30.

〈夜叉護財団〉チームは、森と農地の境界から十メートルほど森の方へ入った場所にカローラ・ツーリングをめて、その車内で夜明け前まで待つことにしたようだ。

 当然、自動的に、私もそれに付き合わされる事になる。

 一瞬、こんな逃げ場のない細い森の道で見つかったら一体いったいどうするつもりなのか? という思いが頭をよぎった。

 そして、村人たちの会話を思い出した。

 昨日の昼間に聞いた会話の内容から、どうやら彼らにとって〈森人〉は恐怖の対象らしい。

 だとすれば〈森人〉の活動時間である日没から夜明けまでは、森の中へ足を踏み入れないだろうと推測できる。

 この森に居る限り、少なくとも夜明けまでは村人に見つからずに済む。

 一方の〈森人〉も、〈夜叉護財団〉チームが私を救うために連中をなぎ倒して以降、襲ってくる気配は無かった。

(案外、この森は安全……なのか?)

 ヘッドライトが消え、計器類の明かりも消された車内は、静か過ぎて落ち着かないほどだった。

 前席に座る二人の男からは、全く気配が感じられなかった。

 眠っているのか?

 しかし普通の人間なら、眠っていても多少の気配があるはずだ……例えば寝息とか、シートの上で体勢を変えるときの衣ずれの音とか。

 やはり、彼らは特殊な能力を持つ、特殊な人間なのだろうか?

 私は、隣に座る少女を見た。

 背もたれに体を預け、目を閉じていた。ピクリとも動かない。まるで死んでいるようだ。

 外から入ってくる月明かりに照らされ浮かび上がる彼女のシルエットは、端正で美しかった。

 彼女のまぶたがスッと開き、瞳が動いて私を見た。

「体力を温存した方が良いよ」少女がいった。「たとえ眠れなくても、静かに目を閉じて、何も考えないようにするだけでも脳が休まるよ」

「と、言われてもな」私は反抗した。「なかなか、そう上手くは出来ん」

 まるで、母親に寝かし付けられ駄々だだをこねる幼児みたいだ……と思った。

(やれやれ……どっちが年上で、どっちが年下か分かりゃしないな。親子ほども年齢としが離れているってのに)

 そんな事を考えていると、少女……土駒つちこま明夜あきよが私にたずねてきた。「じゃあ、この時間を利用してくけど、頭に怪我を負って以降、女の子の夢を見るって言ってたよね?」ささやくような声だった。「……ええと、名前は……」

読原よみはら百合子ゆりこだ」私も声を低くして、答えた。

「その、読原よみはら百合子ゆりこさんに会うために、わざわざ故郷に帰って、森の中に入ったの?」

 土駒つちこま明夜あきよに言われて、私は答えに詰まった。

 確かに、そもそもの発端は、頭を打ってから毎晩見るようになったあの夢だ。

 私は夢に悩まされ、現実の、つまり現在の読原よみはら百合子ゆりこに会おうと考え、故郷ふるさとに帰って来た。

 現実の彼女に会えば、もう夢を見なくなるだろうと期待した。状況が進展する事を願った。

 別に、科学的な根拠とか理屈があった訳じゃない。

 ただ何となくそう思った、それだけだ。

 では、レンタカーを運転してに分け入ったのは、何故なぜだ? 森の中に入れば読原よみはら百合子ゆりこに会えるとでも思ったのか?

