第8話

 そういうわけで、私は今、両親とお兄様を交えて、クラウスとの婚約について話し合うお茶会に参加している訳なのだが、半分が自分が仕向けたこととはいえ、どうにも気分が重かった。


「……話は分かりました。ハイデン公爵令息が、フィーネとの婚約を望んでくださっていることを大変光栄に思います」


 歯の浮くような台詞を並びたてたクラウスの婚約打診を聞き届けたお父様が、穏やかな物腰で口を開く。


「ただ、何分急なお話ですので……今すぐにお返事をするわけには参りませんな。娘の気持ちも、きちんと確認しなければなりませんから」


「それもそうでしょう。今日この場で正式な婚約を結べるとは私も思っていません」


 クラウスは文句のつけどころがない好青年を演じて、人好きのする笑みを浮かべた。私からしてみればやっぱり、胡散臭い表情にしか見えないのだが。


「ですがせめて、この先の夜会でフィーネ嬢のパートナー役を務めさせていただくことをお許し下さい、クロウ伯爵」


「それは、もちろん構いませんが……」


 お父様は愛想笑いに近い笑みを浮かべながら、視線だけでお兄様の方を見つめた。


 今まで私をエスコートするのは、お兄様の役目だった。だからこそ、お兄様に私のパートナー役を譲るかどうかを問うておられるのだろう。


「社交界に出て日が浅いですが、貴殿の妹君は私がちゃんとお守りいたしますよ。殿?」


 クラウスの笑顔は完璧だったが、お兄様からしてみれば挑発されているようにしか感じないだろう。


 その証拠に、お兄様は不快な感情を隠そうともせずにクラウスを睨みつけていた。それはまるで、殺意と見紛うような鋭い視線だった。


 お兄様は、相当お怒りのようだ。多分、私に対してもかなり苛立っているだろう。


 お兄様への申し訳なさで胃の奥がきりきりと痛むようだったが、それでも私は微笑み続けた。クラウスとの婚約を推し進めるならば、恋の熱に浮かされる少女を演じ続けるしかないのだ。


「では、私はこの辺で。突然の訪問を歓迎してくださってありがとうございました。また、近いうちに伺うことになると思いますが、そのときもどうぞよろしくお願いします」


 時間にして一時間にも満たない短いお茶会だったが、緊張感は並大抵のものではなかった。ようやくこの気まずい時間が終わることに安堵しながらも、クラウスを見送るために立ち上がる。


「ええ、またいつでもいらしてください。門までお見送りいたします」


 お母様だってこの話には思うところがあるはずなのに、クラウスに向ける笑顔は文句のつけようのない見事なものだった。


 お父様も席を立ってクラウスを見送る姿勢を示す。だが、お兄様だけは、未だ席に座ったままだった。


 お母様はそれを気にするようにちらりとお兄様を見やったが、無理に立たせようとはなさらず、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化す。


