16 夢のコントロールの探求(4)

前略

 ぼくの友人にして、ぼくの探求の公正なる判定者として、ぼくの提示した成果に対してきみから加えられた数々の手厳しい批判は、ただひとつのことを除いて、ぼくも認めるのにやぶさかではない。きみが設定する「成功」という二文字が書かれた高いハードルを前にすれば、このたびのぼくの報告書が「失敗」と書かれたファイルに分類されてしまうのも、致し方ないことである。しかしながら、ぼくときみのあいだにある意見の相違は、成功という基準をどこに設定するかということに尽きるものではない。もっと本質的な意見の相違が存在しているように思われるのである。

 先ほどぼくは、「ただひとつのことを除いて」きみの批判を認めると書いたが、その点についてきみの考えが混乱をきたしていることは、ほぼまちがいがないように思われる。その点についてだが、きみは、例の「無色透明のぐにゃぐにゃした何か」を非常に嫌っており、「その感覚が消えるまでは、宙に浮かんでいることにならない」と断じている。結論から言うと、なぜきみがそこまでその無色透明の何かを敵視しているのか、ぼくにはよくわからない。確かに不快な感覚ではあったが、それがあるかぎりどうしてぼくが空を飛べていないことになるのか、ぼくにはぜんぜんピンとこない。

 まず注意しなければならないことは、無色透明の何かは、ぼくの身体の「下に」あったのではなく、ぼくの身体の周囲にあったということである。これについては、ぼくの書き方も少しまずかったようだが、無色透明の何かの上に乗っているというイメージをきみが抱いたとすれば、誤解である。(もしそうだとすれば、確かにぼくの身体は宙に「浮いた」ことにはならないだろう。)より適切な比喩を用いて言えば、ぼくは物体化した空気に乗っかっていたというより、液体化した空気の中を泳いでいたのである。

 しかしながら、いま述べたことが、問題の本当の焦点なのではない。ぼくの勘が正しいとすれば、このように説明したところで、おそらくきみは納得しないだろう。なぜなら、きみはこう反論してきそうだからである。『粘度の高い液体の中を泳ぐというのは、現実世界でもやろうと思えば体験できることである。したがって、これでは宙に浮いたとは言えない』と。なぜきみがこう反論したくなるかというと、きみが体験したいと思っているのは、きみの表現で言えば、「無重力状態にあるような感じ」であり、それなしでは宙に浮いたことにならないからである。

 もしきみが本気でこう考えているとすれば、きみの考えはひどい混乱をきたしているとしかぼくには思われない。ぼくには、きみが言う「無重力状態にあるような感じ」という表現が、まったく理解できない。この表現は、ぼくに何も語りかけてこない。ぼくは無重力という状態を経験したことがないため、それがどのような感じであるのか、そもそもわからない。おそらくきみもそうであろう。だとすると、きみがこの表現で考えているのは、何か特定の感じではない。この表現は、きみの頭の中で「無」を指し示している。感覚の不在とはつまり、何も感じないことであるから、「無重力状態にあるような感じ」とは、「無感覚」を意味することになる。そう考えるほかに、この表現を救う手だてはない。ところが、そうすると、無重力状態にあるような感じが体験したいというきみの主張は、何も感じない体験がしたいという意味になる。そのような体験に魅力があるとは、到底思われない。

 あるいは、もしかするとだが、きみは「無重力状態にあるような感じ」という表現で、何か特定の既知の感覚を表現しているのではなかろうか。「無重力」という言葉から連想されるイメージが何かきみの中にあって、それに付随する感覚をきみが求めているのだとすれば、きみはその感覚を別の言葉で置き換えて表現できるはずだ。

 きみが求めている感覚が実際にどういうものであるかは、簡単な実験をすれば確かめられよう。きみが空を飛んでいるところを空想してみて、そこに付随すると想定される感覚が、きみが求めている感覚である。そこにいかなる感覚も付随しないとすれば、きみが求めているのは、無感覚である。何か特定の感覚が付随するのなら、その感覚の正体をぼくに説明したまえ。こうした説明抜きに、ぼくの成功を「失敗」だとわめきちらすのは、まったくもってフェアな判定ではない。

 いやそれ以前に、ぼくがそもそもおかしいと思うのは、空を飛ぶということに関して、どうしてぼくがきみのイメージに合わせなければならないのか。きみの求めている感覚が、仮に無感覚だったとしよう。きみの基準では、感覚がないことが自由に空を飛ぶことの条件なのだから、あの夢でぼくは自由に空を飛んだとは言えないときみは考える。だが、そもそものところ、そのように考えなければならない理由は、ぼくには見当たらない。

 ぼくの考える、自由に空を飛ぶということの意味は、自分の意志で、自由自在に飛行すること、ただそのことのみであって、結局のところ、そこにいかなる感覚が伴うかは、まったく重要ではない。むろん、快適な感覚が伴うのであれば、それに越したことはなかろうが、そうしたことは二次的なことであって、自由に空を飛ぶことの構成要件には該当しない。物理法則を無視することもまた、必須ではなく、例えば、ぼくの背中に羽が生えて、それがぼくの意志に呼応して働き、鳥のように飛翔できたとして、なぜそのとき、自由に空を飛ぶことができたと言ってはならないのか。体の重みを感じていたからだという答えは、およそ納得できる答えではあるまい。

 以上が、きみの反論に対するぼくの答えである。ぼくはきみの混乱を解くことができたと確信しているが、ひとまずはきみの返事を待とう。きみの冷静な熟慮を期待している。   草々

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