第12話:揺れる水面に落ちた涙。

「よっ! 蓮水!」


 肩を叩かれ、後ろから掛けられた声は、先輩ではなかった。


「何で山田がいるのよ」

「めっちゃ嫌そうな顔止めてくれる? 意外とこんな俺でも傷つくんだよね。むしろズタボロに心は刻まれてるから、少しは遠慮してね?」

「は? で、何?」


 山田が言っている事は意味不明でしかなかった。


「何って、特に用はないんだけど、見かけたから声を掛けただけなんだけど」

「私は先輩を待ってるの。山田じゃなくて、見て分からない?」

「残念ながら、その先輩はトイレでお取込み中だ。まだかかるぞ」

「そうですか」

「そうです。だから少しだけいいか?」


 返事も聞かず、私の手を取ってどこかに連れていかれる。

 なんか山田の様子はおかしい気がした。

 大きな水槽の目の前まで来て、ようやく立ち止まる。


 何を思って、ここに連れて来られたか分からない。山田は泳ぐ魚達を眺めているように見えるが、そうでもなさそうにも見える。遠く、を見ているのではなくて、虚空を眺めている感じだった。


「どうだ? 上手くいってるか?」


 興味すらなさそうに、こっちに顔を向けることもなく、そのまま私に問いかけてくる。


「……わかんない」


 あの時先輩は私を拒否しなかった。受け入れたんだ。……でもどこか寂しそうで、揺らいだ感情の狭間で、悩んでいた気がする。


「そうか」

「聞いといて何よ、その反応は」

「いや、別に」


 いつも山田は掴めない。私の言う事は嫌だと言いながらも聞き入れてくれるし、わがままにも付き合ってくれる。全く何を考えているのやら。


「蓮水はこの魚達を見て、何を思う?」

「気持ちよさそう……かな」

「俺はこう思う————可哀想だって」

「何で?」


 こんなにもゆったりと自由に泳いでいるのに、どこが可哀想なのだろうか。


「こいつらは本当にここに来たくて、ここで泳いでいると思うか?」

「思わないけど、幸せならいいと私は思う」


 私は山田の趣意が読めなかった。


「それもそうだな。一つの考えだ。実に蓮水らしいっちゃらしい」

「何それ意味わかんない」

「意味わかんなくていいよ。じゃあそろそろ行くわ。——もし、何かあったらいつでも連絡してくれ。何があってもすぐ行くから」


「何で私があんたに連絡しないといけないのよ」

「まあ必要ないならないで、それでいい。じゃあデート楽しんで」


 私の横を通り過ぎ、こちらに振り向きもせず、手だけで「じゃーな」と言って戻って行った。


「全然意味わかんない」


 私が山田を頼る事なんて何もないのに。なんでいつもあいつはあんなに優しいの。





*****




 花宮さんと別れて、蓮水のいる場所へと戻る途中に祐介とすれ違った。


「終わりましたか?」

「ああ、何とかな」

「蓮水はあっちに居ますから、早く行ってあげてください。——俺は愛しの花宮先輩が待ってるんで、これで」


「皮肉か?」

「さあね」


 それだけ言って、去って行く。

 やはり祐介は掴めない。


「お待たせ」

「いえ、そんなに待ってませんよ」

「山田と話していたみたいだけど?」

「はい。なんかよく分からなかったですけどね」 


 いつも彼は、間接的な表現でものを言う。だから、本意がどこにあるのかがわかりづらい。何を考えて、どうしてほしいのか。それが伝わらない。わざとそうするように、爾今じこん、そうさせるように。

