最終章:恋愛に時間なんて関係ない。

第1話:七葉は〇〇したい。

「柊なんて大っ嫌い! ばかっ! もう知らない!」


 リビングに響き渡った、罵詈雑言。

 とある日の夕暮れ時、それは起こった。


 その言葉は、俺の心に深く突き刺さった。

 呆然と、去って行く彼女のうしろ姿を見ている事しか出来なくて、追いかけることはしなかった。


 いつかこうなる時が来ることは分かっていたのに。

 どたどたと足音を鳴らし、物に当たるように彼女は扉を閉めて出てってしまう。同時に一つの発見をする。彼女は怒ると怒りを体現するタイプなんだと。


 ここまで怒るとは、予想外だった。

 普段から好き好きと、歯止めの効かなくなった七葉だったのに。


 初めてだった。

 彼女に好きの逆の言葉を言われたのは。

 あんなにも好きと言葉にして表わしてくれていたのに、その言葉をかき消すように、全てなかった様に、たったその一言で全ての意をなくしていく気がした。


 今の今まで、甘やかしてはいけないと、度が過ぎればそれは、自己保身で。

 嫌われたくなくて、何でもかんでも『いいよ』と言って。


 再三に渡って、自分自身に言い聞かせてきたのにも関わらず、それでも尚、俺はしてしまう。


 あまりのショックで、その場から動き出せず、視線も戻って来ないかと、扉を見つめるだけ。状況とは相反して、テレビから流れる音は笑い声。まるで、今の俺達を見てあざ笑っているかのように、リビングは笑い声に包まれていた。


 全く持って笑えない。


 俺はテレビを消し、無音の静寂の中、ベランダに出て煙に巻かれる。

 空は黒とは言い難い、深い青に染められつつあり、だが未だに西の空は茜色で、日が長くなったと実感させられる。

 ベランダからは虫の鳴き声が聞こえるし、蚊もここぞとばかりに体に針を刺しに来ていた。


「まさかここまでとは……」


 誰に話しかけるわけでもないのに、ぽつりと言葉が出た。

 喧嘩なんてしたくてするものじゃないし、しないに越したことはない。

 お互いに良い気持にはなれないと理解しているのに、感情のコントロールは上手くいかない。


 認識の違いや、価値観の違いを知るために喧嘩は時には必要かもしれない。でもそれはある意味しなくても、知れるものだと思っている。だから無理してする必要なんてどこにも存在しない。喧嘩をしないカップルが別れやすいとか、ある程度喧嘩した方が長続きするとか、そんなの人それぞれで。


