第21話
事件が起こったのは、それから一週間ほど後のことだった。
その日は、お父様もお母様もご用事があって屋敷におらず、私はリアやレニーと共に遊んでいた。メイドや他の使用人たちに見守られながら、夏の青々とした芝生を駆け回る、とても健全な一日だった気がする。
リアとレニーと遊び終えた私は、夕食までの時間をお兄様と過ごそうと、いつものように気軽にお兄様のお部屋を訪ねた。
まだ幼い私は、一週間前に駄々をこねたことなんてほとんど忘れかけていて、お兄様に対する気まずさなんてものも感じていなかったのだ。
小さな手で、お兄様の部屋のドアをノックする。お兄様の部屋はいつだってぴったりと閉じられていたが、私がノックすればすぐに扉を開けてくださるのが常だった。
だが、その日はノックをしても返事がなかった。メイドたちに訊ねた限りでは、お兄様はお部屋にいらっしゃるはずだと聞いていたので、不思議に思いながらももう一度ノックを繰り返す。
それでも尚、返事がない。こんなことは初めてだった。
意を決して、私はぎい、とドアを引いた。まだ幼い私の力では、少し引くだけで精一杯だったが、僅かに開いた隙間に小さな体を滑り込ませる。
「お兄さま……?」
ぱたん、と扉が閉じる音を聞きながら、そっと部屋に入り込んだ私は、早速お兄様の姿を捜した。
広い部屋とはいえ、お兄様はすぐに見つかった。いつもは窓際の椅子に座って本を読んでいることがほとんどなのだが、この時ばかりはお兄様は滅多に使われないソファーの上に座っていたのだ。
「お兄さま!」
お兄様の姿を見つけた私は、ぱっと表情を明るくさせてお兄様の元へ駆け寄る。だが、すぐに様子がおかしいことに気が付いた。
お兄様は、右目を押さえて蹲っていたのだ。それも、痛みに耐えるように肩を震わせて。
「……お兄、さま?」
窺うようにお兄様の傍に近付いて、そこでようやくお兄様は私が訪ねてきたことに気づいたようだった。
吸血鬼の形質が濃いために、人一倍気配に敏感なはずのお兄様にしては、あまりに気づくのが遅かった。恐らくはそれくらいの激痛に苛まれていたのだ。
「フィー、ネ……」
呻き声と呼んでも差し支えないような痛々しい声で、お兄様は私の名を呼んだ。天使のように愛らしい顔には、無理やり取り繕ったような笑みが浮かんでいて、これには幼い私も思わず眉を顰める。
「お兄さま、いったい、どうなさったの……」
お兄様の目の前のテーブルには、毒々しい紫色の液体が注がれた小瓶が置かれていた。小瓶の周りにはぽたぽたと液体が零れていて、既にいくらか液体を取り出した後だと分かる。
「お兄さま、これはなに……?」
何も知らない子供の私でも、その小瓶の中身が何か良くないものだということは分かった。そしてその液体が、右目を押さえるお兄様の指先にも付着していることに気が付いて、はっと息を呑む。
「……お兄さま、右のお目目はどうなさったの」
「……なんでもないよ、フィーネ。見ていて気分のいいものではないだろうから、リアやレニーと遊んでおいで」
「いや……。お兄さま、お目目がいたむの? みせて!」
かつてないほどの胸騒ぎが、幼い私の脈を最大限まで早めていた。私はソファーによじ登ると、両手を使ってお兄様の手を右目から引き離す。
「っ……」
露わになったお兄様の右目を見て、私は思わず絶句した。右目の周りにはところどころ紫色の液体が付着していて何とも不気味な光景だったが、それ以上に、私はお兄様の瞳に目を奪われていた。
「お兄、さま……この、色は……?」
美しい深紅だったはずのお兄様の右の瞳は、赤とも紫ともとれる、夕暮れのような色に変わっていたのだ。それも、夕暮れとは言っても、まるでこの世の全てを焼き尽くすような、どことなく不穏で陰鬱さを思わせる類のものだった。
「……ごめんね、元の赤色が濃すぎて、フィーネみたいなきれいな紫色にはならなかったよ」
お兄様は申し訳なさそうに笑って、長い睫毛を伏せた。
「むらさき色に……って、どうやって?」
震える声で、私は尋ねる。美しかったお兄様の右目が、陰鬱な赤紫に変わってしまった様は、想像以上の衝撃を私に与えていた。
「亡国メルヴィルの魔女から買ったんだ。ひとみの色を変えられるって薬をね」
お兄様はテーブルの方へ視線を向けて笑った。小瓶には、まだ半分ほど紫色の液体が残っている。
「いたいの? お兄さま……」
「……すこしだけ。でも大丈夫、このくらい耐えられるよ。他ならぬ、フィーネの望みなんだから」
お兄様は私を安心させるように微笑んだが、額にうっすらと浮かんだ汗は、彼が相当な激痛に耐えたことを物語っていた。
「わたしが……わたしが、あんなことを言ったから?」
お兄様は返事の代わりに、幼さに似合わぬ意味ありげな笑みを浮かべた。その笑みに、抱えきれぬ罪悪感と恐怖にも似た感情を覚える。
「これで、フィーネはもう寂しくないよね? 泣き止んでくれるよね?」
お兄様はただ、笑っていた。取り返しのつかないことをしているはずなのに、ただただ優しいあの笑みを浮かべていた。
私は、何も言えなかった。自分の発言が招いたことの大きさを把握しきれなくて、ただ肩を震わせてお兄様を見ていた。
お兄様はそんな私を安心させるようにもう一度微笑むと、そっと小瓶に手を伸ばす。
「まってて、左目の色もすぐに変えるから」
「だめ! お兄さま――」
声を上げて止めようとしたとき、小瓶に伸ばしたお兄様の手が空を切る。お兄様はどこか煩わしそうに右目を押さえて、目の前を確かめるように左目を揺らがす。
ソファーとテーブルはそれほど離れてもいないのに、距離感を間違えたようなその様子にますます胸騒ぎがした。
「お兄、さま、まさか、右のお目目が見えていないんじゃ……」
「……完全に見えないわけじゃないよ。すこし、ぼんやりするだけだ。時間がたてば、いくらかマシになるはずだよ」
そう言って今度こそ小瓶を手にするお兄様に、気づけば私は飛びついていた。その拍子に、お兄様の手から小瓶が滑り落ち、床に紫色の液体が広がっていく。
「やめて! お兄様! そんなことをしたら、お目目が見えなくなってしまうかもしれないわ!」
バランスを崩しつつも、私を受け止めるお兄様に、必死で懇願する。お兄様は淡く微笑みながらも、私の顔を覗き込むように告げた。
「別にいいんだよ、僕の目なんて。これで、フィーネが笑ってくれるのなら」
お兄様はそっと私の頬を撫で、慈しむように告げた。この世の誰より美しい笑みを浮かべるお兄様が、この時ばかりは怖くて仕方がなかった。
お兄様はきっと、私のためなら何でもする。私のどんな理不尽な我儘でも、犠牲を厭わずに叶えようとするのだろう。
それは、殆ど確信に近かった。恐らくこの人は、私が人を殺してほしいと言えば迷わず殺すのだろうし、私のために死んでといえば死ぬのだろう。
「お兄、さま……」
この瞬間、私は初めてお兄様の愛の異常性に気が付いた。もっとも、気づくには遅すぎたというべきで、お兄様の美しかった右の瞳は、陰鬱な夕暮れの色に変わってしまった。
「……ごめ、んなさい。ごめん、なさい……!」
お兄様の膝の上で、私はぼろぼろと泣き始めた。取り返しのつかないことをしてしまったという深い後悔に、押しつぶされそうになる。
「……どうしてフィーネが謝るの? ぼくはただ、きみに笑ってほしかっただけなのに」
お兄様は天使のような微笑みを浮かべながら、泣きじゃくる私の頬を撫で、涙を拭う。
「だから、ほら……笑ってよ、フィーネ」
それは、優しい願いのようで、脅迫のようにも聞こえる言葉だった。
息が、出来なくなる。心臓を握られているような、ぞわりとした寒気が背筋をすっと抜けていった。
もっとも、それは罪悪感に囚われた私の抑圧された捉え方だったのかもしれない。だが、私は言われるがままに、ぼろぼろと涙を流しながら口元を無理やり歪めた。
それはおよそ6歳やそこらの少女には相応しくない笑い方だった。だが、それでもお兄様は、どこか満足げに笑みを深めたのだ。
「やっぱり、フィーネは笑っているほうがかわいいよ。ぼくだけの……愛しい愛しいおひめさま」
お兄様はそっと私の前髪を掻き上げて、祝福を与えるように額に口付ける。触れられた箇所に帯びた熱が、まるで私が犯してしまった罪を思い知らせるかのように、いつまでも額を焼いているような気がしてならなかった。
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