第23話

 ひらひらと舞い散る薄紅色の花弁の下、幼い私はくるくると踊るようにドレスを翻していた。

 

 ああ、またあの夢だ。目覚めたら忘れてしまう、懐かしくて大切な夢。


 花弁と同じ薄紅色のドレスを纏った私は、習ったばかりのダンスを披露するように、拙い足取りでステップを踏む。その様子を、薄紅色の花の木の下で、白銀の髪の少年が眺めていた。


『たいへんお上手です、フィーネさま』


 ぱちぱちと称賛の拍手を送る少年に、幼い私はにっと笑いかける。彼に褒められたのが嬉しくて、ませた仕草でドレスを摘まんで礼をした。


『えへへ、先生にもほめられたの! つぎは、あなたも一緒に――』


 そこまで言いかけて、くるくると回った弊害が今更襲ってきたらしく、思わず私はその場に倒れ込んでしまう。少年の慌てたような声が頭上から降ってきた。


『フィーネさま!? だいじょうぶですか!? おけがは……?』


 過保護なくらいに問いかけてくる少年を見上げ、私はへらへらと笑った。


『だいじょうぶ、ちょっと目がまわっちゃったみたい』


 芝生の上なので土埃でドレスが汚れるようなことはなかったが、代わりに左手の手の甲から流れ出した血で点々とドレスに染みが出来る。どうやら、転んだ拍子に木の枝に引っ掛けてしまったらしい。


『っ……おけがを、されています。フィーネさま。人を呼んでまいります』


 もともと外で遊びまわることが多い私には、これくらいの怪我は付き物だった。お父様やお母様にはちょっぴり叱られるけれど、大事にするような怪我でもない。


『へいきよ。ちょっと切っただけだから』


 にこにこと笑いながら少年を引き留めれば、彼は揺らぐ深紅の瞳で私を見つめた。


『……ぼくが、平気じゃないんです。フィーネさまの血は、とくべつだから……』

 

『ああ、そっか! あなたは血をたべるのよね。おなかが空いているのなら、この血でよければあげる!』


 葛藤に苦しむような少年の前に、幼い私は何の考えも無しに怪我をした左の手を差し出す。小さな手の上に、傷口に沿うような形でぷくりと赤い血が浮き上がった。


 少年はごくりと喉を鳴らして赤い血を見つめていたが、許されないものを見たとでも言わんばかりにふいと視線を逸らす。


『いけません、フィーネさま……。あなたのようなとうといお方が、そんな風にかんたんに血をさしだすなんて……』


『だれにでもあげるわけじゃないわ。お兄さまだからさしあげるのよ』


 少年の葛藤など露知らぬ私は、ただ純粋に彼の役に立ちたいと思っていた。この血で彼の飢えが満たされるのなら、どんなにいいだろう。


 少年は僅かな間、迷うように私を見ていたが、やがて私が差し出した左の手を取る。


『……少し、いたいかもしれません』


『だいじょうぶよ! 気にしないで』


『では、おことばに甘えて……』


 少年はそのまま、まるで挨拶をするときのような優雅な仕草で私の左手に口付けた。傷口に彼の唇が当たり、鈍い痛みを感じてぴくりと指先を震わせる。


 思わず手を引っ込めそうになったが、少年がぎゅっと手首を握っていたためにそれは叶わなかった。

 

 傷口に舌が這う感触が、痛いようなくすぐったいような不思議な感覚を呼び起こして、幼い私はくすくすと笑い声を上げた。その笑い声に応じるように、少年は傷口に吸い付いたまま僅かに顔を上げ、満足げに目を細める。


 ようやく彼が私の手から口を離したときには、殆ど血は出なくなっていた。少年は唇についた血の名残を追うように舌先で舐めとりながら、天使のように愛らしい笑みを見せる。


『ごちそうさまでした。とてもおいしかったです。……今までで、いちばん』


『ほんとう? よかったわ。おなかが空いたらいつでも言ってね!』


 少年は上着から白いハンカチを取り出すと、器用な指先で私の左手に巻き付け始めた。


『だめですよ、フィーネさま。ぼくのような汚い生き物に、そんなことをおっしゃったら』


『お兄さまはきたなくないわ。だれよりきれいな人だもの』


『いいえ、ぼくは、本来ならば……あなたにふれることすらゆるされない化け物です』


 少年はハンカチを巻き終えると、その上からそっと私の手を包み込むように握る。

 

『……だから、このことは、だれにもないしょですよ』


 幼さに似合わぬ達観した瞳で、少年は私を見ていた。ひらひらと舞い落ちる薄紅色の花弁の中で微笑む彼は、まさに天使そのものなのに、どうして自分を化け物だなんて言うのだろう。


