山田住子は写真を手に戸惑いを覚える

 会社への住所変更を終えて、ついにこの場所が住子にとっても「自宅」となってしまった。

 いままでは間借りしているような気持ちがあったが、こうなると心境も変わってくるというものだ。

 アパートの火事から一ヶ月ほどが経過して、あちらに置いてあった家具などは林太郎の物と一緒に処分してもらった。食器棚や冷蔵庫などは、こちらの部屋に豪華な物が揃っているから必要がない。

 業者が処分したものもあれば、引き取り手があるものについては、安価で譲り渡しているらしい。

 事務所で面倒を見ている若いタレントなどは、貧困に喘いでいることもあり、そういった中古家電は喜ばれるのだとか。

(芸能人って、やっぱり大変なのね……)

 身近にいた芸能人が、林太郎という「人気アイドル」ということもあり、そういったことを失念していた住子である。

 自宅となったからには、いつまでもお客さん気分というわけにはいかない。掃除も含め、きちんと目を配る必要があるだろう。

 住子自身は、多少の汚れは気にならないが、ひとり暮らしの部屋とはわけがちがう。部屋数のこともそうだし、広さの面でも雲泥の差だ。

 忙しい林太郎にあれこれ求めるつもりはなかったが、林太郎は林太郎で住子にすべてを押しつけるつもりはないようで、家事の分担案について提示があったことには驚いた。山田林太郎は、想定以上に気遣いの達人であったらしい。

 こういったことも、隣人だったころには知らなかったことで、住子は彼のあらたな一面を知って、感心したり戸惑ったりと、心を持てあましている状態だ。



 家の掃除については、休日におこなうことにしている。

 平日、決まった時間に就業する住子と違って、昼間に在宅している時間がある林太郎が簡単な掃除をしていることもあってか、週末までに汚れがたまることもなかった。

 おかげで、気合いをいれたわりには早く終わってしまい、住子はリビングのソファーに腰を下ろした。

 今日は林太郎が早めに帰宅する予定。ひさしぶりに夕食の時間が合いそうなので、さてなにを食べようかといったところだ。もしもリクエストがあれば受け付けると伝えてあるが、いまのところ連絡は来ていない。

 冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、テーブルに置かれたままの封筒をまとめていると、袋のくちが開いていたのか数枚の紙が床へ落ちてしまった。

 これらは林太郎のもので、主に仕事に関連した書類だ。

 第三者に簡単に見せていいものではないと思うが、「だって住子ちゃんは、そのうち俺のお嫁さんになるんだから、他人じゃないし」と明るく言われてしまうと、口をつぐむしかなくなる。

 了承はしたけれど、婚約者という単語に、未だ慣れないのだ。

 口を引き結んで取りあげた住子は、手にしたものを見て、眉を寄せた。

 それは、写真だった。

 一般的に印刷するLサイズではなく、もうすこし大きなもので、写っているのは林太郎である。

 仕事の写真だろうか。しかしそれにしては、季節が合わない。長袖のジャケットにタートルネックという冬の装いは、いくらなんでも季節を先取りしすぎである。ファッションの世界は常に一歩先の季節を提供するものだが、いまは四月末。これからは夏物の売り出しだろう。

 首を傾げながら次の写真を見ると、宝飾品を手に取って差し出す格好をした「リン」の姿がある。

 ――これ、もしかすると、クリスマスの仕事?

 クリスマス商戦に向けて、急ピッチでおこなわれた雑誌の仕事があったはずだ。

 たくさんのプレゼントを手に写真を撮って、顔の筋肉がヘンになりそうだった、と文句を言いながらも楽しそうに話してくれたのは、いつのことだっただろう。

 たしか、伯父と出くわして、恋人の振りをする以前のこと。

 彼のことが好きなのだと、想いを自覚するよりも前のことだ。

 束になった写真をめくっていくと、じつにさまざまな顔写真が現れる。どれひとつとして同じではなく、すこしずつ印象が違って見えることが、とても不思議だ。

 被写体としての彼は、お芝居をしているときとは異なる顔をする。

 プロだな、と。

 こんなときはいつも、林太郎を遠く感じてしまう。

 嘆息しつつ次に現れたのは、またべつの雰囲気の写真だった。

 それまでは、小物を見せることを主体としていたが、これは違う。リボンをかけただけの素っ気ない小箱を差し出して、よく見るアイドルスマイルを浮かべたものだ。

 そういえば、くだんの雑誌に掲載された写真が、とても話題になったのではなかったか。

 カメラマンに「自分自身で」と言われて苦労したのだと熱弁をふるっていて、おざなりに相手をしたことを思い出す。

 かの雑誌自体にとくに興味はなかったし、書店でも売り切れていたため、ネットに出回っていたものを画面を通して見たのだ。

 たしかあの写真は、これとよく似た構図のはずだけれど、なんだか笑顔の印象が違う。

 あのとき話題になっていたのは、もうすこし穏やかな印象の笑みだったような気がする。手元にないため記憶の写真はおぼろげだけど、リンにしてはめずらしい写真だと思ったのだ。

 撮影現場で撮ったその写真について、林太郎自身はこう言った。


 あのとき、住子ちゃんのこと思い出したんだよ。

 もしも渡す相手が住子ちゃんだったとしたら、どんな顔するかなーってさ。

 だから、あの写真が褒められたのは住子ちゃんのおかげなの。

 誇っていいよ、住子ちゃん!


 いつもの自信過剰な物言いに、当時は「なにを馬鹿なことを」と呆れたものだが、きちんと記憶していないことを、いまはすこしだけ後悔する。

 おそらくネットで検索をすればヒットすることだろう。

 けれど、そうすることがなんだか悔しいような気がするのは、なぜなのだろう。

 眉を寄せつつ次の写真をめくった住子は、そこで息を呑んだ。

 ついさっき見た顔と同じようでいて、どこか違う。

 口元に浮かぶ笑みと、やわらかく細められた優しい瞳。

 不意に、林太郎の声が脳裏に響いた。


 好きだよ。


 顔に熱が集中していることが、自分でもわかった。

 猛烈に恥ずかしくて顔を覆ってしまいたくなるけれど、写真の林太郎から目が離せない。

 奇跡の一枚。

 そう称された理由がわかった気がするが、世の女性陣は、雑誌でこの顔を見て、どうして平気でいられたのだろう。

 こんなにも心臓が痛くて、恥ずかしくて、泣きそうで――。見ているだけで、たまらない気持ちになるのに。

 それとも、恋に慣れた人たちにとっては、こんな微笑みは当たり前なのだろうか。

 だとしたら、住子は一生慣れそうにない。


 写真をまとめて袋に戻して、住子はソファーに転がった。

 ドクドクと音を立てる心臓をおさめないことには、動けそうにない。

 テーブルの上に置いてあった携帯電話が震えて、住子は手を伸ばす。サイドディスプレイに表示されているのは、林太郎の名前だ。


 "オムレツ食べたい"


 どうして今日にかぎって早く帰ってくるのだろう……。

 溜息を落としながら身体を起こし、食材について考えを巡らせる。

 卵はたくさんある、具材はなににするべきか、林太郎はチーズを入れたものが好きだから、それは買ってきたほうがいいかもしれない。ついでに、ピザトーストでも作ろうか。

 だけど、まずはすることがある。

 ――顔、洗おう。

 まだ熱を持ったままの頬に手を当てながら、住子は洗面所へ足を向けた。



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