14.

 いざ林道に入ってみると、心配したよりは走りにくくなかった。

 車一台分の道幅しかないとは言っても、おそらく白ナンバーの普通車を想定して造られた林道なのだろう。車幅の狭い軽自動車のミライースなら、両側にかなりの余裕を持って通ることができた。

 所どころコブのように道幅が広がっていた。一本道で二台の車が対面したとき安全にれ違うために造られたものだと思った。

 どちらかの車がその車幅の広がった部分に待避して、向こうから来る車をやり過ごすのだろう。

 ゆっくりと車を進めた。

 山道というのは右に左に曲がりくねっているものだ。

 この林道も直線が全く無いと言ってよかった。

 左右には密に生えた広葉樹と下草。見通しが悪い事この上ない。

 徐行よりは少しマシという程度の速さで林道を奥へ奥へと進んだ。

 人里からどんどん離れていく。

 運転席の窓を開けてみた。

 時々吹くゆるい風が木々を揺らし、ザザッという葉擦れの音が右から左へと、あるいは左から右へと流れていく。

 まるで世界に自分一人だけみたいだな、と、低速で走るミライースのハンドルを操作しながら思った。

 半世紀以上生きて、今まで自分が『自然派』の人間だと思った事は一度もない。

 自然豊かなN県の山奥に生まれながら、野山を駆けたいと思った事なんて一度もない。

 小さい頃からテレビっ子で、日本にテレビゲーム・ブームが到来して以降は、ゲームばかりやっていた。

 思春期に入った頃から、早くこんな田舎を出て都会へ行きたいと思っていた。

 今、こうして一人で木々に囲まれていると、なるほど孤独を求めて山に行く登山家の気持ちも分かる気がする……などと思う。

 大自然の中の孤独には、人間社会で暮らすうちに溜まっていったおりを洗い清める能力があるように感じた。

 年齢としを取って、何年かりに故郷に帰って初めて、子供の頃には何の価値も感じなかった自然の有りがたさに気づくとは皮肉なものだと思い、人間なんてそんなものだとも思った。

 大自然の中で都会に憧れ、都会の中で大自然に憧れ、孤独な時に人を求め、人に疲れて孤独を求める。

「まあ、たまに来るから、良いんだろうな……」

 ミライースをゆっくり転がしながら、奥へ奥へと進む。

 突然、死角ブラインドになったカーブの向こうから対向車が現れた。

 慌ててブレーキを踏む。

 一瞬ヒヤリとしたが、こちらも対向車むこうも大した速度ではなかったから、お互い充分に安全な距離を置いて停車できた。

 青味がかったメタリック・グレーのカローラ・ツーリングだ。民宿に停まっていたやつだろうか? グレーのカローラなんぞ日本中に何万台も走っているだろうが……

 フロントガラス越しに、運転手と目が合った。

 運転しているのは中年の男だ。丸刈りの丸い顔に団子っ鼻。こんな山奥に来るのに、なぜかダークスーツにネクタイ。目つきが鋭い。

 助手席にも男が座っていた。こちらは、いかにもチャラチャラした感じでニヤニヤ笑いを口元に浮かべたロン毛の若い男だ。

 ほんの数秒間、私と対向車を運転する丸刈り男は、探るように互いの目を見つめた。

 どちらがか……

「こっちは、泣く子も黙るペーパードライバーだぞ……よわい五十二にして若葉マークが欲しいくらいだ……そっちが下がってくれよ」

 まさか私のつぶやきが聞こえたわけでもないだろうが、丸刈り頭がカローラをゆっくりと後退させた。

 二十メートルほど向こうに、道幅の広がった場所があった。

 カローラは、そこまで後退すると、縦列駐車の要領で林道の端に車を寄せて、私のミライースが通るだけの道を開けてくれた。

「上手いもんだな」運転手の正確なハンドルさばきに感心しながら、私は自分の自動車を前へ進めた。

 突然、カローラの後部座席のドアが開いて、少女が出てきた。

「あいつ……」

 例の緑色の髪の少女だ。こちらへ歩いて来る。

 私は再度ブレーキを踏みミライースを停車させて、ギア・セレクターをパーキングに入れて待った。

 彼女は、私の車の所まで来ると、開いていた運転席の窓ごしに「今朝は、どうも……また会ったね」と言った。

(いきなりタメ口かよ……俺は、お前の親父より年上だぞ……たぶん)と、内心ムッとしたが、顔には出さず「どうしたの?」と緑色の髪を見上げて言った。

小父おじさん、東京の人?」

「ああ。そうだけど……いや、生まれはだ。地元出身」

「やっぱりなぁ。……長いこと帰省してないでしょ?」

「まあ、そうだが。それが何か?」(なんで、小娘にそんなこと言われなきゃいけないんだ)

「だと思ったんだ。あんまり、この辺りの森をうろうろしない方が良いよ」

「何で?」

 私がくと、少女は一瞬考えるような顔をした。

「えーと……最近、熊が出るらしいよ。この森」

 熊? だって? そんな話、聞いた事も無いぞ?

「この道は、私たちが奥の方まで行って見てって確認して来たところだから大丈夫だと思うけど……他の林道は、どうかな……」

「へええ。そうなんだ」

「まあ、とにかく……用事が無いなら林道に入るなんてした方が良いと思う……少し先にちょっとしたスペースがあるからそこでUターンすると良いよ」

「そうか……わざわざそれを言うために車を降りて来たのか? すまんな」

「どういたしまして。今朝、自販機の前で出会った時から思ってたんだけど、小父おじさんって、なんか放って置けないタイプなんだよね……母性本能をくすぐられる、っていうか」

「はあ?」

「じゃあね」

 少女は軽く手を振って、カローラの方へ戻って行った。

「まったく、近ごろのガキは……大人を揶揄からかうのも良い加減にしろよ」

 そうつぶやきながらセレクターをドライブに戻し、またソロリソロリと自動車を前へ進めた。

 ふざけたガキだ、と思いながらも『熊が出る』という彼女の言葉が気になった。

 念のため、運転席の窓を閉めドアロックを掛けておく。

 停車しているカローラとれ違うとき、もう一度、車内をチラ見した。

 向こうの運転席に座るイガグリ頭と助手席のロン毛チャラ男も、窓ガラス越しにこちらを見ていた。

 後部座席の窓はスモーク・ガラス仕様だったから、そこに乗っている少女の様子はよく分からなかった。

 軽く手を振って感謝の意を表すと、イガグリとチャラ男も手を振って挨拶を返してきた。

 無事、カローラの横を通り過ぎ、そのままゆっくり奥へ進む。

 バックミラーをのぞくと、カローラも再び発進して町の方へ去って行くのが見えた。

「目つきの悪い丸刈り中年男に、ロン毛のチャラ男、そして髪を緑色に染めた少女、か」

 奇妙な取り合わせだ。

(どこか、都会の匂いがする連中だが……あいつら、誰も通らないような山奥の林道に、何の要だ?)

 自分の事は棚に上げて、そんな事を思った。

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