手 紙
1 イントロダクション:明晰夢とは何か
前略
例の事件について詳しく教えてくれてありがとう。ここでも新聞は読めるが、きみが語ってくれたような周辺的な事情までは、新聞は書いていないから。だいたい最近のメディアというものは、読者が本当に知りたいと思うことを伝える気がないようだ。とくにネットが台頭してからは、記者でもない匿名の一個人のほうが、組織の縛りがないだけ、情報を正確に伝えるメッセンジャーとしての役割をきちんと果たしている気さえする。ぼくの思い込みならよいが。
くだらないまえおきはこのくらいにしておいて、きみにちょっと報告したいことがある。前回きみに手紙を書いてから、ぼくはちょっと不思議な体験をした。きみは明晰夢というものをご存知だろうか。明晰夢とは、夢の中で、それが夢だと気づいているような夢のことだ。ぼくは初めてその夢を見た。三週間くらい前のことだっただろうか。たいへん興味をそそられる体験だったので、ここにちょっとその内容を書いてみようと思う。
たぶん明け方近くのことだったと思う。気づくと、ぼくは絶海の孤島にいた。視界は、見渡すかぎりの海だ。ぼくが立っていたのは、島というより、海面に突き出た岩だった。岩は半畳ほどの広さしかなく、どちらに歩み出しても海だ。ぼくは泳ぎが得意ではない。さあ困った。いったいどうしたものか。いや、そもそもどうしてこんなことになったのか。ぼくはいったいどこから来たのか。そのような疑問が頭をよぎったときに、ふと、これは夢だと気づいた。よくマンガとかだと、自分のほっぺたをつねって痛いかどうか確認したりするが、そんな必要はなかった。ひとたびそれが夢だと気づくと、もう疑いの余地がなかった。だって、どう転んでも、自分がいまそんなところにいるはずがないのだから!
そうこうするうちに、前方の沖合いから、一隻の巨大な豪華客船が、ぐんぐんぼくの目の前に近づいてきた。そして、少し離れたところに止まると、今度は船体から飛行機の搭乗ゲートのようなものがぼくのほうに伸びてきた。ぼくはまるで狐につままれたような気分で、ゲートをくぐり、船内の急な階段を上った。すると、ダンスホールのような場所に出た。ホールは豪華な衣装を着た大勢の人でひしめきあっていた。ぼくが目をぐるぐるさせていると、ウェイターが歩み寄ってきて、ぼくに「飲み物はいかがですか?」と聞いた。ぼくは差し出されるがまま、シャンパンの入ったグラスを手に取った。ちょうど喉が渇いていたので、ぼくはそれを一気に飲み干した。久々の酒だ。久しく忘れていた味だ! ぼくは涙が出そうなくらい感激してしまった。これが夢だとは信じられないくらいだった。これが本当に、ぼくの脳が見せている世界なのか。人間という生物が秘めた能力に、あらためて驚かされたよ!
その夢はじきにとぎれたが、それからもぼくは何度か立て続けに、明晰夢を見た。ぼくはいろいろなことをした。友達と遊んだり、過去の世界に飛んだり。詳細は、紙面の都合上、割愛させてもらうが、久々に興奮したよ。きみも想像がつくだろうが、刑務所というところは、自由というものがまったくない。トイレに行くのさえ許可がいる。満足な話し相手もいない。娯楽だってぜんぜんない。だが、夢の中でなら、ぼくはなんだってやれる。どこへでも好きなところに出かけられる。誰とだって会える。夢の中では、ぼくは自由だ。夢は希望だ。ぼくにとって、唯一の慰めだ。
みじめな一人遊びだと笑いたいなら、勝手にすればいい。とにかく、明晰夢は、空想などとはぜんぜんちがうものなのだということは、強調しておきたい。経験がない人に説明するのは難しいが、明晰夢は、本当にリアルな世界である。そこにあるものは、ホンモノであるとしか思われない。触れることもできるし、味わうこともできる。考えをめぐらすこともできるし、やろうと思えば、明晰夢のさなかに何か別のことを空想することもできる。この事実だけとってみても、空想とは根本的にちがう種類の現象であることがわかるだろう。
健康な人ならば、空想と現実の知覚とを混同したりはしない。同じことは、明晰夢が提示するリアルな世界についても言える。それは世界として確かにそこにある。そうとしか思われない。そう感じさせる何かが確かにそこにあるのだ。
ぼくの話を聞いて、もしきみが明晰夢というものに幾分か興味を持ったなら、次の手紙でもっと詳しい話をすることにしよう。それでは、お体に気をつけて。暖かくなってきたとはいえ、朝はまだまだ冷えるから、風邪など引かぬように。 草々
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