 気持ちの共有は大事だし、いずれ爆発してしまうのならば、ちょくちょく喧嘩した方がいいのかもしれない。

 けど、その積み重ねが結局別れへと繋がってしまう事もあったりと、どちらにせよこの問題は、ああ言ったらこう言う、水掛け論でしかないのだ。


 そりゃあ俺だって人間だもの、譲れないものはあるし、怒りだってする。

 七葉だってそう、怒る時はさっきみたいに怒るし、物にだって当たる。

 ただ……ただ七葉とは特に喧嘩なんてしたくなかった。

 いつだって俺は七葉の笑顔が見ていたいし、仲良しでいたい。彼女が嫌なことは基本的にしないようにしているし、やってみたいと言った事は尊重する。


 甘やかしに聞こえるかもしれないけど、自分がやりたいことを我慢しているわけではなく、嫌だったら言うようにしてる。

 まだそういう風に思った事がないだけで、そしてそれがたまたま今日だっただけで。


 ——なぜ、俺は彼女を追いかけないのだろうか。






*****






 私はやってしまった。

 心にない事まで口走り、彼を傷つけてしまった。

 怒りに任せ、どすどすと足音を鳴らせて、扉も思いっきり開けて、今まで彼に見せた事のない感情を曝け出してしまった。


 行動があまりにも子供だった。小学生が親に怒られて、物に当たるみたいな子供じみた行動でしかなった。


 リビングを出て、外へと飛び出した。

 嫌われたかもしれない、言い過ぎたかもしれない。唐突に怒りすぎたかもしれない。彼は呆然と立ち尽くし、まるでセミの抜け殻のような顔をしていた。


 嫌いなわけじゃない。もちろん大好きで……。


 好きなのに、喧嘩して感情を吐き出して、私は何をやってるんだろう。こんな気持ちになるくらいだったら最初からやらなければ良かった。


 喧嘩なんてしたっていい事ないじゃん。

 感情は暗くなっていくばかり。同じように空も色模様を変え始め、夕空も暗紫色になってきていた。


 どうして人は喧嘩をするのだろう。


 価値観の違いなんて他人だから仕方がないし、育った環境が違うのだから当たり前だと私は思う。時にそれに苛立つこともあるかもしれないけど、わざわざ喧嘩する程ではない。


 自分の思う通りにならないから、思い通りにしたいだけじゃないのかと自分の行動を省みて、思った。


「なんでこんなことに……」

 

 自分のせいなのに、人のせいにしてる。

 柊は何も悪くないのに。

 悪いのは私なのに。


 瞳に水が溜まり、再び空に顔を上げる。

 ……いつものように仲良くしたい。


 一緒にテレビをみて、コーヒーを飲んで、手を繋いで。

 たったこの一回で全てが台無しになる気がした。もう二度と仲良くは出来ないと思ってしまう。それは酷く残酷なもので、私にとって全てである柊に嫌われたらと考えると、涙がぽろぽろと零れた。


 つい先日、挨拶をしたばかりで認めてもらったばかりなのに、こんな事するんじゃなかった。こんなにも辛いなら、二度としたくない。


 私は柊が大好きだ。


 もうこれきりでいい、


「ごめんなさいしよう……」


 手で止まらない涙を拭い、玄関の扉を開けて家に入った。


 ——柊は、今何を考えているのだろう。





*****






 かちゃり。

 リビングの扉が開いた。

 俺は何も映っていない、真っ黒な画面越しに七葉が戻ってきたのを確認した。


「じゅうぅ~……ごべんあばさぁい……」


 戻ってくるや否や、彼女はわんわんと泣き始めて、もう言葉が言葉じゃなかった。

 へにゃりと座り込んだ七葉に駆け寄り、背中をさすってあげる。


「どうしたどうした……」

「本当は大好きなのぉ~、大っ嫌いって言ってごめんばさいぃ~」

「いや、何。ほんとどうしたの? さっきまであんなに元気だったのに」

「もう喧嘩は嫌ぁぁ」


 確かに喧嘩は嫌だな。

 嫌いと言われて、嬉しいとは微塵も思わない。

 傷つくものだ。



 ——それがと分かっていても。





****





 ことの発端は、いや、この紛い物の喧嘩を提案してきたのは、七葉自身だった。

 

 数十分前になる。


「柊、私喧嘩がしたいです」

「は?」


 突然、何の脈絡もなく彼女は、俺に言ってきた。

 その顔は早くしたくて、堪らない! と言わんばかりの顔で、急にどうしてそんな事を? と返すと、顔の前に携帯を出して見せてきた。

 そこに映るは、グーグル先生ならぬ、知恵袋先生だった。


『喧嘩しないカップルは別れる』


 と、書かれていた。


「で、喧嘩がしたいと?」

「はい」

「じゃあやってみる?」


 何でもかんでも付き合ってあげる俺もどうかしている。


「じゃあ、いきますよ?」

「……はい」


 喧嘩に予告とかないから……。


「柊のあんぽんたん!」

「あ、あんぽんたん?」

「はい! あんぽんたんです!」

「はあ……」

「さあ、なにか言い返さないと! 張り合いがありませんよ!」


 ウェルカムしてんじゃないよ。ノリノリ過ぎるだろ。来いよ、来いよ! って屈みながら、両手で招いてくる。


 こんな喧嘩は嫌だ。みたいなコントみたくなってるから。笑いを堪えながらも、必死で七葉の悪口を考え、出てきた言葉がこれだった。


「言ってくれるじゃないか。この天然さん!」

「私は天然ではありません!」

「どう考えても天然でしょ……」


 この状況がそうでしょ。


「じゃあ次は私のターンです」


 どこのカードゲームアニメだ。もう一人の私でも出てきて、口調でも変わるんですか?


