補遺 送られざる手紙

1 現実としか思えない夢

 きみは現実としか思えない夢を見たことがあるかい? ぼくはある。このまえ見た。いや、あれはもしかすると空想だったのか。ぼくは地面に落ちている空き缶をつかんだ。そこにどのような文字が書かれているのか、一瞬、ものすごく興味が湧いた。だが、ぼくはすぐに空き缶を地面に投げ捨てた。なぜかって? これが夢なわけないと思ったからである。そもそも、夢であろうかと疑うなんて、頭がどうかしている。夢であるかどうかなど、確かめる必要すらないことである。しかし、後になって思い返してみると、あれはどう考えても夢だ。そうとしか考えられない。だって、そんなところにぼくがいたはずがないんだから。昼のあいだ、ぼくはこの建物の外に一歩も出ていない。だとしたら、ぼくが地面の空き缶をつかむなんて、できるわけないじゃないか。だったら、やっぱりあれは夢だったのか。それとも、ただの空想だったのか。わからない。だけど、ぼくからすれば、どっちだって同じことだ。夢も空想も大差ないじゃないか。きみもそう思わないかい?

 ところで、話は変わるが、きみは『賢者ナータンの悲劇』を知っているかい? レッシングの戯曲じゃないよ。実際にあった話だ。ぼくもこのまえ初めて聞いた。それがどんな話か、きみも気になるところだろうが、残念ながらほとんど忘れてしまった。馬耳東風というやつだね。ひどく混乱しているうえに、たいして面白い話でもなかったんだ。確か、金持ちだった人が貧乏人に財産を分け与えた結果、没落してしまうという話だった。

 ぼくはその夜、いつものように寝床から抜け出て、月の見える丘に向かった。ふもとには大勢の人がぼくの話を聞くために集まっていた。何の話をしたのかは忘れた。たぶんどうでもいいことである。満足して引き上げようとしたとき、電柱の陰からぼくを呼び止める者があった。修行者のようなフードをかぶった奇妙な身なりの老人だった。老人は言った。「あなた、賢者ナータンの悲劇はご存知ですか?」ぼくが「戯曲のことか」と聞くと、老人は「ちがう。実際にあったことだ」と答えた。老人が話を語り終えると、ぼくは「その人はその後どうなったのか」と聞いた。老人は「むろん生きていますよ」と答えた。「不老不死ですから。」「ああ、そうだったね。」「彼がいるところに案内しましょうか?」

 ぼくは老人のあとについて行った。そこはまるで戦場のような廃墟が立ち並ぶスラムだった。コウモリがわんさか飛び交っているし、黒猫がそこらじゅうにうようよしていた。老人に連れられるがままに、ぼくはコンクリート造りの粗末な家に入っていった。家の中は明かりもなく、窓から差し込む月明かりだけで、薄暗かった。奥の部屋の扉を開けると、中には粗末なベッドがあり、その上にひとりの男が横たわっていた。ぼくは彼の顔を見てぎょっとした。ほとんど皮と骨だけになっており、かろうじて生きているという感じだったが、その男はまぎれもなくぼく自身だった。「近くに行って、彼の手を握ってあげなさい」と老人は言った。ぼくはためらった。それはなにかおぞましいことであるように思われた。ぼくが立ち尽くしていると、男の頬に涙が一筋つたった。男は助けを求めるように、骸骨のような手をぼくのほうに向けた。ぼくは怖くなって、その場から逃げ出した。

 それからのことは、よく覚えていない。ぼくは地獄にでも迷い込んだんだろうか。でも、あそこには空もあったし、どのみちそんなところに行けるはずはないんだがね。もしかしたら、ぼくは自分の未来を見ていたのかな。悪夢のようだったよ。もし未来のぼくがいまのぼくに警告を与えているんだとしたら、その意味はたぶん、善いことをするのは愚かなことなんだ、破滅はまちがいなしだ。たぶんそう言いたかったんだと思う。しかし、不幸のどん底にあって、死ぬに死ねないというのは、悲劇だね。不老不死の薬なんてものは、あったとしても、飲まないほうが賢明だろうよ。きみもそう思わないかい?

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