30 夢の解釈(5)
前略
ぼくの報告を読んで、きみが心惹かれたのは、ぼくが魔法を獲得したという記念すべき事実よりも、へんてこな夢のストーリーのほうだった。そこまできみがその話に魅力を感じているのなら、ぼくとしても、きみの分析を踏まえつつ、夢に現れた若干の内容をわずかばかり掘り下げてみるのにやぶさかではない。とはいえ、ぼくのほうで、きみの分析に付け加えることはほとんどなさそうだから、きみの知りえない、ぼくの記憶の中だけにある事実を開示することで、きみの分析を裏付ける証拠として活用していただこうと思う。どうかそれで勘弁していただきたい。
若い人たちは無礼で、年寄りは神仏のことしか頭にない。きみがいうように、ぼくのこの先行理解(ステレオタイプ)が、夢の人々の行動を規定したと考えて、たぶんまちがいなかろう。前者に関してはとくに何も言うことはないが、後者に関しては、ちょっと思い出したことがあるので、書いてみることにしたい。
あれは高校受験のときだ。それなりに頑張って勉強した甲斐あって、ぼくは志望校に合格することができた。合格発表を見に行った日のことは、いまでもよく覚えている。自分の受験番号を見つけたとき、ぼくは素直にうれしかった。ほっとしたというより、やったという感じだった。ぼくは意気揚々と家路につき、同居していた祖母にも結果を報告した。
ところが、祖母からは意外な反応が返ってきた。ぼくはてっきり、努力が報われたことを祖母も喜んでくれると期待していた。いや、たしかに喜んではくれた。喜んではくれたが、祖母の考えは、ぼくの考えとは似て非なるものだった。祖母の考えによれば、ぼくが合格できたのは、なにはさておき、自分がどこそこのお寺にわざわざ出向いて、お守りを買ってきてあげたからであり、結果として、仏様がぼくに力を貸してくださったからである。祖母曰く、ぼくひとりの力でなしとげたと思い込んでいることでも、実は、仏様が陰でお力添えをしてくださっているのであり、また、家族の支えがあってこそ、ぼくは学校にも行けているし、何不自由ない生活を送ることができている、云々。
別に悪気があってこういうことを言っているわけじゃないだろうから、反論したりはしなかったけど、どうしてぼくの努力を減殺したり、無に帰すようなことを言うんだろうかと、ちょっとカチンときたことを今でも覚えている。たしかに、祖母の言うことは、一理も二理もある。しかし、なにはともあれ、まずはぼくの努力を誉めるべきだったんじゃないだろうか。ぼくが志望校に受かることができたのは、ぼくがそれなりに努力したからであり、それ以外に何があろう。たしかに、応援は励みになる。なんの励みにか。努力の励みになるのだ。それを抜きにすれば、お守りなんてものは、気休め程度のものでしかない。神仏にすがって人々が幸福になれるのであれば、世界からとっくの昔に戦争はなくなっている。神や仏に帰依してなお、不幸な人間がこの世に存在するということこそが、まさに、神や仏など存在しないことの証明なのではないのか。
祖母のほうでもぼくの反応が気にくわなかったのかどうか知らない。それからしばらくして、ある朝、ぼくはトイレの壁に次のような箴言が張り付けられているのを見た。『勉強ができるからって増長するな。人生にはもっと大事なことがある』。誰の言葉なのか知らないし、誰が張り付けたのかも知らない。そんなことは詮索するだけ無益なことだと知っていたからだ。ただ、ぼくは毎朝トイレに入るたび、そのありがたいお言葉をじっと耐えて眺めなければならなかった。それをびりびりに破いて窓から投げ捨てるなんて非情な真似は、ぼくにはできなかった。そのひとはぼくに嫌がらせしているわけじゃない。教育のつもりなのだ。そのひとなりの人生哲学とでも言うのかな。ありがた迷惑な話だが、真心から出た言葉とあっては、無下にはできなかった。そうかといって、素直に受け入れる気にもなれなかった。涼しい顔をしてやりすごすしかなかった。そういうことは、ぼくの家では日常茶飯事だった。無言の恩着せがましい教唆が充満した家で、ぼくは息がつまりそうだった。だからぼくは家を出たんだ。
そう言えば、いまふと思い出したんだが、受験のちょっと前に、別の事件があった。たしか、入試の一か月くらい前のことだ。
夕食前、ぼくが机にかじりついて勉強していると、母がすまなそうな顔をして部屋に入ってきた。なんだと聞いたら、父がぼくを親戚の法事に連れて行くと言ってきかないので、出かける支度をしてほしいとのことだった。ぼくは勘弁してくれと思った。親戚の家までは、車で一時間くらいかかる。ぼくの一生が左右されるかもしれない大事なときに、親戚の法事になど出かけている暇はない。母にそう言うと、「お母さんもそう思うのだけれど」と言葉を濁された。文句があるなら父に直談判するしかなかった。
ぼくには、父とあれこれ話をする時間すら惜しく思われたので、代わりに国語の授業で書いた作文をひっぱり出してきて、母に手渡した。それを父に読んでもらって、ぼくが言いたいことを察してもらおうと思ったのだ。作文の内容は、父を説得するのにぴったりと思われた。先生からすごく出来が良いとほめていただいたりしたので、わりとよく覚えている。たしか次のような内容だった。
「題:わたしたちは同じ世界に住んでいる。どういう意味で?
