第9話

 広大な伯爵家の庭で、お兄様と私はぎりぎり会話が出来る程度の距離を保ったまま、お互いに立ち尽くしていた。


 お兄様は一体、いつからそこにいらっしゃったのだろう。まるで気配を感じさせないのはいつものことなのだが、お兄様は翳った表情のまま、ただじっと私を見つめていた。


「……遅くなってごめんなさい。迎えに来てくださったの?」


 お兄様にどんな表情を向ければいいのか分からなくて、取り繕うような笑みを浮かべてしまう。お兄様に対してこんな笑い方をするのは初めてのことだった。


 お兄様はきっと、私の笑い方が気に食わなかったのだろう。不快そうに眉を顰めると、そのまま私の前に歩み寄り、お兄様にしては珍しく強引に私の手首を掴んで歩き出した。


「っ……お兄様?」


 決して、手が痛くなるような掴み方ではない。だが、振り払うことが出来ない程度には強く掴まれていて、私はただお兄様についていくしかなかった。


 屋敷に入ってからも、無言で黙々と突き進むお兄様と私を、仕事中の使用人たちが不安そうに見守っている。無理もない。普段呆れられるほどに仲睦まじい私たちが、緊迫感を漂わせて歩いているのだから。


 お兄様に連れられた先は、お兄様の私室だった。幼い頃はまるで自分の部屋のように入り浸っていたけれど、このところはほとんど足を運んだことが無い。


 久しぶりのお兄様の部屋は、相変わらず余計なもの一つ置いていない質素な部屋だった。飾り立てないから、ただでさえ広い部屋が余計に広く感じる。


 お兄様の部屋は、いつだって、お兄様の優しい香りと血の臭いがする。今朝もきっとこの部屋で、使用人の誰かから血を貰って飲んだのだろう。


 その光景を想像するだけでも許されないことのような気がして、思わず俯いてしまう。どくん、と心臓が大きく脈打つのを感じた。

 

 吸血鬼の形質が濃いお兄様は、私よりもずっと多くの血を飲まなければ体調を保てない。だから、お兄様付きのバート一族のメイドは何人かいて、交代で血を差し出しているそうだ。


 お兄様付きのメイドは、皆、お兄様に恋をしていると思う。クロウ伯爵家に代々仕えてきたバート一族の者だから、決して職務をおろそかにしたりはしない真面目なメイドたちだけれども、彼女たちがお兄様を見つめる目には明らかに特別な熱が宿っていた。

 

 私は、彼女たちが羨ましかった。身分差はさておき、何の障害もなくお兄様のことをそんな目で見つめられる彼女たちが。


 お兄様は無言で私をソファーに座らせると、向かい合うように床に膝をつき、そっと私の手を包み込むように握った。相変わらず冷たい手だ。


 お兄様の長い指が私の手の甲をなぞっていく。その感触に、甘さを帯びた寒気が走っていくような気がして、再びお兄様から目を逸らしてしまった。


「……きちんと説明してくれ、フィーネ。一から、ちゃんと」


 数十秒の沈黙の後に、お兄様はそう呟いた。あれほど翳った表情をなさっていたのに、限りなく普段通りに近い話し方が出来るのは、お兄様の強靭な理性が為せる業なのだろう。


 何を、なんて聞かなくても分かっている。お兄様は、私とクラウスの婚約について問うておられるのだ。


「……一からも何も、先ほどお話した通りですわ。昨夜、彼と一緒に踊ったのをきっかけに、一目で恋に落ちてしまいましたの」


 私とクラウスは、昨晩、お互いに一目で恋に落ちた。そういう体で先ほどは婚約の話を進めていたのだ。


「一目で恋? フィーネ、それはきっと違うよ。初めて僕以外と踊ったから、珍しく感じただけだ」


 お兄様は、軽く俯いたまま笑うように告げた。お兄様らしくない、どこか自嘲気味な笑みだった。


「……いいえ、これは恋ですわ、お兄様。私、彼に惹かれてやまないのです。こんな気持ちは、生まれて初めて知りました」


 先ほどクラウスが私との婚約打診をしていたときにつらつらと述べていた、歯の浮くような台詞を参考にして、心にもないことを口にする。


 お兄様は僅かに顔を上げたかと思うと、はっとするほど翳りのある瞳で私を見上げた。これには思わず、びくりと肩を震わせてしまう。


「……あいつに何かされた? 何か弱みでも握られてるの、フィーネ」


 お兄様は、時折私の頭の中まで見据えているのではないかというくらい、鋭い指摘をなさる。それもお兄様が吸血鬼としての能力に優れているが故のことなのかは分からないが、心の奥の奥まで見通すような深紅の瞳が、今だけは怖くて仕方がなかった。


「弱みなんて……。私たちはただ惹かれ合っているだけですのよ、お兄様」


「……僕にだけは本当のことを言ってくれ、フィーネ」


 縋るようなお兄様の眼差しに、思わず本当のことを打ち明けたい衝動に駆られたが、それでは元も子もない。

 

 あまりにも突然の話ではあったが、これは、お兄様を私から解放するまたとないチャンスでもあるのだ。この機会を逃したら、お兄様は下手すれば一生、私に囚われたまま生きてくことになるかもしれない。

 

