懐古の情に、ともすれば涙が零れそうだった。
クラウスもまた、先ほどまでの穏やかな笑顔はどこへやら、泣き出しそうな目で私を見下ろしていた。
夕焼けの色が混じり始めた陽が、クラウスの姿を照らし出す。彼はどこか茫然とした面持ちのまま、そっと私の髪を耳にかけた。
「……お前は……一体何なんだろうな、フィーネ」
「……それは、私も訊きたいところだわ。あなたは、私にとっての何?」
答えの出ない問なのだと、お互いに分かっていた。分かっていても目が離せなかった。
そのまましばらく小川の上で見つめ合った後、クラウスに手を引かれるようにして、ようやく私はその場を後にしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます