第13話
「なにをぼうっとしているんだ?」
クラウスの声に、はっと我に返る。ハイデン公爵との話を終え、クラウスと散歩していたというのに、つい物思いに耽ってしまった。
「いえ……少し考えごとをしていただけよ」
片手に持った不格好な花束を、そっと抱えなおす。クラウスが見繕った花束は、種類は雑多だったが、全体的に赤で纏められていた。
「父上からは、俺が養子だという話でも聞いたのか?」
クラウスはなんてことないように告げる。大体のことは察しているのだろう。
「ええ。あなたがハイデン公爵家に来た経緯を……」
吸血鬼に虐待されていた、なんていう暗い過去を聞いた後では、彼の顔を上手く見られない。クラウスは本当ならば、こうして私と並んで歩くことすら嫌だろうに、お兄様への復讐のために私と婚約するなんて、やはり普通の人の考え方とずれている部分がある気がした。
そしておそらくそのずれは、吸血鬼に虐待された過去が生み出したものなのだろう。そう思うと、尚更言葉に詰まってしまう。
何を言うべきか、と睫毛を伏せて逡巡していると、不意にクラウスの手が私の頬に伸び、容赦なくつねってきた。
「っ痛……もう、何をするのよ!」
反射的な怒りを込めた目でクラウスを見上げれば、彼はふ、と頬を緩める。その笑い方はいつものような小馬鹿にするものではなく、ごく自然な笑い方であるような気がした。
「その方がいい。吸血鬼であるお前に憐れまれるなんてまっぴらごめんだ」
クラウスからしてみれば、その気持ちももっともだろう。私は彼の宿敵であるお兄様の妹なのだから。憐れまれるなんて屈辱でしかないのかもしれない。
ただ、この話についてはもう少し踏み込まなければならないと考えていた。
私は意を決して、クラウスと向かい合う。少しずつ傾き始めた陽が、私たちの影を長く伸ばした。
「ねえ、クラウス。ひとつだけ、聞いておきたいことがあるの」
クラウスは動じることの無い紺碧の瞳で私を見下ろした。答えてくれるのかどうかは分からないが、どうやら私の言葉の続きを聞いてくれる気らしい。
「……あなたは、吸血鬼に囚われ、虐待されていたと聞いたわ。その過去と、お兄様はどう関係しているの?」
これだけは、確かめておきたかった。信じたくはないが、お兄様が本当にそんな残酷な事件に関わっていたのだとしたら、いくら大好きな相手でもきちんと追求しなければ。
「……その事情によっては、私、お兄様に話を聞いてみたいと思うのよ」
クラウスは、しばらく私を見つめていた。そうしている間にも、公爵邸の庭は橙色に染まっていく。
彼が口を開いたのは、数十秒間の沈黙の後だった。
「……俺が捕らえられていたのは、亡国メルヴィルの、ある廃教会の中だった」
クラウスは私から視線を背けると、ぽつぽつと語り始めた。
「そこで俺は、来る日も来る日も暴力を受けていた。……あらゆる種類のな。殴られたり蹴られたりすることは日常茶飯事だったし、ナイフで切られることだってしょっちゅうあった。吸血鬼たちは、その際に零れた俺の血を飲んで騒いでいたようだった」
「吸血鬼たち? 一人ではないの?」
これには驚いてしまった。幼気な子供に暴力をふるうような悪質な吸血鬼が何人もいるなんて思いたくない。
「ああ、何人もいたな。あの日々の痛みがあまりに強すぎて、俺にはそれ以前の記憶がまるでない。それくらいに、救いのない日々だった」
クラウスは私から視線を背けたまま、芝生の上に伸びる自分の影を見つめていた。さらさらと整えられた芝生が揺れる。
「その吸血鬼たちの中心にいたのが、白銀の君――お前の兄だ」
どくん、と心臓が跳ねる。ここにきて、クラウスが私をその瞳に捕らえた。彼にしては珍しい、翳りのある瞳だった。
「白銀の髪に赤い瞳の、まだ少年の吸血鬼だったが……他の吸血鬼たちは彼を崇めていたようだった。白銀の髪と赤い瞳は、吸血鬼の血が濃い証なんだろう?」
「え、ええ……」
「彼は直接俺に触れたりはしなかったが、代わりに他の吸血鬼たちに指示を出していた。全て拷問に近い指示だったがな……中でも特別彼が気に入っていたのは、背中にナイフで文字を書きつけることだった。その傷口から溢れた血を集めて、吸血鬼たちはその少年のもとへ運んでいたな……」
「なんて、惨いことを……」
思わず口に出してしまった。クラウスはそんな私の呟きさえ嘲笑うようにふっと口元を歪めると、静かに私に向き直る。
「それがお前の兄だ、フィーネ。彼は時折口にしていた。『血を上手く飲めない妹のために、取り分けておいてほしい』とも。その妹とは、お前のことだろう?」
「っ……」
どくどくと、心臓が暴れはじめていた。何一つ信じられないのに、信じたくないのに、お兄様ならば私のために、子供を拷問してでも血を調達しようと考えてもおかしくはない、と思っている自分がいる。
「……白銀の髪に深紅の瞳を持つ吸血鬼は、現存ではお前の兄だけだ。俺が囚われていた時期に、亡国メルヴィルに滞在していた記録もある。調べるのには大分骨が折れたがな……苦労した甲斐があった」
クラウスはどこか歪んだ笑みを見せると、そっと私の首筋に触れた。とくとくと脈が触れるその場所は、吸血鬼が血を吸う場所でもある。
「初夜を迎えたら、その夜に俺はお前を殺す。殺して血を抜き取って、その翌朝にお前の兄の元へ届けてやるつもりだ。溺愛する妹の血だ。泣いて喜んで飲むんじゃないのか?」
クラウスは笑っていたが、その目は本気だった。それだけ深い憎悪なのだ。表面上はいくら婚約者を取り繕っていても、彼は少しも私に心を許してなんかいない。
多分、このまま婚約が成立して、結婚まで至れば、彼は本当に私を殺すのだろう。それは予感ではなく、確信だった。
殺されるのは、嫌だ。しかも、復讐のための殺人だとしたら安らかに終わることなんてできないだろう。
想像しただけで、思わず身震いする。お兄様に、家族に、痛いものや苦しいものから隔離されて育ってきた私には、あまりにも過酷な未来だった。
でも、クラウスはずっと消えない痛みを抱えて生きてきたのだ。そしてその痛みは、人と触れ合うことを恐れてしまうほどに、彼の心を閉ざしてしまった。
その原因が本当にお兄様にあるのだとしたら、私はどんな痛みも甘んじて受け入れる必要があるのだろう。そう思えば、自然と言葉が零れ落ちていた。
「……もしもお兄様が本当にあなたを苛んだ犯人なのだとしたら――」
私はそっとクラウスを見上げ、その紺碧の瞳を射抜いた。
「――そのときは、いいわ。抵抗せずに殺されてあげる。それでお兄様の罪が贖われるのならば、この命でも血でも喜んで差し上げましょう」
私の言葉が予想外だったのか、クラウスの紺碧の瞳が戸惑うように揺れた。ざあ、と風が二人の間を吹き抜けていく。
「でも私、お兄様のこと信じているの。お兄様はそんな残酷なことが出来る方じゃないって。妹、の話の部分には少し揺らいでしまったけれど……それでも私、信じてる。お兄様は絶対にそんなことしない」
「……笑わせるな。白銀の髪に紅の瞳を持つ吸血鬼はお前の兄しかいないんだ。それが何よりの証拠だろう」
「子どものころの髪と瞳の色なんてあてにならないわ。それはもちろん、大きく変わることはないでしょうけれど……少なくとも私は、お兄様の口からちゃんと話を聞くまでは納得できない」
「大した兄妹愛だな」
吐き捨てるように笑うクラウスが、爪の先で私の首筋を引っ掻いた。鈍い痛みに思わず顔をしかめる。かなり強い力だったから、赤い線が浮き出るように傷が残っているだろう。
「お前を殺すときの傷は、このくらいの深さにしてやるよ。予行演習だ」
