24 夢の解釈(4)夢と小説
前略
『わからない』という不安定さに真正面から向き合って真剣に悩み続けることを、優柔不断な態度だとみなして嘲笑しようとする性根の腐った輩もいるが、判断を留保することが、時として、強引に結論を下すよりもはるかに賢明な処置でありうるということは、歴史が証明している。だからきみは、考えられうるかぎりで最も賢明な選択をしたのだと胸を張っていただきたい。「夢の中での自分探し」はどのみち危険に満ちた企てである。少なくとも、専門家の助言なしに素人(ぼくを含め)が手を出すにはリスクが大きすぎる領域なのだ。
夢はなにも精神分析や心理カウンセリングだけに役立つのではない。夢は、芸術家や発明家によって、現実に対するアイデアを汲み取る重要な源泉としても役立てられてきた。いまや、きみが問題にしているのはこのことである。もし夢が無意味であれば、そこからなんらかの示唆を得ようとすることは、ばかげた話であろう。しかし、夢は現にアイデアの宝庫である。そのようなものとして、夢は現に役立てられてきた(したがって、夢は無意味ではないのだ)ときみは考えるわけである。これまで何度も強調してきたように、明晰夢は非常に鮮明な夢であり、意識もはっきりとしているから、夢の内容を観察するのに適している。したがって、明晰夢は、きみの新しい計画におあつらえ向きだ。夢はきみの脳が構成したものだから、夢の世界における発見は、「自分の発見」である。これがきみの考える新しい「自分探し」の形であり、明晰夢の有益な使い道である。
なるほど。いや、まったくその通りである。素晴らしい。ぼくもきみの新しい計画に賛同するのにやぶさかではない。きみが言っていることは、正しい。そう、ただひとつのことを除けば! ぼくがひっかかる唯一の点は、「夢は無意味ではない」ときみが言いきっていることだ。夢が現に有用であるということから、きみはそう推論しているが、問題はそう単純ではない。すでに片付いた議論を蒸し返すようで恐縮だが、夢を利用した心理カウンセリングに実際に治療効果があるとしても(事実それは着実に治療実績を積み重ねている)、そのことと、ユングやフロイトの説が正しいかどうかは、別問題である。「悪魔祓い(エクソシズム)」で正気に戻った人がいたとしても、神がいるという証明にはならないのと一緒だ。それは夢を取り巻く人間心理の神秘に依存するものであって、夢という現象の実態を解き明かすものでは必ずしもない。夢のストーリーはそもそも解釈可能な意味をもちうるか、もちうるとすれば、どのくらいの比率でそうなのかという問題は、依然として未解決のままなのである。
すべての夢のストーリーに解釈可能な意味があると考えるのは、あきらかに無茶である。例えば、『パンはパンでもフライパンを食べようとする夢』は、たんに子供じみた連想に基づく、どう考えてもでたらめな夢であって、深い意味などない。これは極端な例であるが、もっと微妙な、深い意味があるようにもないようにも思われる夢については、判断に困ることになろう。例えば、草原にいるカブトムシが突然しゃべりだして、その上にリンゴが落ちてきたという内容の夢は、一見すると滅茶苦茶だが、深い意味があるように思えなくもなく、判断に困るだろう。
しかしながら、考えてもみれば、そのように判断に困ること自体が、すでにおかしいのである。なぜなら、夢のストーリーを構成するのも、解釈するのも、同じぼくの脳なのだから、脳が合理的に(理解可能な仕方で)ストーリーを構成したのであれば、その同じ脳が理解に苦しむようなことはありえないように思われるからである。したがって、一見したところ意味がよくわからない夢は、ぼくの脳が考えなしに作った無意味な夢だと考えて差し支えなかろう。ぼくの経験から言うと、夢のストーリーは、概してばらばらな出来事の連鎖にすぎず、短期的な予測や単なる連想に基づくものが大半である。合理的に異論の余地のない仮定のもとに話を進めるかぎり、夢のストーリーに意味があるとはほとんど考えられないのである。
このように見てくると、ぼくらが見る「難解な」夢は、無責任な脚本家がつくった映画や小説に喩えることができるかもしれない。たとえばホラー映画などで、幽霊が人々を呪い殺したり、殺人鬼に追い掛け回されたりして、はらはらどきどき、背筋の凍るような思いをするとき、あるいは悲劇的なドラマを見たり読んだりして、痛切に心を揺さぶられるとき、ふと我に返って、『ああ、これは作り物の話なのだ』と悟る醒めた意識は、悪夢から目覚めたときのほっとした気持ちに通じるところがある。なるほどそうした作品は、人々の感情を揺り動かすことにかけては見事だが、話の筋がめちゃくちゃでは、やはりだめであろう。
三流のホラー映画などによくあることだが、さんざん意味深な伏線を張っておいて、結末が完全に理解不能であったときの憤懣やるかたなさには、喩えようがないものがある。もともと不可思議な現象を描いているので仕方がないのかもしれないが、視聴者を納得させるより煙に巻こうとする逃げ腰の姿勢は、無責任としか言いようがない。あるいは、伝えたいことがまったくもって不明瞭で、『あとはあなたたちが思うように解釈してみなさい。そのようにして本当の意味で作品に生命が吹き込まれるのです』などと一流ぶったふりをして、その実、自己の浅はかさと構成力のなさを観衆の想像でおぎなおうとする詐欺は、想像を絶するほどこの世の中に横行している。
思うに、玉虫色の結末など、「迷作」の証でしかないであろう。そこでは作者は、物語の本質に通じる扉の前に立っているにすぎない。彼らは、扉を開けるにすぎず、そこから先は、きみ自身の目で確かめてみろと、きみの背中を押すが、きみが迷い込むことになるのは所詮、出口のない迷路にすぎない。それが彼らの本質なのだ。あるいは別の迷作家は、意味ありげな問いを発するだけでは満足できず、自分が作った迷路に自分自身も迷い込んでしまって、さんざん右往左往した挙句、行き倒れてしまい、誰かに必死に助けを求めるが、誰も助けに来ないことがわかると、『誰も自分のことを理解してくれない』などとぶつぶつ不平を言ったり、『人生とは迷路のようなものだ。実はそれが書きたかったんだ』などと意味不明な発言をしてお茶を濁そうとする始末である。こんなていたらくでは、なにをしているのかわからない。
いやしくも名作と呼ばれる作品の作者ならば、扉の前ではなく、迷宮の最深部にひそみ、あるいは王宮の玉座にどっしりと腰を据えて、ここまで来いと、静かに座して待っていてほしいものである。さればこそ、血の通った作品というものであろう。作品には作者の魂がこもっていなければならない。望むらくは、万人が通れる道がそこに続いていればよい。しかし、世界の真実とは近づきやすいものばかりとはかぎらない。ここに作家の頭痛の種がある。万人がすでに理解していることを殊更に言い立てることは、事柄としては、無益である。作家に使命というものがあるとすれば、大衆作家は、いつの時代でも、多くの人が言ってほしいことを言うための、ほとんどそれだけのための、専門職であった。
悲しいことに、昨今では、万人が理解できる程度の真実しか作家は言うことができなくなってしまっているようにも思われる。すでにして白日の下にある真実が多くの人の同意と共感を得ることは、必至である。もしきみが世間でひとかどの人物として尊敬されたいと望むならば、理解に苦慮するような難しい真実などあえて言おうとはせず、ただあたりまえの真実だけを、何度も何度も、繰り返し声高に叫ぶようにすればよい。そうすれば、きみは、物の道理がわかっている人物として、世間の尊敬と信頼を勝ち得るであろう。真理への道は、二重の意味で、いばらの道である。きみが大変な苦労の末にこの道をきわめ、哲学者と呼ばれる人種にまでなったとしても、晩年は孤独な散歩道で夢想にふけるのが関の山なのである。
話がかなり脱線してしまったが、ぼくが言いたかったのは、夢が描くストーリーには、たいして期待できそうにないということである。むろん、大芸術家が見る夢は、それなりのものであろう。きみがおもしろい夢をどんどん見る人なら、小説家になる道をまじめに検討してみるのも、それほど筋違いではあるまい。それもひとつの夢であろう。しかし、エジソンが言ったように、ひらめきは全体の1パーセントにすぎない。夢を現実にするためには、やはり多大な努力がつきものなのである。 草々
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