「柊の……むっつりすけべさん!」


 敬称付けてくれるのね、優しいね。


「ねえ、これは喧嘩とは、言えないよ?」

「そうですね。……じゃあ録画しておいた番組見ます」



 意外とすんなり。彼女は食い下がって、リモコンを手に取った。

 画面には二人の男がマイクを間に挟んで、コントをしている最中だ。



「今は俺がお笑い番組見てるからさ、これ終わってからにしてくれる?」

「それです!」


 何が。そんなに目を輝かせてどうした。


「私だって嫌です! 録画番組見たいですもん!」


 再び、喧嘩みたいな喧嘩ごっこが始まり、仕方なく付き合ってあげる。


「録画ならいつでも見れるじゃん」

「これだって録画すればいいだけの話ですよ」

「録画する程でもないじゃん。今見てたんだし」


「柊なんて大っ嫌い! ばかっ! もう知らない!」


 文脈もなんてありゃしない。

 それでも俺は、突然の罵倒に傷ついたのだ。





 まあこんな感じで、演技の喧嘩をし、出て行った七葉が泣きながら戻ってきたと言う訳である。

 正直、泣いてる理由がよく分からなくて、絶賛困惑中。

 これも演技の内とかだったら、主演女優賞くらい上げてもいいと思う。

 

 俺が追いかけなかったわけも、これで説明がつくだろう。

 

「私、柊の事が大好きなんです。だから嫌いにならないでください。……ぐすっ」


 鼻をすすりながら、懇願に近い形で腕を掴まれた。


「嫌いになるわけないじゃん。この数分間で何があったの……」

「こんな事して、嫌われたら、別れでも切り出されたらどうしようって。考えたら嫌で涙が出てきちゃって」


 なんだそれ可愛いな!


「ぷっ……くくっ……」


 もう堪えきれない、笑いが声に出てしまう。


「何で笑うんですか……? 私、おかしなこと言いました?」

「いやっ、もう可愛くて……、大丈夫だよ。こんな事で嫌いにはならないよ? 演技って分かってるんだから。……でも、『大っ嫌い』って言われるのはもうごめんかな? 嘘と分かってても流石に傷ついたなぁ」


 嘘ではないが、軽口程度に言った。あんまり考えすぎないように、冗談として捉えてもらうために。


「ごめんなさい……喧嘩ってこうかなって思って……」


 俯きながら、ぽしょりと言葉を出す。


「私も言って後悔しました……。本当は大好きなのに……これでもし、言葉を額面通りに捉えてしまったらって……私は柊が大好きですよ?」


「知ってるよ。俺も大好きだからね?」


 そう言って、七葉の腰に手を回し引き寄せた。


「無理して喧嘩しなくたっていい。俺と七葉は、言いたいこと、考えてる事をちゃんと言葉に出して話せると思うんだ。喧嘩しないとどちらかが我慢して、相手に興味がないみたいなそんな考えはいらないよ」

「うん」

「だから、今の俺達がすることじゃないよ。ただ、心配になっただけなのも分かってる。心配なんてしなくていいよ。興味がないわけないじゃん。好きなんだもん」

「私も好きです。大好きです」



 そのまま七葉は俺にしがみついて、押し倒される。

 仰向けになった状態で七葉が上に覆いかぶさった。

 そして全体重を俺の身体に預けてくる。


「ちょっと……重い……」

「なっ———」



 この一言が原因で喧嘩に発展し、次の日の夜まで口を聞いてもらえなくなった。

 

 うん、これが喧嘩ってもんですね。


 ただただ、平謝りを繰り返し、何とか寝る前には許してもらう事が出来た。


 だからこそ、改めて思う。



 ——やっぱり喧嘩はしたくないものだ。



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