 どうして自分が、そんな飛躍した考えに取り憑かれたのか……私自身、今となっては、もう思い出せなかった。

「夢は……脳が作り出したまぼろしよ」土駒つちこま明夜あきよが言った。

「夢は幻、って、そりゃ当然だろう……それくらいは分かっている」私は口ごたえするように言った。

 まったく……これじゃ、母親にたしなめられて反抗的な態度をとる子供ガキそのものじゃないか……と思った。

 いよいよ、大人と子供が逆転したような気持ちになる。

「じゃあ何故なぜ、脳は私たちに幻を見せるのか?」と土駒つちこま明夜あきよ。「夢っていうのは、ね……なのよ」

「警告? だって?」私は鸚鵡おうむ返しに言った。

「そう。私たちの脳は、夢を使って、私たち自身に何らかのメッセージを送るの……けれど、悲しいことに、私たちは往々にしてそのメッセージを読み間違える……時には、真逆の行動を取ってしまう」

「どういう事だ? 良く分からん。もっと詳しく説明してくれ」

「酒場で殴られ脳に打撃を受けて、偶然にも、おじさんの中に眠っていた『能力』が目覚め、記憶も取り戻した……ここまでは良い?」

「全ての人間から抹消されたはずの記憶……歴史が改変される前の記憶、ってやつか? それを俺の脳は思い出した、と」

「そう……で、ここからが大事なんだけど……おじさんの脳は、取り戻した記憶を元に、夢の中で少女の姿を再構成した……何故なぜだと思う? 何でそんな事を?」

「分からないな……何が言いたいんだ?」

「毎晩、毎晩……夢の中の少女は『この森に来るな』って言ってたんでしょう? 『ここから先に行っては駄目』って言ってたんでしょう? ……それこそが、自分自身の脳から発せられた『警告』なのよ。特殊な能力ちからに目覚めた脳は、その森が危険な場所だと察知していた。その林道の先に危険な〈異界神〉の巣があると知っていた。だから、夢を使って警告した。それなのに……」

「俺は、自分自身の脳みそが発する警告を無視して……どころか、ある意味その夢に『魅せられて』わざわざ危険な場所に足を踏み入れた、ってのか?」

「繰り返して言うけれど……人は、自分自身の脳が発した夢のメッセージを読み間違える……しばしば真逆の行動を取ってしまう……欲望にこだわってしまうから」

「つまり、俺が読原よみはら百合子ゆりこに会いたいという欲望を持ってしまったがゆえに、その欲望にこだわったが故に、自分の脳が発する警告を正しく読み取れなかった、って言いたい訳か?」

「ごめんなさい……でも、その通り」

 確かに、そうかも知れない、と思った。

 いつの間にか、読原よみはら百合子ゆりこに会うこと自体が目的になっていた。

 土駒つちこま明夜あきよの言葉を借りれば……それが『欲望』と化していた。

 今となっては、認めざるを得ない。私は夢の中の読原よみはら百合子ゆりこに、何らかの『欲望』を感じていた。

 私は『毒を食らわば皿まで』とばかりに、隣に座る〈財団〉の少女に重ねていてみた。

「夢の中に出てくる読原が、俺の脳によって作り出された言わば『バーチャルな偽物にせもの』である事は、分かった……その通りだと思う……じゃあくが、? 住んでいた村ごと〈異界神〉の巣の中に取り込まれたんだろう? ということは、の世界の何処どこかに本物の読原が居るって事じゃないのか?」

 私の言葉を聞き、土駒つちこま明夜あきよは、暗闇の中で寂しそうに目を伏せた。

「やっぱり、その読原よみはら百合子ゆりこさんにこだわっているんだね……今でも……」そしてめ息を吐く。「まあ、しょうがないか……質問に答えるとすれば『彼女は、に居るかもしれないし、居ないかもしれない』って事になるかな……って、これじゃ答えになってないよね。でも、そうとしか言いようがない」

 暗闇の中で、彼女が再び私を見る。

「私たちの世界が変容したのと同様に、空間が切り取られた瞬間、巣の中に取り込まれた人々にも別の歴史、別の記憶、別の人格、別の役割が与えられたはず……あるいは存在そのものが抹消された可能性もある……だから、読原よみはら百合子ゆりこなる人物がこちら側の世界に存在してるって保証は無いし、仮に生きていたとしても、記憶から何から全くの別人になっている可能性が高いよ」

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