第24話 一緒に食べようよ
二月に入るとバレンタイン商戦も佳境となり、赤やピンクのハートが乱舞する街中を歩く女性の姿が目立つ。制服姿の学生がいれば、子どもを持っているであろう主婦層の姿まで、実にさまざまだ。
こういったものは結局イベントを楽しんだもの勝ちで、雰囲気を楽しむものだろう。昨今は友チョコと称して、女の子が友達と交換するイベントも含まれているという。
クリスマスにつづいて、こういったことに縁遠い住子は、いつも特設催事場を遠くから眺める程度だ。勤める会社には義理チョコ制度はなく、実家にいるころはあらたまって祖父に渡すということもなかったので、本当になにもない二十五年間を過ごしてきた。
けれど、今年はすこし違っていて、どこかそわそわした気分を味わっている。
その理由はいうまでもなく、山田林太郎だった。
知名度のある芸能人――アイドルと称される立場の人に恋心を抱く。
なんとも不毛で、痛々しい感情だ。
ファンクラブに入ってツアーを追いかけたり、プレゼントを贈ったりするようなファンもいるだろうけれど、彼女たちだって、アイドルと結ばれる未来を想像なんてしていないだろう。それとこれとは別なのだから。
ガラスケースに陳列された、形の整ったチョコレートの数々を前に、住子は眉を寄せる。
二月十四日。バレンタイン当日にもかかわらず、駆け込み乗車よろしく売り場は賑わっていた。包装待ちらしき客が列をなし、ロープで区画されるほどの客数だ。
買うべきか、買わざるべきか。
林太郎のなかで絶賛続行中の「恋人設定」は密度を増し、さらに磨きがかかっていた。いつだって笑顔を浮かべている林太郎ではあるが、最近はそれに加えて瞳のなかに感情が伴っている。そこに含まれているものがなんなのか住子にはわからないけれど、見つめられるとひどく居心地が悪かった。
それは自分が、彼への好意を自覚してしまったがゆえであり、優しさを勘違いしていることへの自己嫌悪でもあるのだろう。
林太郎にとって自分は友達でしかなく、彼が優しいのは、住子が伯母に疎まれていることを知ったからこその正義感。夏祭りのいざこざが尾を引いた、自責の念といったところだろう。
同情や憐みといった感情を向けられても虚しいだけなのに、与えられる優しさは胸をあたためてやまなかった。
(だから、御礼よ、これは)
年末に帰省しない住子を思ってか、ともに過ごしてくれたこと。夜中にふたりで食べた年越しそば、年末年始特有のテレビ番組を誰かと見るなんて、何年振りだろうか。
だからこその、御礼だ。
ありがとうの感謝をこめたものであれば、バレンタインに贈り物をしても差し支えはないだろう。へんなふうに取られることも、きっとない。
値段はピンからキリまで、有名パティシエが監修したもの、有名ホテルの名前が入ったもの、海外メーカーのものがあると思えば、一般企業がバレンタイン仕様に作ったものも並んでいる。結論として、なにを選択すればいいのか、住子にはわからなかった。
個人的に誰かに贈り物をした経験は、皆無に等しい。これは、祖父母への贈り物とはわけがちがう。
住子の眉間には、さらに皺が刻まれた。その近くを、買い物カゴを持った女性が通り過ぎる。ちらりと見えたカゴの中には、十数個のチョコレートが入っている。それは、さっき見かけた有名店の包装紙で、一箱が三千円ほどしていたはず。
同じものを複数購入しているということは、本命チョコというわけではないのだろう。配布用のチョコレートに対して、惜しげもなく数千円を投入できる金銭感覚は住子には持ちえないものだ。
ふと、考える。
相手はあの山田林太郎だ。芸能人で、人気がある男性となれば、当然ながらファンからチョコレートが殺到するのではないだろうか。
それでなくとも、周囲にたくさん人がいる。一般企業のいち部署に勤める住子とは、交友範囲が段違いだ。
安アパートで暮らす会社員が、太刀打ちできるわけがない。
すっと背中が冷たくなった。売り場で交わされている声が遠くなる。他の客の押されるように移動した住子は、結局なにも買わずにそこをあとにした。
肩の荷が下りたような心地で、薄暗い道を歩く。大通りから一本入ると、車の音が急激に遠のいて、静けさが逆に耳に痛く感じた。ふらりと立ち寄ったコンビニにも、小規模ながらバレンタインのコーナーが設置されている。なかば辟易としながらそこから目を剥がし、次に目に入ったのはデザート類のコーナーだった。
こちらでもバレンタインを協賛しているのか、定番商品をチョコレート味に変えたものがいくつも並んでいる。そのなかには、林太郎が好んで食べているプリンもあり、チョコレートとプレーンの二層となった特別仕様で売られていた。
すこし考えたのちにそれをカゴに入れると、レジへ向かった。
◇
どうしてこうも、タイミングがよいのだろう。
“今から帰るから、そっち寄ってもいい?”
