最終話 運命の人

 打ち上げも終わり、林太郎は家路についた。

 時刻は、とっくに日付を跨いでいる。住子を起こさないよう、そっと玄関扉を開けるとリビングに明かりが灯っていることに気づいた。音が聞こえたのか、廊下に住子が顔を出す。

「……おかえりなさい」

「ただいま。住子ちゃん、まだ起きてたの?」

 遅い時刻に帰ることも多いため、先に寝ていてかまわないと伝えているし、実際そうしていることがほとんどだ。

 にもかかわらず、こうして起きているということは、なにかあったのだろうか。

 不安に思って足早に近づいたが、住子の顔色はさして悪いようにはみえなかった。

「だいじょうぶ? なにかあった?」

 それでも一応問いかけると、住子はいつものように口元を結んで答える。

「……今日は、ツアーの最終日なんでしょう?」

「ひょっとして、それで待っててくれたの?」

「あんなことがあったあとだし、私ひとりだけ呑気にしてるのも悪いじゃない……」

 住子は住子なりに考え、林太郎を案じてくれていたらしい。

 ツアーが終わった達成感と相まって、林太郎は住子を掻き抱いて、感謝の意を伝える。

「ありがとう、住子ちゃん。大好き」

「……バカなの?」

 対する住子はそう答え、脱力するように息を吐く。

 どうやら、心配するほどのことではなかったらしい。

 住子はさりげなく腕をほどき、なにか飲むかと問うと、林太郎は首を振った。打ち上げでじゅうぶん食べて飲んだという。

 リビングへ戻ってソファに並んで座ると、林太郎がツアーの様子を話しはじめた。

 MCで触れた本名の件は、重くならずに伝えられたこと。慎吾の機転もあり、林太郎という名でコールするお約束ができ、ファンとしてもリンと林太郎を区別し、楽しく受け入れる土壌ができあがったらしい。

「これもぜんぶ、住子ちゃんのおかげだよ。ありがとう」

「私はなにもしてない」

「俺にとってはそうなの。素直に受け取ってよ」

 くすりと笑った林太郎だったが、つぎに姿勢を正して住子に向き直る。そして、生真面目な顔で告げてきた。

「住む場所の話なんだけど、やっぱりここが一番安全だと思うんだ。記者がうろついてたとしても、このマンションならセキュリティがしっかりしてるし。なにより、うちの事務所とかかわりがあるから、住子ちゃんのこともかくまえる」

「でも、いつまでもお世話になるってわけにも――」

 林太郎の言いぶんはわかるし、今回の件でひとり暮らしの怖さも思い知った。なにかあったとき、自分は本当に動けないのだと情けなくもなった。

 助けられ、その優しさがうれしくもあり、だけど怖くもある。

 林太郎は自分を好きだというけれど、住子は知っている。彼が求めている存在は、自分ではないはずだ。もっとふさわしい、彼が真に望む人がいるはずなのだ。

 いずれ離れなければならない相手と、こうして一緒の家で過ごすなんて。期間が長ければ長いほど、己の心はますます弱くなってしまうのではないだろうか。

 すると林太郎は、にわかに緊張した顔つきとなる。

 そして大きく息を吸い、意を決した様子で驚愕の一言を放った。

「俺と結婚してください」

「――は?」

「や、いますぐは無理ってわかってる。杉さんにもアホかって言われたし、社長も頭抱えてたから、ダメなのはわかってるんだけど、でも言っとかないと」

 慌てふためいたように早口で言いはじめる姿に、住子は震え声で問う。

「自分がなに言ってるかわかってるの……?」

「わかってるよ」

「あなた、言ってたじゃない。奥さんの名字を選択して、山田って名前から解放されるんだって」

 出会ったころに、さんざん聞かされた話だ。

 小学校六年生のころから心に秘めているという、切なる願い。

 夢見がちな子どものような言い草だったが、顔と名前のギャップに苦しみつづけた彼にとっては、大切なことだっただろう。それを笑うことなんてできない。

 自分は山田住子であり、彼が求める「運命の人」ではないはずだ。芸能人と一般人がどうとかいう以前に、住子が山田という姓であるかぎり、そもそも対象外のはずなのだ。

 それなのに、いったいなにを言い出したのか。

 すると林太郎は目をしばたたかせ、笑みを浮かべた。

「そうだったね、忘れてた」

「忘れてたって、あなた……」

「俺の願いはたしかに脱山田だったんだけど、それはようするに、顔と名前の不一致に悩んだあげく考えだした、子どもの浅知恵なわけで」

 そして、名前の件を克服した今となっては、たいした問題ではないのだ。

 運命の赤い糸。

 繋がっている、たったひとりの相手が欲しかった。

 あるがまま、そのままの自分を受け入れてくれる、唯一の運命の人。

「住子ちゃんの名前が山田なんだから、俺が山田林太郎なのも、もう動かせない運命なんだよ」

「だから、あなたはその山田じゃない人を探して――」

「俺が探していたのは運命の人。で、出会った運命の人が山田なんだから、もう俺は山田でいいの」

「……意味が、わからない」

「住子ちゃんが、俺の運命の人だよ」


 あの古びたアパートの廊下で、免許証を落としたこと。

 それをたまたま拾ったところに出くわしたこと。

 拾ってくれた相手が、同じ名字だったこと。

 同時期に抜擢されたドラマで、酷似した設定に巡りあったこと。

 自分に興味も関心もない相手なら、練習になると思ったこと。


 春と夏と秋と冬と。

 それぞれの季節を、ともに過ごした。


 いくつもの偶然。

 それらが積み重なって、今がある。

 出会いは偶然。

 けれど、そこから先は偶然ではない。

 互いを知り、ただの友人よりも深く相手のことを知りたくなって。

 相手のために、なにかをして。

 相手のために、なにかをしたいと、そう思う。


 はじめは芝居の練習だった。

 それが付き合ってるふりに繋がって。

 そしていま、こうして一緒に暮らすことへ繋がった。


 すべては今のためにあるかのように。


 これはもう偶然ではなく、必然。

 運命なのだ。



「しばらくは記事になるようなことはご法度だし、仕事もあるし、俺がひとりで決められることじゃないんだけど。でも俺は、住子ちゃんがいいんだ。だから、約束がしたかった」

「……バカ、なの……?」

「ねえ、住子ちゃん」

 かすれた呟き声には答えず、林太郎は震える住子の手を取った。

 包みこむように握り、もう一度その願いを口にする。

「いつか、俺のお嫁さんになってくれる……?」

 傍若無人で、自分本位。

 そんな山田林太郎の、自信なさげで、弱々しい声に住子の胸は締めつけられる。

 ――こんなのは、ずるい。

 嘘やごまかしのきかない視線に、住子を覆う固い繭がほどけていく。

「私はきっと、足かせにしかならない」

「そんなことないよ。俺は住子ちゃんがいてくれたら、百人力だし」

「もっと、ふさわしい人が」

「住子ちゃん以上にふさわしい人なんていないよ。たぶん、杉さんもおなじこと言うし」

「でも――」

「ねえ、住子ちゃん」

 それでもなお否定をつづける住子の耳に、林太郎の声が優しく響いた。握られていた手が離れ、住子の頬へ向かう。いつのまにか流れていた涙をその手がぬぐい、そのまま頬を包む。

