17.

 林道から帰ったあと、民宿で少しのあいだ仮眠を取って、夜七時少し前に町の小さな居酒屋〈杉のれん〉へ歩いて行った。

 松沢は既に来ていて、テーブル席で一杯目の(あるいは何杯目かの)ビールを飲んでいた。

 引き戸を開けて店内に入った私に、彼は手を挙げて場所を知らせた。

 松沢の相向かいに腰を下ろし「とりあえず生」を注文する。

「まずは、久しぶりの再会に」

 松沢が中ジョッキを掲げながら言い、私も運ばれてきたビールのジョッキを掲げて見せた。

「怪我して入院してたんだってな」と松沢。

 私はうなづいた。「飲み屋でチンピラにからまれたらしい」

「絡まれた『らしい』って何だよ、『らしい』って」

「それが憶えていないんだ。居酒屋に入店したところでプッツリと記憶が途切れてる。『気がついたら知らない病院の天井』ってやつだよ。後から聞いた話だと、チンピラに殴られて頭を打って、それで脳震盪を起こして気絶したらしい」

っぶねぇなぁ、まったく……昔から向こう見ずな奴だとは思っていたが」

「そう言われても、な」

「やれやれ……奥さんが可哀想かわいそうだよ……怒られただろ?」

「そりゃ、まあ、こっぴどく……でも、俺自身にその時の記憶が無いんだから、いくら怒られても他人事……というより、むしろ無実の罪を着せられてるみたいな感じだったよ」

「まったく、手に負えんな」松沢は苦笑してビールをあおった。「……で、怪我はもう良いのか?」

「ああ。完治した」

「お前、フリーランスだろ? 仕事の方は大丈夫だったのか?」

「どうしても納期が間に合わないものは、断らせてもらった。何とかなりそうなものは退院後に必死で仕上げたさ。それから発注主にお詫びを言って廻った」

 そこで一口ビールを飲んで、続けた。

「……けど、もう発注してもらえない所も幾つか出てくるだろうな……理由が何であれ、迷惑をかけたのは事実だから」

「役所勤めなんかしてると、お前みたいな個人事業主をうらやましく感じる事もあるけど……何かあった時には、大変だな。フリーランスってやつも」

「俺も、もう若くないからさ……これをけにして少し仕事量を減らそうと思っているんだ……幸い、一人息子は仕上がって社会人になったし、女房にもそこそこの収入があるし、マンションのローンも払い終わってるし、貯金も幾らかはある。そろそろ楽をしても良いかな、って」

「へええ。それを聞くと、やっぱり羨ましいな。俺ん所なんか、まだまだこれからだ」

「娘さんが二人、だっけ?」

「ああ。高三と高一。来年は受験だよ」

「大変だな。そりゃ」

「生意気に、上の娘が『東京の私立に行きたい』なんて言いやがって。いくら掛かると思ってるんだ、っての」

「ご愁傷さま」

 ……それから私と松沢は、他の同級生の近況をさかなにして酒を飲んだ。

 東京で働いているやつ、田舎に帰ったやつ、名古屋、大阪、あるいは海外で生活しているやつ……

 頃合いを見計らって、いよいよに切り込んだ。

「昨日の電話でも言ったんだが……読原よみはら百合子ゆりこって、今どうしてるんだろうな」

 私の言葉に、松沢は渋い顔になって首を横に振った。

「そんな女子、俺らの学年には居なかったよ」

「いや、居たって。忘れたのか?」私は食い下がった。

「いいや、居なかった。断言できる」

 松沢は、隣の椅子に置いてあったかばんを開け、分厚い大判の本のようなものを出した。

「ほれ。これを見てみろ……どうせお前の事だ。小学校の卒業アルバムなんて、とうの昔にくしちまっていると思ってな。持ってきてやったよ」

 私は、その大判の本……卒業アルバムを受け取り、つまみや酒で汚れないように注意しながら開いた。

 入学式から始まり、文化祭、運動会、授業参観など、お決まりの行事風景が収められたページを一枚一枚めくっていく。

 懐かしい顔もあれば、もう忘れてしまって誰だか分からない顔もあった。

 しかし、いくらページをめくっても、読原百合子の写真が出てこない。

 私の胸に焦燥感のようなものが湧き上がった。

 とうとう卒業式のページまで来た。

 集合写真の小さな顔を一つ一つ確認する。老眼の始まった目がかすむ。

「一人一人を写した一覧が次のページにあるよ。それで探せば良い」

 松沢の助言に従い、さらに一枚ページをめくった。

 言うとおり、一人一人の顔写真が五十音順の一覧になっていた。

 ……そして、これも彼の言うとおり、読原百合子の顔写真は無かった。

 私は大きな溜め息をいてアルバムを閉じ、松沢に返した。

 松沢が「大丈夫か?」といてきた。

「大丈夫か? 顔が青いぞ」

「ああ……」私は額ににじんだ汗を、おしぼり代わりのウェットティッシュでいた。

 そこでハッと気づいて反論を試みる。「ひょっとしたら、卒業前に転校したのかも……それで卒業写真に写ってないのかも」

「ああ。そうかもな」松沢は、私の反論にえて反論で返す事はなかった。

 彼の顔が(この件には興味も無いし、これ以上議論する気も無い)と語っていた。

 それからまた、家族に対する愚痴やら、仕事の愚痴やら、学生時代の思い出話をつまみにして酒を重ね、九時半ごろ居酒屋を出て別れた。

 宿へ帰る道々、星空を見上げながら考えた。

 同級生に読原百合子なる人物が存在しないのならば、あの夢の中の少女は一体いったい誰なのか……と。

(俺自身が作り出した架空の人間……要するに妄想、って事なのか?)


 * * *


 その夜、民宿の布団の中で、またあの夢を見た。

 森の中の道……十メートルほどの距離を置いて見つめ合う少年(私)と少女(読原百合子)……それを斜め上から見下ろす『夢を見ている私の視点』

 少女が、また首を左右に振った。

 そして言った。

「ここに来ては、ダメ……ここから先に、行っては、ダメ……禁刃野いさはのに来ては、ダメ!」


 * * *


 ハッとして目がめた。

「そうだ……禁刃野いさはのだ……」

 旧禁刃野いさはの村。

 合併後は禁刃野いさはの地区。

 郷土史の写真からも、グーグル・マップからも消えた場所の名前だ。

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