34.

 それはウネウネと動く巨大な不定形の肉塊だった。

 あるいはダイアモンド製ピラミッドという殻から出てきた巨大な肉色のカタツムリか。

 体積は象一頭分……いや、たっぷり二頭分はありそうだ。

 カローラとの距離は五十メートル程。

 巨大な肉塊の先端に、が居た。

 私の記憶にある……小学六年の姿で。

 しかし、それも肩から上だけだ。読原百合子の姿を保っているのは、頭部から肩までと細い両腕までだった。

 胸から下は〈異界神〉の肉塊と完全に融合し、人間としての形を保っていない。

 無我夢中で明夜アキの手を振りほどき、車外に飛び出して叫ぶ。

「読原!」

 車の外に出た私を見て、小麻こぬさが「馬鹿野郎!」と怒鳴った。

「馬鹿野郎! 何で出て来た!」

 後部座席のドアから出た私を中心に、私と小麻と熊枝の三人は、互いに一メートルほどの距離を空けカローラの側面に横並ぶ格好になった。

 私から見て右隣すなわち車のフロント側に小麻、リア側に熊枝。

 熊枝は〈異界神〉に背を向け、谷底の道から次々に現れる村人らを狙撃し続けている。

 私が車外に出たとき、小麻はからになった弾倉マガジンを捨て、新しい弾倉を装着しようとしていた。

 彼とっては最悪のタイミングで私が現れた事になる。

 さすがの小麻も、まさか私が車の外に出てくるとは思っていなかったのだろう。

 その行動に意表を突かれ、一瞬だけ、小麻にすきが生まれた。

 その隙を、〈異界神〉は見逃さなかった。

 ……とつぜん、小麻の体が宙に飛んだ。

 見上げると、彼は腹を下にして体を『く』の字に折り曲げ、苦痛に顔を歪めていた。

 その腹に、ボーリングだまくらいの大きさの黒い塊が込んでいた。

 高さ、およそ十メートル。

 黒いボーリング球が小麻の体を振りほどくように動き、小麻は十メートルの高さから落下し地面に叩きつけられた。

「小麻っ!」熊枝が叫んだ。

 何処どこかで明夜アキの叫ぶ声が聞こえた。

 危機に遭遇した瞬間、感覚が研ぎ澄まされ、全てがスローモーションに見える事があるというが……その時の私が、まさにそんな状態だった。

 無意識に〈異界神〉の方へ視線を向けた。

 小麻を攻撃したボーリング球のような黒い塊が、読原百合子の頭上一メートルほどの空中に浮いていた。

 あの黒い塊が高速で飛んで来て、ボクシングのアッパーカットのように小麻の腹を下から突き上げ、そのまま彼の体を十メートルの高さまで持ち上げて振り落としたのだと理解した。

 読原百合子の首が微妙に動いた。

 五十メートル先から小麻のダメージを確認し、『さて、次はお前だ』とでも言わんばかりに、私へ冷たい目を向けた。

 その瞳には何の感情も無かった。獲物を狩る捕食者の目。

 表情は、冷徹で冷酷だ。

 いや『冷酷』ですらない。そこにはどんな感情も無い。完全な『無』だ。

 もう一度、彼女の上に浮かぶ黒い塊を見た。

 恐怖で体が凍りつく。

 次は私を狙って、あれが高速で撃ち出される……私の体を砕き、宙に持ち上げ、地に叩き落とす……そう予想した。

 次の瞬間。

 何かが車のボンネットを飛び越え、倒れている小麻の体を飛び越え、私の前に着地した。

 ……明夜アキだ……

 私より二回りも小さな体で、まるで子供を守る母親のように、彼女は〈異界神〉の方を向いて私の前に立ちふさがった。

「私はシールド!」

 明夜アキが叫ぶ。

「仲間を護る。それが私の役割ポジション。神であろうと、関係ない。私は、あなたには負けない」

 シールドだと? つまり、彼女だったって事か?

 自動車に搭載された防御機能なんかじゃなく……

 次の瞬間、黒い塊が明夜アキめがけて高速で飛んだ。

 しかし、明夜アキの体に当たる直前、目に見えない壁に跳ね返された。

 読原百合子が、無表情のまま小首をかしげる。

 感情の無い〈異界神〉が見せる、戸惑いの仕草、か。

 再度、黒い塊が明夜アキに攻撃を加える。

 しかし一度目と同じように、見えない壁シールドに当たって弾き返された。三度目の攻撃も、四度目の攻撃も。

 五度目の攻撃を受け、初めて明夜アキに変化が現れた。

 一歩、右足だけ、後ろに下がった。

(押し込まれている……シールドの能力も攻撃を受ければ消耗すると?)

