第22話

♦ ♦ ♦


 十年前の出来事を騙り終えた私は、ふう、と小さく息をついた。クラウスの滞在する客間には、置時計が時を刻む音だけが静かに響き渡っている。


 お兄様が薬品で右の瞳の色を変えた後、当然ながらクロウ伯爵家は大騒ぎだった。腕のいいお医者様をすぐにお呼びして、お兄様の瞳を診ていただいたが、残念ながら右目の視力は戻らなかった。


 お兄様の右目がどの程度見えているのかは分からない。お兄様はそのあたりの事情を詳しく私に話そうとしなかった。左目のお陰で日常生活を送る分には何ら支障はないようだが、剣術や馬術となると、多少不自由な部分があるようだった。


 お兄様が自ら瞳の色を変えたあの日、私は、お兄様のいないところで泣いてお父様とお母様に謝った。お兄様の瞳の色が変わってしまったのは、私の我儘のせいだと。罰ならなんだって受けると一晩中泣き続けた。

 

 だが、お父様もお母様も私を叱ることはなさらなかった。それどころか、怯えるような私を抱きしめて、慰めるようなことを仰ったのだ。


 ――瞳の色を変える決断をしたのはノアよ。あなたが責任を感じることなんてないわ。


 ――そうだぞ、フィーネ。それに、お前はノアが左目の色まで変えようとするのを止めてくれたじゃないか。怖かっただろうに、よく勇気を振り絞ってくれたな。


 お父様もお母様もやっぱり私に優しかったが、いっそ、責めてくれた方がよかった。お兄様があんなことをしでかしたのはお前のせいなのだと、罰を与えてくれた方が気が楽だった。


 それからというもの、お兄様の右の瞳を見る度に笑みを引きつらせる私に思うところがあったのか、お兄様は右目を隠すように前髪を伸ばした。それで完全に隠れるわけではないのだが、初対面の相手には気づかれない程度に誤魔化すことが出来た。


 天使のような純真な美しさを纏っていたお兄様は、右目を隠すようになったことで、いつしか陰鬱な雰囲気を漂わせる、いかにも吸血鬼らしい美しさを誇るようになった。


 出来損ないの私と、吸血鬼の中の吸血鬼であるお兄様。その違いを歴然と見せつけられて様な気がして、お兄様と同じ色が欲しいと言って招いた悲劇だというのに、ますますお兄様が遠い存在になってしまったような気がしてならなかった。


 この事件以降、私はお兄様の前で我儘を言ったことはない。私の一言が招く事の大きさを、私はこの一件で思い知っていた。


「……やっぱり、どうかしている。お前たちが、というよりは……あいつが」


 静かに私の話に耳を傾けていたクラウスが、珍しく真剣な声音で呟いた。これについては私も反論は出来ない。


 事実、お兄様が私に向ける愛はおかしいのだ。重いとか狂っているとか、そういう次元ではない。


「そんなことをされて……お前はよくあいつのことをここまで慕えるな? 距離を置こうと考えるほうが自然じゃないのか? それとも一種の洗脳か?」


 お兄様への復讐の話の時はどこかずれた考え方を見せるクラウスなのに、こういった話に対する感覚はまともらしい。


 クラウスのくせに、あまりにもっともらしいことを言うのが可笑しくて、思わずふっと笑みが浮かんでしまった。


「そうね……そうなのかも。でもね……」


 気づけば、胸の奥に封じたはずの熱を帯びた想いを、私は口にしていた。


「……ありきたりな話だけれど、私の初恋はお兄様なのよ」


 クラウスのことなんて大して好きでもないのに、どうしてか彼の前ではさらりと告白できてしまった。クラウスは軽く息を呑みながらも、私を見守っている。


「……いつからか、なんてわからないけれど、気づいたら私はお兄様のことが好きだったわ。お兄様が瞳の色を変える、ずっとずっと前からね。……多分、恐らくはお兄様も――」


 皆まで言わずともクラウスには伝わっていたのだろう。私はどこか自嘲気味な笑みを浮かべたまま続けた。


「……この馬鹿げた婚約話に乗ったのはね、お兄様を、私から解放するためなの。ご存知の通り、お兄様は私がこの年になっても婚約者を決めることを許さなかったわ。ずっとこの伯爵家にいればいい、と、面と向かって言われたこともあるの」


 こんな話、誰にもしたことが無かった。誰にも言わずに一生を終えると思っていた。だが、一度堰を切ったように溢れ出した言葉は止まらず、私は急き立てられるように話し続けた。


「でも、そんなことをして、お兄様が幸せになれるとは思えない。私がいると、お兄様はご自分のために生きようとはなさらないのよ。それが……私には怖くて……。私はどうしたって、お兄様を幸せにして差し上げることはできないのに」


 ――お兄さま、わたしね、大きくなったらお兄さまの花よめさまになるの!


 ――うん、知ってるよ。約束したもんね。


 幼い子供が口にする、なんてことのない他愛のない言葉。こんなやり取り自体はきっと、ありふれた、微笑ましいものなのだろう。


 私たちがその普通から外れてしまっているのは、その約束が今も生きているかのように信じていることだ。世間の常識も倫理も知らない子供が口にしたはずの約束が、今も熱を帯びたまま私たちの心を焼いている。


 ……でも私、お兄様といつそんな約束をしたのかしら。


 記憶にある私とお兄様のやり取りは、いつも結婚の約束が前提であるものばかりで、肝心の約束したときのことを思い出せない。無理に思い出そうとすると、きりきりと頭が痛むような気がした。


「っ……」


 瞬間、脳内に溢れるのは、あの薄紅色の花弁が舞う光景だ。見たことも無い景色のはずなのに、途方もない懐かしさで息が出来なくなる。


 その花弁の中で、私を慈しむように見つめる白銀の髪の少年が一人。私は、彼のことが大好きで、それで――。


「……気分でも悪いのか?」


 私の告白を聞いてから、物思いに耽るように黙り込んでいたクラウスが、珍しく私を案ずるように見つめる。その紺碧に瞳にすらも、何だか懐かしさを感じてしまって、ますます戸惑いが増していった。


 この花弁は、懐かしさは、一体なんなの……?


 昨晩の夜会の最中に、涙を流したあの瞬間と似たような感覚だ。私は頭を押さえ、俯きながらもクラウスに問いかけた。


「ねえ、クラウス。……あなた、昨日はどうして泣いていたの?」


 私の脳裏に浮かんだのは、まるで一枚の絵のように温かい光景だった。黒髪の少年と少女が、仲睦まじく笑っている、切なくなるほどの懐かしいひととき。


 そしてその後に私の頭について回ったのは、薄紅色の花弁だった。


 クラウスは突然の質問に多少面食らったようなそぶりを見せたが、私から視線を逸らして、ぽつりと呟く。


「……よく、わからない。ただ、小さな黒髪の少女を抱き上げて、笑っている光景が浮かんできて……。どうしてかそれがどうしようもなく、懐かしくてならないような気がしたんだ。別に悲しいわけでも嬉しいわけでもなかったんだがな……俺が、泣くなんて」


 クラウスは馬鹿馬鹿しい、と呟きながら息をつくようにふっと笑った。


 その横顔を見て、どくん、と心臓が跳ねる。クラウスも私と似たような光景を思い出していたなんて。ただの偶然とは考えにくい。


「……そのときに、あなたが私に預けたロケットの中にあるものと同じ、薄紅色の花弁を思い出さなかった?」


 クラウスは、はっとしたように私を見つめる。紺碧の瞳が、これ以上ないくらいに揺らいでいた。


「……どうして、それを? お前は、あの花について何か知っているのか?」


 やはり、私とクラウスが思い浮かべた光景は同じものなのだ。私はゆるゆると首を横に振りながらも、常に携帯しているクラウスのロケットをそっと手に取った。


「分からないわ……。でも、名前も知らないこの花を見ると、切なくて、胸が抉られるように苦しくてならないの……」


 ただの偶然で片づけるには奇妙な共通点に、私もクラウスも絶句していた。


 薄紅色の花弁、果てしない懐かしさ、目覚めると忘れてしまう夢。その全てが繋がったとき、私たちの知らない何かが明らかになるのだろうか。


「……私たち、思い出せない記憶の中で、出会っていたりするのかしら」


 思えば、人が嫌いなクラウスが、私とだけは普通に付き合えるというのも妙な話なのだ。練習したわけでもないのに妙にダンスの息が合うのも、もしかするとすべて、偶然なんかじゃないのかもしれない。


「ねえ、クラウス。それでもあなたは……私を殺すの?」


 置時計が、時刻を知らせる鐘を鳴らす。重苦しいその音は静まり返った客間に嫌に良く響き渡った。


 普段あれだけ憎たらしいクラウスも、今ばかりは葛藤するように表情を曇らせていた。私の質問も意地悪だったのかもしれない。何を決断するにしたって、私たちにはまだわからないことが多すぎるのだから。


「……少し、一人にしてくれ」


 クラウスはくしゃりと前髪を掻き上げながら、俯くように告げた。普段より覇気のない声で、ベットの上で蹲るクラウスの姿は何だか寂し気で、言われた通りに部屋を出て行こうとするも後ろ髪を引かれてしまう。


「……何かあったらすぐに呼んで頂戴ね」


 私らしくもない気遣いを残して、そっと客間を後にした。手に握りしめたロケットの鎖が、しゃらしゃらと音を立てる。


 もどかしい。何かを忘れているのに、薄紅色の花弁が懐古の情を運んでくるばかりで、その先にあるはずの光景が何も見えない。


「っ……」


 美しいこの花が、今だけはどこか憎々しいような気がしてならなかった。


 ……どれだけ求めても届かない憧憬を匂わせるくらいなら、いっそ何も思い出せない方がいいのに。


 祈るようにロケットを額に当てたところで、忘れてしまった何かが蘇るわけもない。儘ならないもどかしさを抱えながら、私は客間の扉を背に、私たちを結び付ける何かについて悶々と考え込むのだった。

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