異世界の村【因果変質領域1】

青葉台旭

1.

 夢の中に、少女が現れるようになった。


 * * *


 三ヶ月前の夜、飲み屋街で酔っ払ったチンピラに絡まれ、こめかみを殴られ脳震盪で倒れた(と、後から聞いた)

 通行人が救急車を呼び、気づいたら病院のベッドに寝ていた。

 ベッドに仰向けになった状態で目を覚ました私を、妻と息子が心配そうに見下みおろしていた。白衣を着た医者と看護婦の顔も見えた。

 頬にガーゼと絆創膏の感触。

 頭の内側がズキズキと痛む。

 少しでも頭を動かすと首筋にも痛みが走った。

 目覚めた直後は、どうして自分がこんな所で寝ているのか分からなかった。

 飲み屋で酒を飲み始めた所で、記憶がプッツリ途絶えていた。

 チンピラと喧嘩をして殴られ気を失って、救急車で病院に運ばれたという話は、後から妻に聞いた。

 妻はその時の状況を、成り行きで救急車に同乗した親切な通行人に聞いたらしかった。

 今でも、殴られた時の事は思い出せない。

 どういう経緯いきさつで喧嘩になったのか……私を殴ったチンピラの顔も……何も思い出せない。

 だから「打ちどころによっては死んでいたかもしれないんだぞ」と、社会人になったばかりの息子に非難されても、実感がかなかった。

「俺は、本当にそんな事をしたのか」と息子にたずね返し、息子はあきれたような顔をして黙り込んでしまった。

 場合によっては死んでいた、と聞かされても、他人事みたいで恐怖心はかなかった。

 ただ、記憶を喪失したという事実は、恐ろしかった。

 誰とどんな会話をして、どんな行動をとったのか、自分自身のことを思い出せないのは不気味だと思った。

 たった一晩でも、たった五分であっても、人生に空白が出来るのは人間を酷く不安にさせる。


 * * *


 幸い、後遺症が残るような事もなく、しばらくの入院生活ののち、無事に退院できた。

 退院後、初めて自宅のベッドで寝た夜、少女の夢を観た。

 少女の名は、百合子ゆりこ

 読原よみはら百合子ゆりこ。年齢は十二歳。小学六年生。

 スラリと手足の長い、胸の辺りまで真っすぐに黒髪を伸ばした少女。

 有りがちな事だが、夢の中には『夢を見ている私の視点』の他に、『登場人物としての私』が居た。

 夢の中に出てきた私は、読原百合子と同じ小学六年生だった。

 周囲は深い落葉樹の森で、小学生の私の背丈ほどもある下草が密生していた。

 森の中には、舗装もされずデコボコした土がき出しになった、自動車が一台やっと通れる程度の細い林道が通っていて、その道の真ん中に小学生の私と読原百合子は、十メートルほどの距離をおいて向かい合って立っていた。

 私たちは、一言も話さず、ただ黙って互いの目を見つめていた。

 やがて、少女は目を伏せ、クルリと後ろを向き、細い林道をトボトボと森の奥の方へ歩いて行った。

 追いかけなければ……

 追いかけろ! と、俯瞰で夢を観ている私は、道の上に立っている小学生の私自身に叫んだ。

 しかし、道の上の私は一歩も動こうとしなかった。

 林道を歩いて森の奥へ消えようとしている少女の背中を、ただ見つめるばかりだった。


 * * *


 ……夢からめた。

 隣で寝る妻のスースーという寝息が聞こえた。

 サイドテーブルの携帯電話を見ると、深夜二時だった。

 まるで寝た気がしなかった。


 * * *


 それから毎晩、読原百合子の夢を見るようになった。

 内容は、いつも一緒だった。

 深い森の道で、十メートル程の距離をおいて向かい合って立つ小学生の私と少女。

 やがて彼女は私に背中を向けて、森の中の道を奥へ歩いて消えてしまう……

 繰り返し、繰り返し、同じ夢を観た。

 怪我が癒え、鞭打むちうち症の痛みが収まっていくのと反比例するように、徐々に精神的な疲労が溜まっていった。

 夢の中で怖い思いをするわけでも、不愉快な経験をするわけでもないのに、真夜中にハッと目醒めざめてしまい、しばらく寝付けない。

 在宅デスクワークが主体のフリーランスだったから、多少、時間を融通できた。

 昼食後に仮眠を取って、夜の寝不足を補った。

 それでも仕事の能率は徐々に落ちていった。

 このまま行けば、いずれは依頼主クライアントが要求する最低限の品質を維持できなくなる……あるいは、納期を守れなくなる……そう思った。

 入院で遅れてしまった作業を必死でこなし、どうにか一区切りがついた段階で妻と相談し、しばらくは次の仕事を受けずに、心身の回復に専念しようと決めた。

 多少の貯金たくわえは有る。

 妻は会社員で、年齢相応の職位についている。給料も、まあまあだ。

 一人息子は去年大学を卒業して、こちらも会社勤めを始めている。

 社会人になっても家を出ようとせず自宅から会社に通う息子に対し、内心では『早く独立しろ』と思っていたが……今は、むしろ心強い。

 私が何日か家に居なくても、息子が居れば妻一人よりも安心できる。

 複数の依頼主を訪ねてまわり、しばらく休養をとる旨意むねを告げた。

 皆、私が大怪我を負った事は知っていたから、少なくとも表面上は理解を示してくれた。

 ……休養から戻った後、再び仕事を貰えるかどうかは、また別の話だろうが……

 全ての依頼主への挨拶回りが終わった日の夜、妻と息子に告げた。

「一人で故郷いなかに帰って、何日か滞在して来ようと思う」

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