クラウスは私の痛みさえ愉悦と捉えているようで、優雅に口元を歪めてみせた。
「未婚の令嬢の肌を傷つけるなんていい度胸しているわ。この傷を見たらお兄様が殴り込んでくるかもしれないわよ」
自らの指先で薄い傷口があるであろう首筋をなぞる。ぷくりと浮き上がるような線状の傷が触っただけでも確認できた。相当強い力で引っ掻いたらしい。
「それはそれで願ったり叶ったりだな。その際は、ちゃんと殺す覚悟で受けて立とう」
「私と違ってお兄様は強いわよ。それこそ吸血鬼の形質が強いから、本気を出したら、人間なんてあっという間だわ」
そこまで告げて、はっと気が付いてしまう。俯いていた顔を勢い良く上げて、クラウスを見つめた。
クラウスは、私を殺した後、お兄様の元へ私の血と遺体を届けると言っていた。猟奇的な行動だが、復讐に駆られた彼ならばやりかねないだろう。
事切れた私の遺体と私の血。そんなものを見たら、お兄様は――。
「……あなた、私を殺した後、どうするつもり? 自分で言うのもなんだけれど、私が殺されたりしたら、お兄様は絶対にあなたのことを許さないわよ。それこそ、最も惨い方法で殺しに来ると思うわ」
自惚れているように聞こえるかもしれないが、その自覚がないほど私は鈍感ではない。
はっきり言って、お兄様が私に向けるは異常なのだ。多分、私が意味も無く「人を殺して」と強請っても、二つ返事で殺すだろう。その確信があるくらいには、私はお兄様の愛の異常性を分かっているつもりだった。
「死後のことを心配してどうする。それも、お前を殺した後の俺の心配なんて」
クラウスは嘲笑を浮かべて私を見下ろしていた。紺碧の瞳に差した翳りが何とも痛々しくて、対して好きでもない相手のはずなのに、見ていられないくらいに心が痛んだ。
不思議だ。クラウスのことなんて少しも好きではないつもりなのに、こんな気持ちになるなんて。
「私が言うのもなんだけれど、あなたに幸せになってほしいと願う人がいるわ。ついさっきお話してきたもの」
ちらり、と書斎の窓を見上げれば、クラウスが僅かにたじろぐのが分かった。すっかり濃くなった橙色の光の中で、私はもう一度クラウスの瞳を射抜く。
「本当にお兄様があなたを苛んだ犯人で、あなたの怒りが収まるのなら、私を殺す分には一向に構わないわ。契約のこともあるしね」
お兄様の幸せが私の幸せであるように、お兄様の罪は私の罪だ。お兄様の罪を贖うために命を投げ出すことは、少しも惜しくない。むしろ然るべき定めだとすら思う。
「でも……あなたが犯人だってことは、お兄様にばれないようにやって頂戴。それだけは約束して」
クラウスだけを心配している言葉に聞こえるかもしれないが、これはお兄様のためでもあった。復讐が復讐を呼んで、人を殺めるお兄様なんて、死んだ後でも見たくない。
クラウスは、珍しく酷く動揺しているようだった。紺碧の瞳がこの上なく揺らいでいる。
再び風が吹き抜け、クラウスが見繕った花束からひらひらと花弁が舞った。それを右手に抱えなおしながら、私は彼の横を通り過ぎるようにして別れの言葉を告げる。
「また用があるときは連絡して。次は内容まで知らせてくれると嬉しいわ。レディにはお洒落の仕方が何通りもあるものだから」
いつも通りを装って、そのままクラウスとは別れを告げた。
場合によっては私の命はそう長くもないのだろうと知った後なのに、不思議と心はいつもより、怖いくらいの静けさを保っている。
それもすべて、お兄様への想いが私の心を支配しているからだと分かっていた。
愛が異常なのはお互い様ね、と一人自嘲気味な笑みを浮かべながら、私はクロウ伯爵家の馬車に乗り込んだのだった。
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