19 夢のコントロールの探求(6)観察について

前略

 ぼくが明晰夢の探求を始めて久しいのに、きわめてわずかな成果しか挙げていないのはいったいどういうことかと、きみが訝しがるのも無理のないことである。なぜなら、きみはまだ、明晰夢の世界がどういうものか、正直なところぜんぜんわかっていないからである。百聞は一見に如かずというが、まさにそのとおりで、体験すればたちどころにわかる様々なことも、文字にして説明しようとすれば、かなりの時間と労力を伴うものだ。だからこそ、ぼくは、きみが一日でも早く明晰夢を見られるのを心待ちにしているわけであるが、それもまた致し方ないことであるから、いましばらくは、ぼくの目を通して明晰夢の世界を観ていただくのも、それはそれでたいへん結構なことである。

 夢の光景と言えば、シュールレアリスムの絵画を連想するかもしれないが、現実ばなれした対象は思ったより数が少ないのが実情だ。ぼくが想像力の乏しい人間だからだろうか。きみに自慢できる例と言えば、どこかの寺に建っていた『百重塔』くらいのものだ。まあ、ぼくはどちらかと言うと、現実でもありふれたものを観察するほうが好きだから、それでもいいのだけれどね。別に負け惜しみで言ってるわけじゃないよ。シュールなものは、きちんと観察すると、かえってがっかりさせられることが多いからだ。観察とは、ある意味で無意識の「解明」であるから、意味不明なものに無理やり意味を求めることになる。そうすると、ぼくの脳はその場しのぎの珍解答を連発し、大抵つまらないことになるのだ。

 自分の家とか、かつて通っていた学校とか、馴染みのある場所であっても、夢の世界では必ずどこか変になっている。これは明晰夢にかぎった話ではないので多言は要しないだろうが、通常は、夢の世界はひどくぼんやりとしているので、多くのことが見過ごされていると思われよう。しかし、明晰夢の経験を繰り返すうち、本当は通常の夢でも、脳が描いているイメージ自体は、案外鮮明なのではないかと、ぼくは疑い始めた。問題があるのは、テレビの性能ではなく、ぼくらの頭ではないのか。ぼくらがぼんやりとしか見ていないから、記憶にもはっきり残らないのではないか。日常生活でも、ぼくらは対象を見ているようで、きちんと見ていないことが多い。夢の中ではなおのことそうであろう。だからこそ、何かがおかしくても、それに気づけないのではないか。レクター博士の言葉を借りれば、「眺めているが、見てない」。何かをじっと眺めることはあっても、それは視点の移動がないことを意味するにすぎない。観察しなければ、物事の詳細などわからないし、それが意味することを読み解くこともできない。「無意識の観察」とは、矛盾した言い回しに聞こえるが、「直観」とはつまるところそういうものである。直観が洞察の一種であると言われるのは、訓練された、知性のこもった眼差しで物を見ることだからである。

 世界の真実とは何かを見きわめようとする眼差しで、夢の世界を眺めると、そのとき何が起こるのかは、もう幾重にもわたって書き続けてきた。そのとき、人は何かがおかしいと直観し、『これは夢じゃないのか』と疑う。そして、もっとよく事態を観察することによって、何がおかしいかを突き止め、こう断言する。『これは夢だ』と。冷静な観察眼の持ち主だけが、世界の真実を知ることができる。何かを観察することは、その正体を暴くことである。物事の表面をただぐるぐる眺めることは、観察とは言えない。

 ところで、この観察という作業が、くせものなのである。明晰夢を見始めたばかりの頃は、物珍しさからむやみやたらに周囲を観察しようとするものだが、これがいかに危険な行いであるか。このことは、前もってきみにも説明しておくに値しよう。

 大きく分けて、二種類の危険があるように思われる。まず、あまり重要でないほうから言うと、夢の世界では、むやみに視点を移動させたり、後ろを振り返ったりしないほうがよい。なぜなら、特に後者の場合には、ほとんどつねにそこに予期しない何かが立っていたりするからである。それまでいたところとぜんぜんちがう場所にワープしてしまうことも稀ではない。そうなれば、もといた場所に戻ることは、ほとんどの場合、不可能である。特定の物や人物をしっかりとそこにとどめておきたければ、それらから目を離すべきではない。夢の世界では、ぼくが見ていないものは、そこに存在しないに等しい。仮にある時点でぼくときみが同じ場所に居合わせたとしても、ひとたびぼくがきみから目を離せば、次の瞬間にもまだきみがそこにいる確実な保障などありはしないのである。

 二つ目の危険は、より深刻なものである。夢の世界にはユニークな対象も時折出現するから、その構造を見きわめようとすることは魅力に富んだチャレンジである。現実世界でも、不思議なものを目撃したら、人々は目を見張り、もっとよく見てみようと目を凝らすだろう。「目を凝らす」。なんでもないことのようだが、これがなかなかどうして、夢の中では神経を使う作業なのである。なによりそれは、精神の集中を要する。「目を凝らす」と言っても、正確には、夢の中のぼくは、実際に目を使って物を見ているわけではないので、観察とは、何かに精神を集中させることとほぼ同義である。なぜそれが危険かというと、精神の集中を伴う行いは、なんであれ、夢から離脱してしまうリスクに付きまとわれるからである。これが、明晰夢の基本的な、きわめて厄介な特徴である。覚醒のレベルが上がりすぎると、脳が眠りから覚めてしまうようなのだ。「凝視」はかなりハイリスクな部類に入る。やりすぎると、かえって視界が暗くなったり、最悪の場合、眠りから覚めてしまったりする。慣れてくると、夢から覚めてしまいそうになったとき、意識の緊張を解くことで覚醒を抑止することもできるのだが、それでも何度かに一度は必ず失敗する。いちど目覚めてしまうと、ふたたび眠りについたとしても、通常の夢を見始めてしまう場合がほとんどである。

 日常でぼくらがなんともなしにできている行いでも、夢の中では思わぬ障害にぶつかることが稀ではない。「凝視」はその典型例である。大事なのは慣れである。ぼくが明晰夢を見るようになって久しいが、夢の内容をコントロールするという目標について、いまだわずかなことしか達成できていないのは、ひとつには、まずは普通のことが普通にできるように、夢の世界になじむ訓練を続けていたからである。基本をおろそかにしては、離れ業をやってのけることは難しい。偶然できたとしても、まぐれじゃないかと疑われ、真剣に取り合ってもらえないだろう。そうならないために、一歩一歩、着実に歩を進めていくことこそが、夢を実現する上でいちばん大事なことなのである。

 きみも地道に睡眠をつみ重ねていけば、いつかはきっと明晰夢を見られるだろう。ある意味でそれは最も容易な試みだ。睡眠ほど努力の要らないものはないんだからね。   草々

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