第11話
クラウスにハイデン公爵邸に招かれたのは、それから一週間後のことだった。
クロウ伯爵家の秘密を守ってもらう代わりに、私の時間と自由を差し出す、という契約をしている以上、呼ばれたら無視するわけにはいかない。深い赤色のドレスを身にまとった私は、約束の時間ちょうどにハイデン公爵邸を訪ねた。
何の用事かも知らされていなかったので、最低でもお茶会くらいには参加できるような服装で赴くほかに無かった。ただクラウスと顔を合わせるだけだと言うのならば、普段着で訪ねていただろう。
クラウスは、応接間に私を案内するなり、頭の先からつま先まで品定めするように見つめてきた。いちいち行動が気に食わない男だ。
「……うん、表面上の美しさという点で言えば、お前の右に出る者はいないな」
どこか満足げに笑みを深めるクラウスに、思わず溜息が漏れてしまう。
「素直に綺麗だって褒めてくれてもいいのよ……?」
私が吸血鬼だから素直に褒めたくないのかもしれないが、それにしたってまどろっこしいにも程がある。
今日のクラウスの姿はというと、礼装とは打って変わって、ラフなシャツ姿だった。それでも充分見栄えがするあたり本当に腹立たしくて、一日が始まったばかりだと言うのに二度目の溜息をついてしまう。
「それで、今日は何の用? 意味も無く私を呼び出したわけじゃないのでしょう?」
「もちろん、無駄に吸血鬼の顔なんて拝みたくないからな」
クラウスは人を小馬鹿にするようなお決まりのあの笑い方をすると、椅子に掛けておいたらしい深い紺色の上着を羽織って、私に手を差し出した。
どうやら私をエスコートするつもりらしいが、夜会の時とは違い、私は今、手袋をつけていないのだ。神殿育ちの彼の肌に、素手で触れることには何とも言えない抵抗感があった。
「これはこの先あなたとの契約に付き合うために必要なことだから、はっきりさせておきたいのだけれど……」
クラウスとの距離を僅かに詰めながら、彼の長い指先を見つめる。お兄様よりも少しだけ大きな手だ。
「あなたに触れて、私の肌が爛れる、なんてことはないわよね?」
「妙なことを考えるんだな。試してみるか?」
その言葉と共に、クラウスは素手で私の手を掴む。
「っ……ちょっと!」
何の前触れもなく触れられた手が、今にも爛れないか気が気ではない。そんな私の様子すら面白がるように、クラウスは私の手を取ったまま応接間のドアの方へ歩き始めた。
「言っておくが、俺がお前に触れたって、お前の肌は爛れたりしない。……俺にそんな力があれば、俺はこんな穢れた存在にならずに済んだんだ」
「……何の話?」
クラウスは痛みを思い出すように、一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの余裕綽々な笑みを浮かべてみせた。
「お前の兄にまつわる話だ」
「……お兄様に?」
話している間にも、クラウスはどんどん足を進めていく。彼に手を引かれている私は、必死にドレスをさばいて歩き続けるしかない。
自らを穢れた存在だと卑下するクラウスは、少なくとも今までも彼らしくなかった。その理由が、お兄様になるなんて。
疑念は募っていくばかりだが、ある重厚な扉の前に辿り着いたのを機に、クラウスが私を振り返る。
「まあ、その話はいい。それより、今日お前を呼んだ目的を果たしてもらおう」
「……一体何をするの?」
にやにやと笑うクラウスを前に、躊躇いがちな言葉しか出て来ない。何となく、ろくなことではなさそうだ。
「言ってなかったか? お前を父上に紹介するんだ。婚約したい相手がいると告げたら、連れてこいの一点張りでな」
「っ今からご挨拶するの!?」
契約の一環で婚約という形を取ったとはいえ、いざ公爵に挨拶するとなると嫌でも緊張が走る。
この婚約は、クラウスとの契約であると同時に、お兄様を私から開放する役目も担っている。私にとってもそう、無碍にしていい代物ではなかった。
だが、クラウスは私に心の準備をさせる気などないらしく、躊躇いもなくドアをノックし始めた。思わず声を上げて止めたい衝動に駆られたが、ここまで来てしまったら仕方がない。覚悟を決めるしかなかった。
クラウスはそんな私の動揺すらも面白がっているようで、終始にやにやとした笑みを浮かべていた。
やがて、クラウスの手によって重厚な扉が開かれていく。想像していたよりもずっと明るく、開放感のある書斎が私たちを出迎えた。
「クラウス、来たのか」
書斎の主らしい、白髪の男性。とても穏やかな微笑みを浮かべ、ゆったりとした所作でこちらを見つめている。
彼こそがハイデン公爵その人なのだと思うが、17歳やそこらのクラウスのお父様と考えると、少し年配のようにも思えた。クラウスと並ぶと、どちらかと言えば親子というよりも、祖父と孫、と言った方がしっくりくる。
「父上、この間お話した令嬢を連れて参りました。クロウ伯爵家のフィーネ嬢です」
「お初にお目にかかります。フィーネ・クロウと申します」
クラウスの紹介に合わせて流れるように礼をすれば、「フィーネ……?」と私の名を復唱する声が頭上から降ってきた。
その声の主は、紛れもなくハイデン公爵だった。不思議に思って無礼にならない程度にそっと見つめ返せば、ハイデン公爵の深緑の瞳が驚いたように見開かれる。
「……父上? フィーネ嬢が何か?」
「いや、失礼。大したことではないんだ。お前が幼い頃、寝言で何度も口にしていた名だったから……」
ハイデン公爵は、ふっと懐かしむように目を細めた。クラウスは覚えがないのか、たじろいだような表情をしている。
……彼が、私の名を呟いていた?
記憶の限りでは、私とクラウスはこの間の夜会が初対面だ。もしもそれ以前に出会っていたのなら、お父様かお母様が婚約話が持ち上がったタイミングで教えてくださったはずなのだから。
「お前が『婚約を考えている令嬢がいる』と言い出したときには驚いたものだが……成程、もしかするとフィーネ嬢は、神がお導きになった運命のご令嬢なのかな」
神殿育ちのクラウスのお父上らしい、いかにも信心深そうな言葉に思わず笑みが引き攣る。もしその言葉が本当なら、とんだ皮肉な運命もあったものだ。
クラウスも似たような想いだったのか、彼は僅かな苛立ちを露わにして公爵を見つめていた。
「父上……あまり余計なことは仰らないでください」
「これは済まない。お前がようやく人に興味を示したのが嬉しくてな」
公爵は静かな声で笑った。その表情は明らかにクラウスを慈しむような、とても愛情深いもので、彼が公爵から大切にされて育ってきたことが窺える。クラウスもクラウスで、公爵には強く出られないのか、照れ隠しをするように不意と顔を背けていた。
……こんなにお優しそうな御父上に愛されて育っているのに、どうしてこの男はこんなに性根が腐っているのかしら。
出会ってからのクラウスとの思い出には、ろくなものがない。脅迫に始まり、私を装飾品呼ばわりし、果てには私の死を願うような発言まである。
これもすべて、私が吸血鬼だからなのだろうか。だとするとやはり、クラウスが吸血鬼に抱く憎悪は相当深いものであるようだ。
その後私たちは、取り留めもない話題を小一時間ほど話し合った。その際に用意されたお茶が、私がクロウ伯爵邸でよく飲んでいるものと同じ種類の茶葉だったから驚いたものだ。
この茶葉は、王国レヴァインでは主流のものではない。高級品であることには間違いないが、癖もあるので人によっては嫌うことも珍しくなかった。
「フィーネ嬢は、この茶葉はお嫌いでしたかな?」
公爵の言葉に、紅茶の液面を見つめていた顔をはっと上げる。この小一時間で、穏やかで知的な物腰の公爵への好感度はかなり上がっていた。クラウスの御父上という点だけが欠点かもしれない。
「いえ……私の一番好きな茶葉だったものですから、驚いて」
「これはまたしても素晴らしい偶然だ。クラウスも昔からこの茶葉を好んでいるのですよ。癖があるから子どもは嫌いだろうと思っていたのですが……ある時私が飲んでいるのを見かけた際に、クラウスはふっと泣き出しましてね」
「泣いた……? クラウス――様がですか?」
「父上、その話はいいでしょう」
クラウスは、過去を掘り返されるのが気恥ずかしいのか、珍しく戸惑うように話を遮る。公爵は酷く懐かしむように目を細めながら、ふっと頬を緩めた。
「子どもなのに、声も上げずにただはらはらと泣いたんですよ。理由を尋ねても『懐かしい』と繰り返すばかりで……」
そこまで言って、ふっと、公爵の顔が曇る。クラウスも似たような反応を示し、明らかに空気が切り替わるのを感じた。
「……フィーネ嬢、あなたには少しだけお話しておきたいことがあります。クラウス、お前は、温室にでも行ってフィーネ嬢へ贈る花束でも見繕ってきなさい」
暗に、クラウスに席を外せと言っているのだろう。クラウスの話なのだから彼が同席していても問題ないように思われるのに、どういうわけなのだろうか。
クラウスは納得いっていないようだったが、渋々と言った様子で立ち上がると、「余計なことは言わないでくださいね」とだけ念押しして出て行ってしまった。書斎には、私と公爵、お茶を給仕するためのメイドだけが残される。
「……クラウス様もご一緒でなくてよろしいのですか?」
それとなく訪ねてみれば、公爵はどこか浮かない顔のまま小さく頷いて笑った。
「あの子は、この手の話を嫌がるのでね……。無理もない、彼の暗い過去に触れることになりますから」
クラウスの、暗い過去。そう言われて連想するのは、やはり、クラウスが吸血鬼に対して並々ならぬ憎悪を抱いていることだ。
「それでもフィーネ嬢、あなたに言っておかなければならない」
ここで、吸血鬼の話題が出されるのだろうか。訳もなく身構えて公爵の言葉を待っていると、彼は予想外の言葉を口にした。
「……実は、クラウスは、私の養子なのです」
公爵の深緑の瞳が、どこか切なそうに揺らぐのを見て、私は思わず息を呑むのだった。
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