「好きだよ。住子ちゃん、俺のこと好き?」

 こくりと、言葉もなく住子が頷く。

 笑みを浮かべた林太郎は、なだめるようにゆっくりと頬を撫でた。

「今回みたいなことが、またあるかもしれない。そうなったときに、ちゃんと住子ちゃんを守れる立場でありたいんだ。火事のときは、本当にそう思った」

 友人はもとより、恋人という立場だったとしても、介入できないことがある。すぐそこにいるのに助けられないことは、たくさんあるのだと林太郎は知った。

 もしものときに、手をこまねくような事態には、なりたくない。

 誰よりも住子の近くにいて、堂々と手を差し伸べられる立場でありたいのだ。

「俺の仕事は食いっぱぐれのない職業とはいえないし、落ち目になっちゃうかもしれない。制約も多いし、人目にもつくし、自由に出かけるのもむずかしいかもしれない」

「……そのわりに、いろいろと引きずりまわされた気がするんだけど」

「そうだね。俺が本当に考えなしだった。反省してる」

 だとしても。だからこそ、胸を張って歩けるようになりたいと思っている。

「仕事で家を空けることも多いと思う」

「知ってる」

「これからも、ファンの女の子たちに愛想をふりまくと思う」

「そうね」

「もっといい役者になって、ドラマにひっぱりだこになりたいとも思う」

「――そうね」

 林太郎らしい野心に満ちたその言葉に、住子がちいさく笑った、

 表情を変える――感情を見せてくれることが、心の底からうれしいと感じながら、林太郎はつづける。

「そうやって、いろんな人にたくさんの好きって言葉を言いつづけると思う。でもそれは、住子ちゃんがいるからできることだってわかったんだ」

 作りものである世界で、愛の言葉に温度を持たせられるのは、そこに含まれるあたたかさを実感したからに他ならない。

「こんな俺だけど、住子ちゃんを愛する気持ちは他の誰にも負けないし、そもそも誰かにゆずる気持ちもない。俺だけの住子ちゃんにしたい」

「誰かって……、そんな人どこにもいないわよ。私のことを……す、好き、なんて言う奇特な人、山田くん以外にいないもの」

 住子らしい言い草に、林太郎は笑みを浮かべる。

 だってそれは、自分は住子にとって「唯一の人」だと言われたと同義ではないだろうか。

「――なに笑ってるのよ」

「住子ちゃんがかわいいから」

「バカなの?」

「住子ちゃん」

「なによ……」

 どこか恥ずかしそうな、困ったようなその顔を見つめ、林太郎はもう一度、願い出る。

「山田住子さん、俺と結婚してください」

「――――はい」

 断られたとしても、何度でも言いつづけるつもりだったが、逡巡のあとでちいさく住子は頷いた。林太郎は、よろこびのままに問いかける。

「キスしていい?」

「あなたね――」

 住子が言いかけた言葉は口のなかに呑み込まれ、吐息とともに封じられる。

 息もつかせぬ振る舞いに流されながら、それでもどこかほっとしたような心地で、住子は瞳を閉じた。




    ◆




 山田林太郎

 脚本に印字された文字を撫でながら、林太郎はくすぐったそうに頬をゆるませる。

 四月に入り、ネット配信ドラマ『恋模様』も第三期へ突入した。

 林太郎はキャストに名をつらねており、続投した形となっている。やはり、最初に演じた物語が、人気投票で第一位を獲得したことが評価されたのだろう。共演女優の田坂かおりもまた、継続組のひとりだ。

 冬ドラマとして放送された年下男子は好評を博し、『恋模様』でも似たような設定――いわゆる「子犬キャラ」に分類される役がふられている。

 演技の幅は、拡大したといっていいだろう。

 家で脚本を広げて練習をしようとすれば、住子に「もう、普段のままでいいじゃない」と言われ、付き合ってもくれなかった。そのまま台所で片付けをはじめてしまったため、ちょっと腹が立ち、背後から抱き締めてみた。脚本にもあるシチュエーションである。

 しかし住子は、作中のヒロインのように頬を赤らめて俯かずに、「邪魔」とひとこと吐き捨てて、肩から前へまわして身体を抱いていたこちらの腕を、ぺちりと叩いたのだ。

 まったくつれない態度だけれど、林太郎はそういう住子が好きなのだから仕方がない。

 自分の腕を叩いた左手にある小さな指輪を見るたび、しあわせで満たされてしまうのだから、なにを言われたって平気だった。


 今はまだ、正式なものとして渡せない仮の指輪だけれど、いつか毎日おなじものを身に付けたい。

 それを許されるために、己の立場を磐石なものにする必要がある。


 自分の武器は、この顔だ。

 整った美しい顔、外国人めいた風貌は、それだけで演じる役の幅を広げてくれる。

 そしてもうひとつ。

 容貌に反する、平凡で当たり前の名前。

 おかげで、フォレストを知らない層にも、認知された。

 これまでも、これからも、自分は山田林太郎であり、この顔と名前で生きていくのだ。



 声がかかり、カメラの前に立つ。

 画面の向こう側にいる、たくさんの人たちに向ける顔にもう迷いはない。


 いつだって胸のなかにいる、たったひとりの大切な人を守るために。

 今日も山田くんは、微笑みながら睦言を囁く。





 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る