36 夢のコントロールの探求(16)

 お尋ねの件。学問的な明晰夢研究がどのような状況にあるのか、ぼくは全然知らないが、それが多くの人にとってひどく味気ないものとならざるをえないことは、容易に想像できる。国民ひとりひとりが王であるような夢の世界を建設しようという研究に国が予算を出すとは到底思えない。民間の企業にしても、快楽の「永久機関」の開発は、みずからの基盤を掘り崩す脅威でしかないため、この錬金術的プロジェクトには、これまで価値ある努力がほとんどなされてこなかったのである。

 現代の科学者たちは、マッド・サイエンティストのレッテルを貼られ追放されるかもしれないリスクをあえて冒そうとはしない。科学的探究において「冒険者の時代」はとうの昔に終わりを告げた。現代の科学的探究は、もはや未知のものの探求としては特徴づけられない。本当に未知のものであれば、その効用など知りようもないのであるが、科学者はあらかじめそれを説明することを理不尽にも要求されるからである。

 社会の側からすれば、なんだかわからない研究に資金を配分するわけにはいかない。より期待値の高いものに資金を投入しようというわけである。見通しのきく利益を基準とした選別は、ある意味で「賢明な」処置ではあるが、学問上の根本的な革新をますます起こりにくくしていることだけは確かである。科学者の側からすれば、自分が従事する研究の「意義」への反省をますます強く求められる肩身の狭い世の中になってしまった。社会的利益という名の脅迫めいた規制とそれに関連するしたくもない雑務に追い回される中で、いつしか科学者自身がいじけた実験動物になりさがってしまったようにも見える。どこにどれだけ「刺激」を与えれば価値ある研究成果が見出されるか実験しているのは、役人たちである。むろん、そこには成功もあり失敗もあるが、彼らはいかなる意味でも冒険者ではない。ただの実務家である。

 社会批判めいたことを続けて言うならば、現代の日本人はますます利己的になりつつあるようにぼくには思われる。その主な原因はアメリカ的な価値観の浸透だが、キリスト教的背景が存在しないぶんだけ、抵抗も少なく、日本人は自由という意味を完全にはき違えてしまったようだ。それでいて、他者の目を必要以上に気にするという日本人の悪い面だけは保ち続けている。そうして、妙な格率ができあがってしまった。他人に好かれたいなら、過度な自己主張はするな。他人の言動には目をつぶり、自分にも甘くしなければならぬ。ストイックな人間は、いるだけで周囲に圧力をかけるので、敬遠される。むろん、多少は尊敬されるだろうが、それ以上に鬱陶しがられるということだ。牧場の牛のように、ほどほどに利己的で、従順な存在になれ。そうすれば、たいてい結婚もでき、長生きもできる。世間ではそれを幸福と呼ぶらしい。

 ぼくには反吐が出るほどくだらない生き方に見えるが、日本人の多くは、そのような生き方を普通のこととして受け入れている。人間というものをとことんまで軽蔑しないと、こんな生き方はできないんじゃないかとぼくは思うのだが、彼らの頭の中では、むしろぼくのほうが人間を軽蔑していることになるらしい。まったく理解できないことではあるが。

 彼らの口癖は、「人生はクソ」。男だったら「女はクソ」、女だったら「男はクソ」と陰口を叩く。本当は人間全体をクソだと思っているが、言わない。それが彼らの処世術だからである。人間というものを根本的に軽蔑しておいて、自分だけはなぜか特別だと確信している。考えることを放棄しているので、自分もまた人間であるという明白な矛盾にすら気づけない。反省なんてものは、重大な失敗をしたときにだけするものだと考えている。それでも、ごくまれに自分もクソだ気づくことがあって、落ち込む。しかし、親しい友人などから「あんたはクソじゃないよ」と慰められると、じきに立ち直り、またもとのように自分を特別視し始める。その繰り返し。だが、まったく同じではない。繰り返すごとに、自分と自分に近しい者だけは特別だという信念を強化することに成功する。やがて、なにも考えなくなる。

 このような人間の末路は、容易に想像できる。死期が近づくと、さすがに反省に迫られる。今度ばかりは、少々冷静に、自分の人生を振り返ってみる。もしかしたら自分も他人と同様にクソなのではないかという不安が頭をかすめる。このままでは、死後は地獄行きかもしれないと恐れおののく。そして、神に救いを求める。人間を尊敬するためにではなく、人間が愚かな生き物であることを再確認するために。また、自分は愚かだと自白することによって、神に赦しを請い、天国に行くために。生活にも変化が起きる。彼らはとても重要なことを悟ったと確信し、自分の教えを若い世代に広めようとする。彼らの考えではクソであるところの若者たちに、「おまえたちは特別じゃない。クソなんだ」ということをわからせようとする。もちろん、若者は年寄りの妄言などに耳は貸さない。クソだから聞く耳がないのだとあきらめ、ふたたび人間を根本から軽蔑しはじめる。これが彼らの本質である。もしかすると、彼らは、人間を軽蔑し侮辱しているのだということに、最後まで気がつかないかもしれない。彼らは人間を愛しているとすら思っている。しかし、彼らが愛するのは、自分と、自分の身近にいる者たちだけなのである。

 彼らの本質は、徹底した自己中心主義と、誤って解釈された平等主義である。これら、本来相容れない思想を結びつけるものこそが、彼らの考える「自由」である。彼らにとって、平等であることに価値などない。たしかに人間は平等であるが、平等にクソであるにすぎない。彼らにとって、本当に価値があるのは、自分たちの幸福だけであって、もし平等であることに価値があるとすれば、どうして彼らが不幸な境遇に身を置くなんてことがありえよう。事実、彼らは不幸である。少なくとも、自分ではそう思っている。人生はクソだと確信している。彼らにそう確信させるためには、自分より満足な生活をしている人たちが一握りもいれば十分である。

 彼らに備わった自己中心性は、人間に生まれつき備わっている利己的な傾向に由来するものではあるが、アメリカナイズされた自由概念によって誇張され、肥大している。本来ならば社会的な不平等の解消を意図するところの、学校で教えられる普遍的原則、「人間一人ひとりはかけがえのない存在だ」という平等主義的テーゼは、「自分こそが特別な存在だ」という自己中心主義的テーゼに置き換えられてしまう。彼らはこう思う。自分は特別な存在なのに、どうして不幸なのか。他人が、社会がクソだからであるにちがいない。クソであるにもかかわらず、人間は平等だなどときれいごとをほざくから、不平等はなくならない。彼らにとって、平等とは、幸福の平等である。しかし、実のところ、彼らはこの平等すら願っていない。クソであるところの他人と肩を並べることは、彼らには我慢のならないことだからである。

 愚痴っぽいことをたらたらと書いてしまい、まことに申し訳ない。世を厭うたあげくの、ばからしい戯言だと笑っていただいても、おおいに結構である。それはそれで、正直な反応だ。大事なのは、自分の正直な意見を伝えるということなんだからね。それでは。

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