20.

 林道を横切り、森全体を手前側と奥側の二つに分断するように、その『見えない壁』はった。

 何故なぜか分からないが……その『見えない壁』を、私は『見る』事が出来た。

 視覚で感じる、というより、五感全体で知覚できた。

 いや実際には、人間に備わる五つの感覚のどれでもない気がする。新たに私の中に覚醒めざめた感覚が、その存在を感知しているようだ。

(これが、いわゆるってやつ……なのか?)

 私は、細い雨に打たれながら、森の奥へ伸びる林道を見つめた。

 奥へ行こうとする私をさえぎる物は、何も無い。このまま何事もなく歩いて行けそうだ。

 しかし同時に、私の目の前には、無色透明な『壁』が立ちふさがっている……確かにそれも

(『壁』というより、透明な『まく』か)

 厚いガラス板のような頑丈な固形物ではなくて、簡単に破いて向こう側へ行けるような、そんな柔らかい『何か』のようにも感じた。

(……どうする?)

 夢の中の少女は、『ここから先へ行ってはダメ』と言った。

『ここから』というのは、目の前にある『壁』というか『膜』の事かも知れない。これは一種の境界線で、それを超えて森の奥へ進んでは、いけない……という意味なのかも。

 引き返すか? と自らに問うた。

 そして首を横に振る。

「ここまで来て、引き返せるものか」

 その先に何があるのかは、分からない。

 何も無いかも知れない。

 有りふれた林道が続いているだけなのかも知れない。

 それなら、それで良いと思った。全てが私の妄想だったという身もふたもないなら、かえって安心できる。

 東京に帰り、精神科病院へ行けば良いだけの話だ。

 恐る恐る、右手を前に突き出してみた。

 てっきり、ガラス板のような硬質な感触か、そうでなければ透明ビニールのような柔らかいものに触れる感覚があるのかと思った。

 実際には『何も無かった』

 私の手は、何の抵抗もなくその『見えない壁』を超えて向こう側へ突き抜けた。

 思い切って、一歩前へ踏み出した。

 無色透明な壁に鼻をぶつけて痛がる、なんて三流コメディ展開にならないよう、壁を突破するときには両手で顔を覆った。

 二歩、三歩、四歩……

 私の体は、やはり何の抵抗もなく『壁』の向こう側へ……見えない境界線の向こう側へ移動した。


 * * *


 見えない境界線を超えた瞬間、風景が変わった。

 よく晴れた青空の下、私は見晴らしの良い田園地帯の真ん中を通る舗装された農道の上に立っていた。

 農道の右側はネギ畑、左側には水田が広がっていた。

 本能的に後ろを振り返った。

 さっきまで居た林道は、前方にも後方にも無くなっていた。

 私が乗って来たダイハツ・ミライースも消えていた。

「瞬間移動?」

 昔、テレビの再放送で観ていた宇宙大作戦(スタートレック)に『物質転送装置』という小道具があったのを思い出す。

 森の中にあった『境界線』を越えた瞬間、私の体は何処どこか別の場所に強制的にテレポートさせられた……そんなハリウッド娯楽映画じみた理屈づけをしてみる。

「ありえない……ありえない、だろ」

 膝から力が抜けて、私は道の真ん中に込んでしまった。

 一瞬前まで森の中に居たのに、今は広々とした田園の中に居る。

 遥か遠く、田畑の向こうに森らしき木々が見えた……が、その森が先程ほどまで自分の居た場所という感じは全くしない。

 森の向こうに山々。どうも、故郷の山とは形が違うような気がした。


 * * *


 どこからか自動車のエンジン音が聞こえてきた。

 見回すと、遠くに白い軽トラックの姿が見えた。私が込んで尻をつけている農道を、こちらに向かって走って来る。

 ……ホッとした。

 確か、軽トラックというのは外国には存在しない日本独自の車両規格だったはずだ。とすれば、ここが何処どこであれ日本国内なのは間違いない。

 立ち上がって手を振った。とにかく人の居る所に連れて行ってもらおう。

 白い軽トラックが、私の立っている場所の二メートルほど手前で停車した。

 運転席に農夫らしき老人が座っていた。年齢としは六十代半ばといったところか。

「どうしたんだね?」老人が運転席の窓から顔を出して私にたずねる。

「あの……」何と答えようか。まさか、森の中にあった透明な壁を突き抜けたら知らない土地に瞬間移動テレポートした……などと言う訳には、いかない。

「あの……道に迷ってしまって」我ながら雑な言い訳だと思った。

 そんな雑な言い訳でも、軽トラの老人は納得したらしく「そうかい、そりゃ大変だったな。村役場までなら送ってやるよ。荷台に乗りな」と言い、「あいにく、助手席はこの通りでな」と付け加えながら隣を指さした。

 軽トラの助手席には、農作業の道具らしき物が乱雑に置かれていた。なるほど、これなら荷台に乗った方が手っ取り早い。

 私は「助かります」と答え、助手席側から軽トラの横をまわって、荷台に乗った。

 トラックの横を通るあいだ、運転席の老人は私をジッと見つめ続けた。

 その仕草しぐさに、ちょっとした違和感を覚える。

(警戒されているのかな?)とも思ったが、彼は人のさそうなニコニコ顔で私を見つめている。余所者よそものを警戒している感じでもなかった。

 あとで分かった事だが、軽トラの老人が私に対して顔の正面をずっと向け続けていたのには別の理由があった。

 そのとき彼は、

 一瞬、後方確認用の小窓から老人がニコニコ顔をのぞかせた。

 荷台に乗った私と目が合った直後、老人の顔は小窓の死角に隠れた。たぶん再発進させるために前を向いたのだろう。

 軽トラがゆっくりと動き出す。

 何とも牧歌的で、ゆったりとした速度だ。荷台の私に気を使ってくれているのかもしれない。

 緩い走行風に頬をなぶられながら、左右に広がる田畑を見回す。

 瞬間移動(?)という訳の分からない現象に見舞われた不安。

 不安と同時に湧き上がる冒険的な興奮。

 老人(日本人)と出会った安心感。

 しかし、どこか違和感のある彼の仕草。

 色々な思いと感情が次々に湧き上がり、何層にも重なっていった。

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