第25話

 陽光を受けて煌めく噴水を、ぼんやりと眺めはじめてからどのくらいの時間が経っただろう。

  

 リアとレニーを連れて街へ繰り出したはいいものの、買い物もろくにせず、ただ王都の広場のベンチに座り、道行く人を眺めるという無為な時間を過ごしていた。


 王都の広場には、巨大な噴水があり、それを中心に多くの人で賑わっている。ここ王国レヴァインは水の国と言われるだけあって、噴水や人工的な小川など、水を用いた意匠が多く見受けられるのだ。


 今日はよく晴れ渡っているから、水が一層美しく見える。天気が良いのは幸いだった。これだけでも屋敷にいるよりはいくらか気分が晴れるのだから。


 普段ならば、こんなにも長い時間外にいると、「日焼けをする」だの「体調を崩す」だのとリアとレニーが口うるさく咎めてくるのだが、今日だけは例外らしい。二人とも、私の座るベンチの後ろに控えながら、取り繕ったような励ましの言葉を並べてばかりいる。


 二人に気を遣わせてしまって申し訳ない気持ちだが、謝る気力も気丈に振舞う元気も湧いてこなかった。少しでも気を抜けばすぐにお兄様のことを考えてしまう。

 

 街行く恋人たちの姿も、幸せそうな家族の姿も、今の私にとっては心の傷を抉るものでしかなかった。


 お兄様はいずれ、ミシェル嬢と二人であんな風に歩いたりするのだろうか。子どもが生まれれば、家族で穏やかな休日を過ごして、それで――。


 考えないようにしようとしても、嫌でもその光景が目に浮かぶ。誰からも祝福されるお兄様の幸せな日々のはずなのに、その幸せな未来の中に私がいないということが悲しくて辛くて仕方がなかった。


 この婚約をきっかけに、きっとお兄様は私から解放される。それは何より喜ばしいことのはずなのに、心の底からお兄様を祝福できるようになる日は随分と遠いらしい。


「お嬢様、そろそろお昼の時間です。ご朝食もろくに召し上がっておられないのでしょう? 屋敷に戻るか、このあたりの質の良い店でご昼食を――」


「――いらないわ。リアとレニーで行ってくるといいわよ。たまには二人で街を歩くのも悪くないんじゃない?」


 ここからは見えないが、リアとレニーの他にも護衛はいるはずだ。特に問題はないはずなのだが、帰ってきたのは珍しく息のあった溜息だった。


「ご冗談を……。いくら護衛がいるとはいえ、お嬢様を一人で置いていくはずがないでしょう」


「そうですよ! ただでさえ、王都の広場でぽつんとベンチに座るお嬢様は目立っているのですから」


 確かに先ほどからちらちらと道行く人の視線を受けている気がした。動きやすいワンピースを選んだとはいえ、質の良さは隠せていないのか、見る人が見れば私が貴族の娘だとばれてしまっているのだろう。


 加えて私の背後を守るように控える灰色の髪の双子と来れば、気にならない方がおかしかった。これは、場所を改めた方がいいのかもしれないが、どうにも動く気になれないのが悩ましいところだった。


「……お嬢様、そろそろお屋敷に戻りましょう? お嬢様の好きなチーズケーキを焼くようにシェフに頼んでおいたのです。クリームもたっぷり付けて、とびきり甘くしましょう。ね?」


 普段なら一も二もなく飛びつく素敵な提案だったが、今の私の心はチーズケーキごときじゃ釣れなかった。なんなら、幾度となくお兄様と一緒に食べたチーズケーキのことはもう嫌いになりそうだ。


 私は首を横に振って、膝の上に揃えた自分の手に視線を落とした。


「……嫌よ。今日はもう屋敷に帰りたくないわ」


 そんなこと叶わないと分かっているが、言わずにはいられなかった。リアとレニーの目には、さぞかし我儘なお嬢様に映っているだろう。まるで子供のころに戻ったかのようだ。


 そう、もともと私はどちらかと言えば我儘な性格なのだ。年を重ねるにつれて人並みに分別が付くようになったけれど、心が揺さぶられる時に露わになるのは、いつだって素の自分だと決まっている。


 自分の憂いを人にぶつけるように我儘になるなんて、立派な令嬢への道はまだまだ遠いらしい。いつになれば私は、お母様のように素敵な女性になれるだろう。


 溜息交じりに軽く目を瞑れば、不意に、くつくつと笑う、聞き慣れた声が降ってきた。


「安い誘い文句だが、お前に言われたら放っておく男はまずいないだろうな」


「っ……」


 驚いて顔を上げれば、目の前には普段よりいくらかカジュアルな格好をした、クラウスの姿があった。右手には未だ包帯が巻かれているが、それ以外はいつも通りのクラウスだ。その憎たらしいほど整った見目も、胡散臭い笑い方も。


「……クラウス、御機嫌よう。悪いけれど私……今はあなたに構ってあげられる心の余裕はないのよ」


 開口一番に彼を拒絶すれば、クラウスは意味ありげな笑みを浮かべたまま、何の断りもなく私の隣を陣取った。慣れ慣れしくベンチの背もたれに腕を回す仕草も様になっているが、傍から見れば偶然出会った女性を口説く軽い男にしか見えないだろう。現に、先ほどから私に向けられる視線にちらちらと不安げな色が混ざっている。


「相変わらず可愛げのない物言いだな。それに、その顔は何だ? あいつに負けず劣らず陰鬱な表情をしているじゃないか」


 笑うような声に、彼から視線を逸らすことしか出来ない。今はお兄様の話題を口にしてほしくなかった。


「別に私がどんな表情をしていようが関係ないでしょう。さっきも言った通り、今はあなたの相手をする元気はないの。帰って頂戴」


 いくらクラウス相手でも、ここまで言うのは初めてだった。流石に失礼が過ぎると自分でも思うが、これに憤慨して、さっさと帰ってくれればいい。


「用ならあるさ。今から俺の屋敷に来い」


「……何か用事があるのならあらかじめ知らせてって言ったじゃない。こんなワンピース姿じゃ公爵様にもお目にかかれないわよ」


「父上は関係ない。いいから来い」


「何よ、先に用事を言って――」


 そう言い終わるか否かという瞬間、不意にクラウスの手が私の腰に伸び、抱き上げられ――否、持ち上げられた。この間の夜会と同じような体勢だ。


「っちょっと、何をしているの。傷口が開くわよ!」


 クラウスの無駄に整った顔を見下ろしながら文句を投げつければ、彼は柄にもなくどこか眩しそうに笑った。


「言っただろう、お前は頭も体も軽いから扱いやすいって」


「本当に失礼な人ね。いいから降ろして頂戴‼」


 こんな嫌味の応酬でさえ、今の私には荷が重い。クラウスの手前、弱っている姿を見られたくないという見栄だけが私の口を開かせていた。


「公爵家に来るなら降ろしてやってもいいが?」


 クラウスは私たちが一目を集めていることに気づいているのだろう。彼は人混みが苦手なはずなのに、私の前では憎々しいほどに普段通りの彼だから困ってしまう。


「……っ分かったわよ。行くから早く降ろして!」


 半ば自棄になって返事を返せば、クラウスはどこか満足げに笑み深め、ようやく私を地面に降ろしてくれた。私たちを傍で見守っていたであろうリアとレニーに視線を送れば、二人ともどこか唖然とした様子で私たちを見ている。


「そうとなればさっさと行くぞ。向こうの通りに馬車を待たせてある」


 本当に強引な公爵令息様だ。契約とはいえ、彼の婚約者役というのも骨が折れる。

 

 再び溜息をついて軽く頭を押さえれば、不意に私の目の前にクラウスの左手が差し出された。何のつもりかと彼の顔を見上げれば、彼は僅かに苛立ったように見つめ返してくる。


「何をしている、早く行くぞ」


「それは分かったけれど、この手は何?」


 吸血鬼である私を虫のように嫌う彼が、わざわざ公の場でもない場所でエスコートをするとは思えない。人目を気にしているのだろうか。


 彼の真意を伺うように紺碧の瞳をじっと見つめていると、やっぱり彼は苛立ったように小さく息をついて、何の断りもなく私の右手を取った。そのまま私の手を握り、さっさと歩き出してしまう。


「っ……ちょっと」


 これでは、エスコートというより手を繋いでいると言うべきだろう。当然ながらクラウスにこんな風に手を握られたのは初めてで、私らしくもなく動揺してしまう。


 クラウスは、何も言わなかった。ただ、その後ろ姿は夜会以前に私に見せていたものとは違って、少しだけこちらを気遣うような、思いやりに似た何かを感じてしまう。


 クラウスの中で、私に対する何かが変わったのだろうか。ただでさえお兄様のことでもやもやとしていた心の中に、新たな疑問が芽生える。


 だが、彼の後姿はそれを問うことを許しておらず、私は彼に連れられるままに、公爵家の馬車に向かうのだった。

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