「小麻さんを自動車アンチョビの中へ!」明夜アキが、私に背を向けたまま叫ぶ。「早く!」

 小麻を見た。

「うう……」とうめき声を発しながら、小麻の体が震えた。

(生きているのか? あれだけの攻撃を受けて……)

 高所から落下して全身を打った人間をむやみに動かしては駄目だ……そんな話を何処どこかで聞いた事がある。

 万がいち脊椎が損傷していた場合、救命知識の無い者が体を動かすことでかえって深刻なダメージを患者に与えてしまうからだ。

 しかし、状況は切迫していた。

 私は小麻を仰向あおむけにして脇の下に腕を入れ、ズルズルと引きずって車の後部座席に寝かせた。

 明夜アキが後ろ蹴りで後部ドアを閉める。

 私は、前席の背もたれを乗り越え運転席に座った。

「手順を変更する」車内のスピーカー越しに熊枝の声が聞こえた。「第四号だ……短期決戦で行く」

 車窓ごしに明夜アキを見た。彼女は黙ってうなづいた。

「ア……アンチョビ……」後部座席から細い声が聞こえる。小麻が目をしたのだろう。

「アンチョビ……」もう一度、小麻が呼んだ。「おとりになれ。少しでも明夜アキたちの生存率を上げるんだ」

「了解」コンピュータ合成音……アンチョビが答えた。

 同時に、カローラが動き出す。

 運転席の私は何もしていない……自動運転か。

 私は振り向いて後部座席を見た。「気がついたか?」

「ああ……」小麻が私を見返す。「頭を強く打った……『念』に集中できん」

「じっとしていろ」私は小麻に言い、窓の外を見た。

 アンチョビとかいう人工知能に操られたカローラは、熊枝と明夜アキから遠ざかるようにして、〈異界神〉に向かって右の方へ移動していた。

 突然、カローラから鋭い警告音が大音量で鳴り出す。

(これで〈異界神〉の注意を引きつけるつもりか)

〈異界神〉を見る。

 彼女は……読原百合子は……こちらには目もくれず、ジッと明夜アキと熊枝を見つめていた。

(ダメだ……注意をらせていない。囮の役に立っていない……)

 もう一度、明夜アキたちを見た。

 いつの間にか、熊枝は長い槍のような武器を両手に一本ずつ持っていた。

 明夜アキと熊枝が同時に〈異界神〉に向かって走り出す。

(熊枝は遠距離攻撃が出来ない……だから、明夜アキに守られながら接近しようってのか……しかし、そんなに上手く行くのか?)

 彼らは賭けに出ている……私は直感的にそう思った。

 おそらく分の悪い賭けだ。

 明夜アキたちが死ねば、どの道、私の命も無い。

 ならば、もう一度……

「アンチョビ! 止まれ! 黙れ!」と人工知能に命じる。

 一瞬の躊躇ためらいのあと、自動車アンチョビが私の命令に従う。

 急ブレーキ。急停止。同時に鳴り響いていた警告音もんだ。

 再度、車の外に出た。

 そして叫ぶ。「読原!」

 しかし、その声に〈異界神〉は反応しない。

 もう一度叫ぶ。

「読原! 俺だ!」

 

〈異界神〉が……読原百合子の顔が、こちらへ向くのが見えた。

 その顔には、確かに、驚きの感情があった。

 彼女の注意が私へ向いた。

 その一瞬で、熊枝が読原に最接近し、右手の長い槍を深々とその腹部に突き刺した。

 同時に、左手の槍を地面に突き刺して二本の柄を接触させる。

 次の瞬間、無数のとげが、〈異界神〉の全身から現れる。

 刺は、〈異界神〉の表皮を『内側から』突き破ったように見えた。

「何だ? 何が起きた?」

 そこで理解する。

「敵の体内で金属を成長させたのか? 熊枝の能力で……〈異界神〉の体内に深々と突き刺した槍の穂先から、木が枝を伸ばすように、四方八方へ金属の枝を無数に伸ばしたのか? その鋭い枝で〈異界神〉の全身を内部からズタズタに……」

 私は、読原を見た。

 少女の頭を持った〈異界神〉の、その顔を見た。

 彼女は、ずっと私を見ていた。

 驚きの表情のまま。

 その顔に、少しずつ、苦痛が現れた。

〈異界神〉の体が、溶けて崩れ始めていた。

 同時に……世界そのものが、溶け始めた。

 ダイヤモンドのピラミッドも、採掘場を取り巻く崖も、空も、大地も。

 全てが溶けて、消滅しつつあった。

 恐怖にかられて、目を閉じようとした。

 しかし閉じることが出来なかった。

 彼女が、私を見つめていたから。

 私を見つめるその瞳も、最後には消えた。

 何も無くなった。


 * * *


 世界が消え、真っ暗闇の中に取り残される。


 * * *


 はっ、と我に返った。

 周囲を見回した。

 私は、森の中に立っていた。

 目の前に、林道があった。

 何も考えられないまま、放心状態でその道を歩いた。

 しばらくして、林道脇に駐車している一台の車を見つけた。

 ……ミライースだ……

 その、何の変哲もない軽のレンタカーが、元の世界に帰って来たのだと教えていた。

 後方から自動車の走行音。

 振り向くと、青味がかった銀色のカローラ・ツーリングが、低い速度でこちらに向かっていた。

 フロントガラスごしに、熊枝と明夜アキの顔が見える。

 熊枝が運転席、明夜アキが助手席だ。

 おそらく小麻は後部座席に寝かされたままだろうと予想した。

 明夜アキが微笑み、小さく手を振った。

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