第07話 寝言は寝て言え

 廊下を歩く、靴音が聞こえた。

 壁に掛けてある時計を見ると、午後十一時をまわったところだ。近づいてきた音は自室の前を素通りして遠のき、過ぎ去ったことで身体の強張りが解けたことに気づいて、住子は眉をひそめた。

 己と同じ名字をもつクォーターの芸能人、山田林太郎。

 隣の部屋に住む彼が、ことあるごとに部屋を訪ねてくるようになって数ヶ月。芸能人などというものに縁はないが、あそこまで傍若無人なのがデフォルトかと思うと、つくづく面倒な世界だ。もっとも、あれぐらいの豪胆さがなければ、生き残って――、ましてや人気を得ることなどできないのかもしれないが。

 最初のころは、一体いつ訪ねてくるのかわからないこともあり、気が休まる暇もなかった。先日ようやく「事前に連絡をする」ということを覚えたらしく、メールアドレスを交換したところである。


 “今日は早く終わるから部屋に寄る”

 林太郎のメールはいつも素っ気ないほど簡潔だ。性格的に、だらだらと言葉を綴りそうなイメージだったため、初めてそれを受け取ったときは驚いたものだ。

 話し言葉と書き言葉の違い、とでもいうのか。

 あるいは、忙しい仕事の合間に打つせいで、短文にならざるを得ないのかもしれない。

 住子が彼の世界を理解できないように、林太郎にしたって、住子のような人間が送る生活は縁遠い世界だろう。決して交わることのない二人が出会ったのは偶然だが、その偶然を楽しめるほど、楽観的な性格はしていなかった。

 コツ。

 ふたたび鳴り響いた靴音に、玄関のほうへ顔を向けた。さほど間をおかないうちに、コンと小さくノック音が響く。口を引き結んだまま立ちあがった住子は、静かに玄関へ進むと、扉をすこし開いた。

「ごめん。寝てるかもって思ったんだけど、行くっていっておいたし」

「無理することない。来られなければ、そうメールすればいいだけでしょ」

「相変わらず冷たいなー、住子ちゃん。俺に会いたくなかった?」

「…………」

「うん、わかってる。言わなくていいよ」

 黙りこんだ住子の言葉を勝手に補完し、林太郎は手にしていた封筒の中からなにかを取り出すと、こちらに差し出した。

 透明なポリ袋に包まれたそれには、黄色い花があしらわれた飾りが入っている。促されるままに受け取ると、ひどく満足そうな笑みを浮かべた。

「それさ、ストラップなんだ。あげるよ」

「ストラップ?」

「俺のスマホにはストラップホールないし、あってもたぶん使わないから。住子ちゃんのガラケー、なにも付いてないだろ?」

 たしかになにも付けていない。ゴテゴテとした装飾は好きではないこともあり、以前に付けていた物の紐が千切れて以来、そのままになっている。

「ファッション誌の取材があったんだけど、そこで貰ったんだ。お金出して買ったわけじゃないから、気軽に使ってよ」

「でも、私じゃなくてもべつに――」

「なんかさー、これ見たときに、住子ちゃん思い出したんだよ。住子ちゃんって、黄色い花のイメージなんだよなー」

 告げられた言葉には、あのわざとらしさがなく、それは本当に彼の本音なのだろうということがわかり、住子の胸にむず痒さが飛来する。

 ニコニコと笑う顔は、よく見る芝居じみた微笑みとはまるで違っていて、それもまた居心地の悪さに拍車をかけるのだ。

「無理して使わなくてもいいよ。もしよかったら、ってことだから」

「……ありがとう」

「どういたしまして。じゃ、帰るね。おやすみ」

「え、寄っていかないの?」

「用事済んだし」

「用事?」

「ストラップ、ちゃんと渡したかったからさ。あとは――」

 次にこちらへ顔を近づけると、口角をあげ、穏やかに微笑む。

「眠りにつく前、キミの顔を見たかった。キミの声で、おやすみの言葉を聞いておけば、夢の中で会えるだろう?」

「寝言は寝て言え」

 油断すると、すぐこれだ。

 反射的に言い返すと、林太郎は楽しそうに笑う。長い指をひらひらと動かして隣へ向かう背中に、住子はあわてて声をかけた。

「おやすみ、山田さん」

 ひらりと舞った手のひらの返答を受け、玄関扉を閉じる。数秒の後に隣から聞こえた同じ音に、住子はひとつ大きく息を吐き、リビングへと戻った。



  ◇



 林太郎が出ていたという春ドラマは、好評のうちに幕を閉じたらしい。

 今クールの中では上位に位置する程度には視聴率も高く、SNSでも感想の呟きが投稿されているという。林太郎が演じた役柄も人気があるのか、主役よりも名前を目にする率が高いようにみえるのは、住子の気のせいではない――と思いたい。

 フォレストには公式のSNSアカウントがあるようで、二人の情報はそちらで流されているが、当人たちによる呟きは存在しない。同事務所に所属しているタレントの中には、個人名でのアカウントを持っている者も多いため、事務所の方針として禁じているというわけではないようだ。

 あの性格がバレないように、止められているのではないかと、住子は考えている。

 時折、隣室にやってくる黒いスーツの男性が、マネージャーであると判明した。グラサンにきっちりとしたスーツ、その筋の人なのかと思わせる風貌の男が訪ねてくるせいで、てっきり借金取りに追われる貧乏な人かと思っていた隣人が、まさか芸能人だとは思わなかったが、同様に、あれがマネージャーだとも思わなかった。まったく「芸能界」というものは、よくわからない。

 林太郎によると、そのマネージャーから、言動について文句を言われることが多いらしく、それの愚痴を聞かされる。

 だが、どう考えてもマネージャーのほうが正しかった。

 たぶん、検閲をしないまま言葉を流せば、林太郎の発言はあっという間に炎上するだろう。

 シン――三浦慎吾というらしいフォレストの相方は、公式サイトのほうでSNSツールを活用した、コラムのようなものをやっているという。

 林太郎に促されてパソコンで確認したところ、呟きというよりは、写真や画像がメインで、そこに短い言葉が添えられている

 さりげなく、けれど写真と相まって印象に残る――、そんな言葉選びを素敵に思って訊ねたところ、アルバムに新規収録される楽曲のほとんどを、三浦慎吾が手掛けているのだと聞かされた。

 歌詞が掲載されているサイトでフォレストの曲を調べてみると、たしかに作詞欄には「シン」と書かれているものが多い。メロディにのっていない、文字だけで見るそれらの言葉はやはりとても素敵なもので、住子はシンのファンになったものである。

 アルバムのリード曲に関しては、動画サイトの専用チャンネル内でミュージックビデオが公開されていた。一分程度の短いものではあったけれど、詩として読むのとは違った印象を受けたし、林太郎が「人気あるんだからな」と豪語していたのも、すこしだけ納得する。

 すこしだけ――と言い訳のように付け加えてしまうのは、やはり普段の彼を知っているからだろう。

 フォレストというアイドルの画像や短い楽曲映像は、どうしたって「撮影」されたものであるためか、近くにいる山田林太郎とはつながらない。顔が似ているだけの別人のように思える。

 アイドルとは「偶像」だ。

 自分とは違う世界に住んでいて、交わりのない存在だ。

 間違っても、コンビニのプリンを食べ比べて、どこの店が一番好きかを熱く語ってみたり、牛丼の肉が少ないと怒ってみたり、シュウマイの上に載っているグリンピースを剥がしては、「だっておいしくないじゃん」などと口を尖らせたりする人ではないだろう。



 住子が勤める会社のロッカールームは、同じフロアで働く女性社員全員が使用するため、出勤退勤時はそれなりの混雑をみせる。男女比率でいえば、男性のほうが遥かに多いこともあり、広さの点でも冷遇されていることが大きいだろう。

 混み合った場所は好きではないし、女子同士の会話も苦手。できれば人が引けたあとに着替えようと考える住子は、定時を告げるチャイムが鳴っても机に座り、携帯電話で暇をつぶすことが多い。

 画面は小さいけれど、情報収集程度であれば、これで事足りる。なにも問題はないだろう――などと考えてしまう時点で、たぶん卑屈になっている。それぐらい、ガラケー使いは肩身が狭いのである。

 見慣れた画面の隅に、黄色い花が垂れている。

 林太郎がくれた、ストラップだった。

 しまっておいても仕方がないし、置きっぱなしにするのも気が引ける。

 なんとなく自分に言い訳をしながら、住子はそれを自らの携帯電話へ取り付けた。手に持つたび、連なった黄色い花が揺れて、ちゃらりとかすかな音を立てるさまが懐かしい。なくても支障はないけれど、あれば華やかだし、新しいものはどこか心が浮き立つ。

 それは、渡されたときの林太郎を思い出すからだろうか。

 あんなふうに、誰かから貰い物をしたのは久しぶりで、胸の奥がもぞもぞする。とてつもなく落ち着かない。

 知らず口を引き結んでいたのか、「なにか心配ごと?」と声がかかった。

「いえ、なんでもないです」

「ならいいけど。山田さん、残業?」

「そろそろ帰ろうかなって思っていたところです」

「じゃあ、帰ろうか」

 隣の部署で同じ事務仕事をしている鈴木すずき優子ゆうこに誘われ、住子は立ち上がった。手に持った携帯電話をポーチに入れていると、鈴木が目ざとくそれを見つける。

「あ。かわいいね、それ」

「貰いものですけど」

「見せてもらってもいい?」

「いいですよ」

 鈴木に手渡すと、樹脂製の花を手のひらに乗せて、検分する。連結部分には光沢のあるビーズが通されており、適度な間隔を設けることで、花同士の接触をふせぐ役割を担っているようだ。こういったものに造詣が深くない住子が見ても、良いデザインだった。雑誌社で貰ったと林太郎は言っていたが、それなりにお金をかけて作製されたものではないだろうか。

「貰ったって言ってたよね」

「はい。……ひょっとして、高価なものだったりしますか?」

 相手は芸能人だ。金銭感覚がおかしくても不思議ではない。

「これ、何ヶ月か前に発売した月刊誌の付録でね。たしか、オークションでは高値がついてた」

「――やっぱり高いんですね」

「あー、違う違う。もう売ってないからだよ。発売期間を逃した人に対して、値を吊りあげてるだけ」

 人気のファッションモデルが使っていて、ネットにあげた写真が注目されたことで、ストラップのほうにも注目が集まっているらしい。

「なんかさー、その辺に三千円ぐらいで売ってそうな帽子でも、何万円もしたりするじゃない? そういうのを有名人が愛用してるってだけで飛びつくの信じられないんだけど、買う人は買うんだよねぇ」

「……わかります」

「山田さんならわかってくれると思ったよ」

 鈴木優子も、どちらかといえば地味グループに属するような空気をもっている。三十二歳で住子よりも年上だが、その差を感じさせない気安さもある。社内で唯一、緊張せずに会話ができる人だった。

 彼女が住子と異なる点は、既婚者であることだろうか。社内恋愛で、旦那さんは住子も知っている、人あたりの良い男性である。

(山田さんとは全然タイプが違うよね……)

 最近知った異性の顔をふと思い出し、住子は苦笑した。



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