生き方やそれに呼応した物の見方に応じて、わたしたちはそれぞれ別の世界に住んでいるようなものです。見ている物が同じなんだから、見え方もみんな同じでなきゃおかしいなんて、ばかな主張をあなたは信じているのですか。それとも、自分の見え方が正しくて、他のはぜんぶまちがっていると主張するのですか。いかなる権利で? 越権行為に等しい、ありがた迷惑な話ですよ。わたしがこのように言うのを聞いて、『聞き分けのないやつだ。根性を叩きなおさなければ』という感想をもったとしたら、あなたはただ、わたしを自分の意見に従わせようとしているにすぎません。そもそもそれはあなたの意見なのでしょうか。どこかよそから引っ張ってきた意見じゃありませんか。もしそうだとしたら、あなたはいやしくも考える能力を持っている人間(わたし)を、社会的な権威や影響力をもつ他者の意見に盲従させようと企てているだけです。もしそうであれば、あなたのほうがよっぽど失礼で、根性が腐っていると、わたしとしてはそう判断せざるをえません。」
文章はもっと稚拙だっただろうが、だいたいこんな感じだったと思う。説得力をもたせるために、あえて挑発的な書き方をしており、いま思えば、それが余計にまずかったのだろう。まさに火に油を注ぐ結果となった。ぼくは父に呼び出されて、ぶん殴られた。もはや勉強はおろか、法事に行くことすらままならない事態になった。ぼくは頬骨を骨折していた。母が止めに入らなければ、もっとひどいことになっていたかもしれない。どうやらぼくは、父の中にある、傷つけてはいけないものを傷つけてしまったようである。いま考えれば、ばかな真似をしたものだと思うが、さりとて、ふだん温厚な父があそこまで激怒するとは、当時のぼくは夢にも思わなかった。
この事件は、宗教というものが、真理に対してほとんど暴力的とも言える権利を行使しようとするということを、ぼくに身をもって体験させた事件であったと言える。このように言うと、きみは、ぼくが本質的に異なった二つのことを混同していると思うかもしれない。気に入らない意見を封殺する古典的な方法は二つある。ひとつは、神仏の絶対的権威を持ち出すことであり、もうひとつは、世俗的権力を行使して、屁理屈を言うなと「ちゃぶ台をひっくり返す」ことである。ぼくの父の行動は、信仰を傷つけられ義憤に駆られた結果であるというよりは、典型的な昭和のおやじの行動に瓜二つであり、『おれが家長だ。家長の意見は絶対だ』と喚いて議論を根こそぎにしようとしただけのようにも見える。
しかし、父を擁護して言えば、ふだんの父は比較的穏やかな人物である。父をあれほどまで極端な行動に駆り立てたのは、問題が宗教に関わることだったからだ。父は信仰を後ろ盾にして、あのような行動に出た。もっと言えば、信仰に絡みつくさまざまな人間の利害に後押しされて、いわば反射的にあのような行動に出てしまった。もちろん暴力は絶対によくない。ただし、例外もある。ある哲学者は、動物は殴ってでも言うことを聞かせなければならないと論じた。動物愛護家はむきになって否定するかもしれないが、猛獣がそのときの気まぐれな神経のいらだちで飼い主をかみ殺そうとしたとき、『きみの行動はまちがいだ。後で絶対に後悔することになる』と言葉を尽くして説得したところで、絶対に無駄であろう。そのときには、殴ってやらなければならない。問題は、あのときのぼくがそこまで限度を超えたまちがいを犯していたかどうかである。控えめに言っても、それはかなり疑わしいであろう。
以上で報告した二つの出来事は、どうしてぼくが宗教をここまで毛嫌いし、過剰な拒否反応を示すのか、その動機を解明している点では、共通していると言える。父の件がなかったとすれば、ぼくは祖母の言動を笑って済まして、その後ぜんぜん思い出さなかったかもしれない。父の暴力的な権利行使と、ぼくの手柄を横取りせんとする祖母の略奪計画は、ぼくのあたまのなかで反省的に結び付けられてしまった。その結果、宗教一般に対して、確固とした否定的見解を抱くようになってしまったと推察される。
ここから、夢のストーリーを解釈するうえで、次のような結論が導かれる。ぼくは祖母に抱いたイメージをもとに、「年寄り」のイメージを一般化しており、また、ぼくが宗教から受けた手痛い「打撃」は、ぼくに不快感をともなう生理的反応を引き起こすほどのトラウマを植え付けたようである。
以上で報告を終わる。正直、こんなに細かくだらだらと書くつもりはなかったのだけれど、書いているうちについ調子に乗って、少々突っ込んだ分析をしてしまったようだ。きみが手を加える余地が残っていればよいのだけれど。まあ、書いてしまったものは仕方がない。このまま残しておくことにしよう。
ともあれ、たまには現実の話をするのも悪くない。夢は現実を映す鏡として、現実を理解するのに役立つが、夢を裏付けるのは現実であり、現実を離れては、夢は根無し草でしかない。なかなかよい締めの言葉が出たところで、今日はこの辺で。家族は大切に。 草々
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます