8.

 翌日は、午前七時半ごろに目覚めた。

 洗面所へ行って歯を磨き顔を洗うと、もうする事がない。

 朝飯を食べたいと思ったが、宿は素泊まりだったし、外で食べようにもこの山奥の小さな町には、二十四時間営業の牛丼チェーンもコンビニエンス・ストアも無い。

 農協に行けば、小さな食料品店が有るには有るが、九時にならないとひらかない。

 確か、民宿を出て通りを百メートルくらい歩いた所に自動販売機があったな、と思い出した。

 オレンジ・ジュースでも買って糖分補給をしようと思い、部屋着代わりのジャージ・ウェアから外出着のジャケットとスラックスに着替えて玄関へ行くと、前の夜に風呂場の出口でれ違った髪の青い少女が居た。

 玄関の脇にちょっとした空間スペースがあって、そこにガラス天板のテーブルと、安っぽいビニール革が張られた二人がけのソファが二つ置いてあった。

 少女はソファに腰掛けて膝の上にノートパソコンを置き、もの凄い勢いで何やらタイプしていた。

 私も、在宅で仕事を請け負うフリーランスの端くれとして、パソコンのタイピングにはそこそこ自信を持っていた。

 その私が舌を巻くほどに、彼女のタイピングは高速だった。

 いや、舌を巻くなんて生やさしいものじゃない。私など到底足元にも及ばない……比べるのさえ烏滸おこがましいと言わざるを得ないほどの、異次元の高速入力だ。

 角度の関係でノートパソコンの画面は見えなかったし、そもそも他人の画面をのぞき見るような悪趣味もなかったから、彼女が何をタイプしているのか、日本語の文章なのか、ソフトウェア開発言語によるプログラミングなのかは分からなかったが、いずれにしろ、キーボードを叩く指に全く淀みのない事に驚かされた。

 要するにタイピングとは、思考を外部に吐き出す行為だ。

 だから、パソコンに入力している内容が何であれ、必然的に「思考……打鍵タイピング、思考……打鍵タイピング、思考……打鍵タイピング……」という流れになる。

 どんな人間でも、どれだけタイピングが速くても、思考している間は必ず指が止まるはずだ。

 しかし、少女の指はわずかの間も停止することなく、正確に十六分音符を刻むドラムのように、延々と打鍵音を響かせていた。

(すごいものだな……天才少女プログラマーか……あるいは天才少女小説家……なのかな?)

 玄関の三和土たたきで靴を履きながらチラリと少女を見た。

 あらためて見ても、なかなかに端正な顔立ちの美少女だった。

 これで黒髪だったら、古風な日本美人と言っても通用する。

(あんな珍妙な色に染めなければ良いものを……)

 そんな事を思いながら、民宿を出た。

 民宿前の通りを歩いて百メートル先の自販機の所まで行き、色とりどりのダミー・ペットボトルが並ぶショーケースを眺める。

 ……さて、どれにしようか……

(朝食代わりだ。寝起きの脳味噌に糖分をやりたい……なるべく甘いやつにしたいが……しかし、朝から炭酸入りというのも腹に響きそうだ)

 結局、スポーツ・ドリンクの増量タイプ六百MLのボタンを押した。

(やれやれ……こんな事なら、昨日のうちに駅の売店でカロリーメイトでも買っておくべきだったな)

 そんな事を思いながら、自販機の取り出し口の蓋を開けてペットボトルを取り出した瞬間、いきなり真後ろから少女の声が聞こえた。

「こんな事なら、昨日のうちに駅の売店でカロリーメイトでも買っとくんだったなぁ」

 ギョッとして、後ろを向いた。

 例の、髪の青い少女が立ってた。

 ……いや、青じゃない……

 服装も、さっき玄関で見たのと違っていた。

 デニムジャケットにデニムパンツ、緑色スニーカー。

「あら、驚かせちゃった? ごめんなさい」と言いながら、悪怯わるびれる風もなく、かえってニッコリと微笑む。美少女が笑って見せればオジサンは何でも許すと言わんばかりの、わざとらしい微笑みだった。

 私は(もう五十を二つも過ぎた妻子持ちだというのに)その少女の作ったような笑みにドギマギさせられながら、「あ、いや、別に……」と言って自販機の横に退しりぞいた。

 自販機横に置いてあるゴミ箱の前に立ち、少女の様子を盗み見ながら、ペットボトルの蓋を開け中身を飲む。

 スポーツ・ドリンク特有の甘じょっぱい味のする冷たい液体が、喉と胃袋に染み込んでいく。

 自分の体が、思っていた以上に水分を求めていたと気づいた。

 緑色の髪の少女も私と同じスポーツ・ドリンクを買い、その場では飲まず手に持って宿の方へ帰って行った。

 ドリンクを飲みながら、その後ろ姿を見送る。

 さっき宿の玄関で会ったときは確かに少女の髪は青色だった。

(それが今は緑色……そんなに簡単に染め変えられるものなのか?)

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