『……わかったわ、わたしとノアお兄さまだけのひみつね! でも、わたし――』


 そっと少年の手を握り返せば、深紅の瞳が戸惑うように揺れる。


『あなたのことを化け物だなんておもわないわ。だから、わたしにふれられないなんて、さみしいこと言わないでね』


 満面の笑みを浮かべれば、少年は驚いたように目を見開いて、やがて長い睫毛を伏せて小さく頷いた。見ているこちらが切なくなるような、弱々しい笑みを浮かべる。


『……はい、フィーネさま』


 ぶわりと強い風が吹き抜け、薄紅色の花弁が雪のように舞う。何も知らない幼い私たちは、ひらひらと舞い散る花弁の中で、お互いの手を固く握り合うのだった。 



♦ ♦ ♦




 またしても、よく分からない夢を見た気がする。


 クラウスが公爵家に戻った翌朝、私は彼のロケットに視線を落としながら、今しがた醒めたばかりの夢のことを考えていた。


 内容は思い出せないのに、日に日にこの薄紅色の花弁への思い入ればかりが強くなっていく。もどかしさで心の奥まで重苦しくなるようで、溜息が零れてしまった。


「お嬢様、おはようございます。このところはお早いお目覚めが多いですね」


 寝室に入室してきたのは、メイド服姿のリアだった。


「……何だか、妙な夢ばかり見るようになってしまって」


 何気なく、ロケットの蓋を閉じる。その拍子に、黒髪が一筋肩を滑り落ちた。


「妙な夢、ですか。一体どのような?」


「それが、内容を思い出せないのよ。ただ、懐かしいような、切ないような気持ちになって……。覚えていることと言えば、薄紅色の花弁が舞っていることだけなの」


 リアに朝の身支度を手伝ってもらいながら、なるべく軽い調子で告げた。夢らしい不確かさと言えばそうなのだろうが、どうにももやもやとしてしまう。


「薄紅色のお花ですか……ツツジとか、アザレアとか……あとは、桜などもそうですね」


 私の髪を手早く結い上げながら、リアは鏡越しに私に微笑みかけた。聞き慣れない花の名がある。


「さくら? 聞いたことがない花だわ」


「私も実物を見たことはないのですが、どうやら薄紅色の花弁を枝一杯に咲かせる、とても美しいお花らしいですよ」


「へえ……よく知っていたわね。リアはお花が好きなの?」


 白粉をはたいてくれるリアの仕草に合わせて瞼を閉じる。柔らかな化粧筆の毛先が何だかくすぐったい。


「いえ、亡国メルヴィルについて調べていたときにたまたま見かけたんです。何でも、亡国メルヴィルでは主流なお花だったとか」


「そうなのね。見てみたいわ。今も咲いているのかしら……」


 亡国メルヴィルの領土は、今はベルニエ帝国の所領になっているはずだ。亡国メルヴィルの文化や風土がどの程度守られているのかは分からないが、そんなに素敵な花ならば一度くらいお目にかかってみたいものだ。


 そのまましばらく瞼を瞑りながら、大人しくリアに化粧を施されていると、やがて彼女は華やいだ声を上げた。


「はい、今日も完璧な美しさですよ! フィーネ様!」


 口紅に薄く紅を引いたところで、リアは愛らしい笑みを見せる。化粧を施すと、気分がぴりっと切り替わる気がした。


「ふふ、ありがとう、リア。あなたの仕事は本当に丁寧ね」


 薄紅色の花弁にまつわることで何だか気が塞ぎこんでいたが、こうしてリアと何気ない会話をする時間に癒されていることに気づく。やはり、友人というものは大切だ。


「今朝の体調はいかがですか? 吸血したほうがよろしければ準備いたしますが……」


 リアはクローゼットからワインレッド色のドレスを取り出しながら、半身振り返って私に問いかけた。


「今日は大丈夫。一昨日いただいたばかりだもの」


 クラウスと出向いた夜会の日に飲んだばかりだ。しばらくは問題ないだろう。


「では、ドレスに着替えたら、早めに食堂へ移動しましょうか。どうやら、旦那様と奥様がお嬢様にお話があるようでしたから」


「話……? こんな朝から何かしらね」


 思い当たることがあるとすれば、クラウスとの婚約の一件だ。体調を崩して昨日まで伯爵家に泊まっていたから、何か私に聞きたいことがあるのかもしれない。


 リアに手伝ってもらいながら普段着のドレスに着替えた私は、早速、家族の待つ食堂へと向かうのだった。

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