 それだけは、避けたかった。お兄様は私にとって誰より大好きな人だから、誰より幸せになってほしい。


「先ほどから本当のことを申し上げておりますわ、お兄様。私、恋をしたのです。クラウス様に、初めての恋を」


 その言葉に、お兄様は明らかな怒りを露わにした。憎悪に翳る瞳に息を呑んだのも束の間、お兄様はその場に立ち上がると、突然私をソファーに押し倒した。


 お兄様にしてはあまりにも乱暴な所作に、驚きに目を見開いて彼を見つめてしまう。


「初めての恋? ……冗談じゃない。その言葉だけは、聞きたくなかった」


「お兄様……?」


 怒りを滲ませながらも、今にも泣きだしそうな表情をするお兄様を前に、言葉が出て来ない。


 お兄様は私に覆い被さるように俯いているために、普段は前髪に隠れているはずの右目が露わになっていた。


 美しい深紅から変色してしまった赤紫色の瞳は、確かに私だけを映し出していて、胸の奥がちくちくと痛む。


「……僕がこの16年間、どんな想いで君の傍にいたか分かるか?」


 震えるようなお兄様の声には、どこか自嘲気味な笑みが含まれていて、あまりに不安定な姿を見せるお兄様を前に私は絶句していた。


 もともと清々しい表情よりは物憂げな面持ちをなさることが多いお兄様だけれども、今は痛々しいほどに翳った顔をなさっている。


「何もかも忘れて、無邪気に笑っている君が……時折憎たらしくてどうしようもなくなるよ。僕は、いつまで『お兄様』でいればいいんだ? いつになったら君は、全部思い出してくれる?」


「お兄様……?」


 一体、何のことを仰っているのだろう。まるで私が何か大切なことを忘れているような仰り方だが、全く心当たりがなかった。


「今日こそは、何か思い出してくれるかもしれないって……毎日毎日期待し続けるのも、もう疲れたよ、フィーネ。君はこんなに近くにいるのに、僕は君の『お兄様』でしかない。気が触れそうだ……」


 歪んだ熱を帯びた瞳で、お兄様はただ私を見下ろしていた。その気迫に、思わず息を呑む。


 こんな状況だが、クラウスがお兄様のことを吸血鬼の中の吸血鬼と称していた意味が分かる気がした。


 普段は意識するようなものではないが、圧倒的な格の違いのようなものを思い知らされてしまう。同じ吸血鬼でも、私は、お兄様の足元にも及ばないような存在なのだと。


 お兄様なら、ちょっと本気を出しただけで、私のことなんて簡単に殺してしまえるのだろう。恐らくは、お父様やお母様のことも。


 ……ああ、でも、お兄様になら殺されてもいいわ。


 そう思ってしまうくらいには、私も歪み始めている。その予感が確かにあった。


 だからこそ、やっぱり私はクラウスとの婚約を進めるべきなのだと思う。思い悩み、間違った方向へ進む前に、誰からも祝福される道を選ぶべきだ。他ならぬ、お兄様の幸せのためにも。


「……お兄様が仰っていることが何のことかはわかりませんが、私、クラウス様との婚約を諦める気はありません」


 震える指先を悟られぬよう、なるべく毅然とした眼差しでお兄様を見つめれば、彼は明らかな憎悪を滲ませて私を睨んだ。


 いつもは慈しむように私を見る優しい瞳に、殺意に近い黒い感情が浮かんでいる様は、痛烈に私の心を抉り取る。


「あいつと婚約することが、君の幸せだとでも?」


「ええ、そうです」


 お兄様の問いにきっぱりと答えれば、お兄様は翳った表情のまま、自嘲気味な笑みを浮かべ、ゆったりとした動作で私の頬を撫でた。


「そんなおぞましいことを、僕の前で言い切ってみせるとは……。君は本当に……僕の心を踏みにじる天才だね、フィーネ」


 愛の言葉を囁くような甘さで紡がれたその言葉には、鋭い棘がいくつもあって、深く深く私の心を抉り取っていく。生々しい血が溢れ出すような感覚だった。


 ……私の心が流した血なら、お兄様の渇きを満たせるのかしら。それなら、禁忌に触れないかしら。


 お兄様の幸せを思って選んだ道なのに、胸が張り裂けるような気持ちだった。心が痛くて痛くて仕方がない。


「本当にあいつと婚約をするつもりならば……今すぐ父上と母上の元へ行った方がいい。君をとても心配していた」


 暗に出ていけと言われているのだと察して、私はのろのろとソファーから起き上がった。


 普段ならば、ちょっと立ち上がるだけでも手を差し出してくださるお兄様なのに、今は私に見向きもしなかった。それがどうにも悲しくて、泣き出したいような気持ちになってしまう。


 ……でも、これでいいのよ。これでお兄様は、きっと、私から解放されるのだから。


 そうでも言い聞かせなければ、本当に泣いてしまいそうだった。


 私は、震える指先で紅色のドレスを摘まみ、退室の礼をする。


「……失礼いたします、お兄様」


 返事すらもない辺りに、お兄様の怒りの深さが窺えた。


 こうなることは予想していた。私を溺愛してくださるお兄様だ。突然に、それも一方的に婚約の話なんて持ち出せば、それはもうお怒りになるのだろうということくらい分かっていた。


 だが、覚悟していたこととは言え、やはり、精神的には辛いものがある。あれだけ優しかったお兄様が私を拒絶する様を見せつけられるのは、心を抉り取られるような感覚だった。


 でも、苦しいのはお兄様も同じ気持ちなのだろう。一刻も早く出て行ってくれと言わんばかりに私を睨むお兄様の左目を見て、私は両目が潤むのを感じながら、お兄様の部屋を後にしたのだった。

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