 本音と建前と言えば分かりやすいだろうか。


 どっちも本音に聞こえてしまうのだ。


「聞いてもいいか? なにを言われたか」

「この泳いでる魚を見て何を思う? って」

「気持ちよさそうに泳いでるってところか?」

「そう思うのが普通ですよね。でも山田は『可哀想』って言ったんですよ」


 ——可哀想……か。


「ここに来たくて、ここで泳いでると思うか?」

「え? 急にどうした?」

「って山田が」

「あいつの言ってることはよく掴めないからな、あんまり気にしなくてもいいんじゃないか? せっかく水族館に来てるんだから、楽しまないと」


 とは言ったものの、気にしないではいられない。


 今のは嘘で、難しくとも何ともない。それは俺にも向けられた言葉であって、蓮水には関係のない話だ。理解できるわけがない。


 山田は蓮水が好き。

 それは分かっている。

 どちらを選んでも祝福すると言っていた。

 だから遠慮はしなくていいと。だが、早くしろと。


「俺か……」

「何か言いました?」

「いや、何も。イルカショーもうすぐだ。行こう」

「はい!」




****





 イルカショーの会場に着くと、館内に居た人よりも多くの人で賑わっていた。と、言ってもそんなに人が多いわけではない。

 後方の席は割と空いている。


 こんなに人いたか? と周りを見渡すと、前方の席に座っている花宮さんと祐介を見つけた。

 存外に仲良さそうに談話している二人を見ると、なんだかもやもやする。


「どこ座ります?」

「前の方は人多いし、濡れるからやめよ」

「じゃああそこの人気のない場所にしましょ」


 指の差された場所は人が全然座っておらず、穴場みたいな感じで空いていた。


 通路を歩き、端の方へと目指して歩いて行く。

 真下には花宮さんと祐介。そこを見下ろしながら通り過ぎていき、あまりにも見すぎていたせいか、前から来る人に気付かずぶつかってしまった。


 すいませんと謝り、先へと向かうが、

「大丈夫ですか? さっきからずっと———あ、あの二人ですか。山田は花宮先輩と来てたんですね」

「みたいだな。意外と仲が良さそうで……」

「確かに。山田って誰とでも上手くやっていけそうな感じはしますからね。花宮先輩も意外と気に入ってそう」


 その言葉に俺は何も言う事が出来なかった。そうあって欲しくなかったから。


「先輩?」

「あぁ、ごめん。早く行こう。始まっちゃうな」


 昨日、俺は花宮さんに今は答えられないと言ってしまった。

 祐介は花宮さんを振ったと思っていた。それはつまり、花宮さんが祐介に振られたと言った可能性が高い。何とかその誤解は解かないと。



 ひとまず席に着き、イルカショー観覧する。

 大きなモニターにも、ショーの様子は映し出されていた。

 イルカは高く飛び上がり、吊り上げられたボールをタッチしたり、輪をくぐったりと従順に支持を聞いて、しっかりとお客さんを楽しませていた。


 時折、イルカが前方の席の近くを通って、水飛沫を散らすと、前の席からは「きゃー」とか「うわぁ!」と言った声が届いてくる。

 その中にはあの人も含まれていた。


 観覧しながらも、彼らの方へ視線が引き寄せられるように見てしまっていた。

 多分、半分以上の時間、彼女を見ていた。あんな笑顔を見るのも久しぶりで、驚きながらも笑う顔は可愛かった。


 隣にいる蓮水は、「わぁ! すごーい」と喜んで歓声を上げていた。


 なのに俺は花宮さんを見ている。

 蓮水と来ているのにも関わらず。

 彼女の事ばかり、考えてしまう。

 一緒に暮らしていた事を。


 ご飯を一緒に作って、食べて、テレビを見ながら笑って、ライブにも行って、恥ずかしくも手を繋いだり、俺の事で怒ってくれたりと。キスもして。

 こんな時でも思い出してしまうのは花宮さんだった。

 あの場所に俺が居たい。一緒に笑って共有したい。


 ————俺は花宮さんが好きなんだ。


 彼女の隣に居たいと、今、現状で思ってしまった。


 確信へと変わったその時、肩を叩かれ、横を見た。


「んっ!?」

 

 蓮水は何も言わず、俺の唇に唇を重ねた。


「ひゅーひゅー」


 と、会場全体から冷やかしの声が聞こえ、咄嗟に蓮水を離して、視線を戻すと、モニターに映っていたのは、俺と蓮水だった。


 そしてその視線はすぐにもう一つの方へと移る。


 ————花宮さんだ。


 彼女は立っていた。こちらを見て、目が合うと逸らして、階段を上がって出て行ってしまう。


 追いかけようと立ち上がると、蓮水に手を取られ身動きが取れなくなってしまった。


「……行かないでください」


 こちらを見ず、下を向きながら言った。

 その手をゆっくりと、離して俺は……


「ごめん」


 彼女を追いかける事を選んだ。

 俺が好きなのは花宮さんだから。


「すぐ戻るから」

「嫌です、嫌っ……行かないで……」


 泣き崩れる蓮水を置いてその場を離れた。

 イルカショーは一時の盛り上がりで、すぐに元の公演へと姿を変えていた。

 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。



 ——それは阻まれてしまう。



「俺は分かっていますよ。先輩からじゃないってのは」


 出口へと続く通路を塞ぐように、祐介が立っていた。


「だったら行かせてくれ。俺は花宮さんが好きなんだ」

「それはできない。今はあんたが出る幕じゃない。行ってもややこしくなるだけだ。一旦距離を置いて、蓮水の元へ戻って下さい」


「くっ……」


「その資格はないって言ってるんです。ちゃんと言ったんですか? 蓮水に。言う相手間違えてませんか?」


 反論する言葉も出なかった。

 何一つ祐介は間違ってないから。


「今のあなたが彼女の隣にいく資格はそれが済んでからだと言ってるんです」

「分かった。……戻るよ。花宮さんを頼むな……」

「言われんでも、分かってるわ」


 踵を返し、蓮水の元へと戻った。





******




 あれは私にはきつかった。

 いくら好きでいてもいいとは言え、あんなのを見せられたら流石にきつい。

 走りながらも流れる涙を我慢できず、ぼろぼろと尾を引くように零れていく。


 水族館を出て、走った。

 とにかく走った。

 涙と共に口にはできない思いを叫ぶように。

 

 水族館の近くには公園があり、そこで私はしゃがみこんだ。


「うぅっ……」


 我慢が出来ず、声も出てしまう。

 来なければよかった。来なければ、私はこんな思いをすることはなかったのに。


 一時の幸せは、不幸に一気に呑み込まれて、暗くする。


「もう、だめ……私には無理だよ……」

「こんな場所で泣いてても邪魔ですよ。花宮先輩」


「山田君……私もう無理です。これ以上は彼と一緒にはいられません……」

「そう……ですか。あの人の話を聞かなくていいんですか?」


「そんな事したって意味がない……」

「一人で決めていいんですか? あなたはそれでいいんですか?」


「いいです。……もう一緒には暮らせません」

「勝手に決められても、そんなすぐに家が見つかるとは思いませんけど」



「……大丈夫です。————私が出て行きますから」

 

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