「いえ、どうかこのまま家族団欒の時をお楽しみください。見送りはフィーネ嬢だけで充分ですので」


「まあ……では、そのように。フィーネ、きちんとお見送りするのよ」


 お母様はどことなく不安げな眼差しで私を見ていた。それは、私がクラウスに失礼を働くのではないか、という類のものではなく、私の身を案ずるようなものだった。


 流石はお母様、人を見る目に長けていらっしゃる。クラウスがどれだけ甘い言葉で飾り立てようと、彼が私をひとかけらも愛していないことを見抜いておられるのだろう。


 やっぱり、お母様には敵わないわね、と苦笑を零しながら、私はクラウスに差し出された手に手を重ねる。


「心配なさらないで、お母様。……ではクラウス様、参りましょう?」


 クラウスの紺碧に瞳を見上げて微笑めば、彼もまた、意味ありげな笑みを浮かべるのだった。






「どういうつもりだ?」


 屋敷から十分に離れ、公爵家の馬車までやってきたところで、クラウスが訝し気に問いかけてくる。


「どういうつもり、って?」


 敢えてとぼけてみせたが、無駄だった。彼は疑うような眼差しを向けてくる。


「婚約に乗り気な姿勢を示すなんて、どういう心境の変化だ、と訊いているんだ。あんなに嫌がっていたのに」


「勘違いしないでほしいからこれだけは言っておくけれど、あなたのことが好きになったとかではないわ」


「それはそうだろうけどな……」


 はっきり言われると腹立たしいものだな、とぶつぶつ呟くクラウスを横目に、私は腕を組む。


「私にも思うところがあるってだけよ。別にいいでしょう? 私が前向きな姿勢を示せば、この話は進みやすくなるんだから」


「まあ、それはそうだな。あいつが嫉妬に狂う様も見られたことだし、俺としては予想以上の収穫が得られたといってもいい」


 クラウスはお兄様の絶望に翳る表情を思い出しているのか、ふっと笑みを深める。やっぱりとんでもなく性根が腐っているらしい。


「それにしても、俺の読みは当たりだったな。お前は、あいつを苦しめるにはもってこいの手札だ。本当にただの兄妹なのか?」


「下世話な想像を巡らせているところ悪いけれど、ただの兄妹よ」


「仮にお前がそう思っていたとしても、あいつも同じように考えているとは思えなかったけどな」


 クラウスは、妙に勘が良い。優秀だと言う噂は伊達ではないようだが、今だけはその鋭さを忌々しく思った。


 彼が私をどのように扱おうが、この領域にだけは踏み込ませるわけにはいかないのだ。これは私とお兄様の問題なのだから。


「あの手の男は厄介だぞ。嫉妬に狂った兄に殺されるお前を見るのも悪くないが……婚約者としてある程度役に立ってからにしてくれよ」


 クラウスは口元ではにやにやと笑っていたが、彼にしては珍しく、私を心配するような眼差しを私に向けた。それだけ、先ほどのお兄様の姿には思うところがあったのかもしれない。


「馬鹿なこと言ってないで、さっさと馬車に乗ったらどう? 御者を待たせているじゃない」


 私たちが公爵家の馬車の前に来てからというもの、公爵家の御者はいつでも馬車を出せるように待機しているようだった。私たちの会話が聞こえない程度の位置に控えているが、いつまでも待たせるのも可哀想だ。


「これは驚いた。吸血鬼のくせに人を憐れむことが出来るとはな」


「私たちを何だと思っているのよ……」


 溜息交じりに問いかければ、クラウスは冗談めかした笑みを浮かべたままゆっくりと私を見据える。


「何って、それはもちろん――」


 笑うようなクラウスの眼差しに、軽蔑の色が混じる。


「――人の血を食らう化け物だろ?」

 

 クラウスは笑っていたが、その言葉には並々ならぬ憎悪が窺えた。今更、彼に化け物だと罵られたところで傷つくような繊細な心は持ち合わせていないが、その憎悪の深さは気になってしまう。


「……あなたにそこまでの憎悪を抱かせるなんて、お兄様は一体あなたに何をしたの?」


 この馬鹿げた婚約話も、全てはお兄様への復讐のためだと彼は言う。


 だが、お兄様はクラウスを見ても表情一つ変えなかった。演技だという線も捨てきれないが、かつて苛んだ相手を前にして、視線一つ揺らがないほど、お兄様は感情を隠すのが得意なわけではない。


「……お前に話す必要もない話だ。また連絡する」


 クラウスはこの話題に踏み込まれるのが嫌だったのだろう。先ほどまで浮かべていた胡散臭い笑みの一切を失った無感情な表情で淡々と別れの言葉を述べると、馬車に乗り込んでしまった。


 踏み込まれたくない領域があるのは、お互い様のようだ。お互いにいがみ合っているのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが。


 ただ、クラウスの抱えている事情はお兄様が絡んでいるだけに妙に気にかかる。このまま婚約者としてそれなりに付き合っていたら、いつかは教えてくれるだろうか。


 すっきりとしない心のまま、私はその場に立ち尽くすようにして、公爵家の馬車が見えなくなるまで見送った。傍から見れば、恋人との別れを惜しむ健気な少女にでも見えているだろうか。

 

 あまり遅いと、お父様とお母様を心配させてしまうだろう。


 そう思い、屋敷に戻ろうと踵を返したところで、思わず息を呑む。


「っ……お兄様?」


 振り返った先には、翳った瞳でこちらを見つめる、お兄様の姿があったのだった。

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