携帯電話に受信された林太郎からのメールを見やり、住子はかたまった。来月にはツアーが再開され、関西、九州と続き、最終公演の東京まで駆け抜ける日程だときいている。そのため、林太郎とじっくり顔を合わせる機会は、今日が最後かもしれない。
普段の日ならともかくとして、今日はバレンタインなのだ。林太郎がなにかを期待しているとはかぎらないけれど、住子のほうはちがっている。
気恥ずかしさを心の奥に押しこめて、「どうぞ」と一言だけを送信した。
十五分ほどで、車の音が聞こえた。カツカツと階段をあがる音と重なるように、車が走り去っていく。近づいてきた靴音は部屋の前で止まり、扉がノックされる。
「すーみこちゃん」
楽しげな声が聞こえ、住子は脱力とともに玄関へ向かう。鍵をあけて扉を開くと、紙袋を携えた林太郎が立っている。廊下の光源を背後から受けて、赤茶けた髪がさらりと揺れた。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
応えて身を引くと、林太郎が入ってくる。外気温はかなり下がっているのか、コートから発する冷気が漂い、住子は身を震わせた。
林太郎は首を覆ったマフラーを外しながら歩き、定位置ともいえる場所に腰を下ろす。住子が手を差し出すと、着ていたコートを脱いで渡してくる。それを壁のハンガーに掛けていると、背後から林太郎が問いかけてきた。
「住子ちゃん、チョコレート食べる?」
「な、んで、チョコレートよ」
あまりのタイミングについ声が震えたが、林太郎のほうは気づかない様子で楽しそうに声をかけてくる。
「今日、バレンタインじゃん。現場で貰ってさ、持って帰ってきたんだけど、さすがにひとりじゃ消費しきれないし」
「山田くんにってくれたものでしょ。私が食べるのは失礼だと思う」
背中を向けていてよかったと、住子は思った。
いま自分がどんな顔をしているのか、あまり考えたくはない。こういう事態になるであろうことは予想していたことなのに、あけっぴろげな態度は今日にかぎっては妙に鼻についてしまう。
「俺個人にっていうよりは、現場に来てる男性陣みんなにーって感じで配られたやつ。既婚者も多いしさ、持って帰るの前提だよ」
「でも……」
「いってみれば、コミュニケーションの一環。誕生日にケーキ用意してくれたりするのと一緒なんだって」
振り返ってテーブルの上を見ると、住子が売り場で見たものより簡素な包装紙の箱が、いくつか置かれている。大きさから見て、三つから四つ入りのものがほとんど。あとは、透明なポリ袋に入った大量生産らしきチョコ味の焼き菓子が、机上に散らばっている。
「一緒に食べようよ」
時刻は八時過ぎ。遅い時間に甘いお菓子を食べすぎるのも問題だと思うけれど、住子は頷いた。
薄めに入れたコーヒーをすすりながら小振りな箱を開けると、一口大のトリュフがお行儀よく三つ並んでいた。ココアパウダー、ホワイトチョコ、パウダーシュガーに化粧されたそれらは、住子の目にはひどく高級そうに映ったけれど、林太郎はおかまいなしだ。なんのためらいもなくひとくちで頬ばり、コーヒーで流しこんでいる。
住子はといえば、ちいさく
(……高いチョコレートって、やっぱり美味しいものなのね)
真顔で堪能していると、コーヒーのおかわりを求めた林太郎が我が物顔で台所へ向かった。いつものことなので気にとめていなかった住子だが、冷蔵庫を開ける音に驚いて振り返る。
「ちょっと、なにして――」
「あ、プリンじゃん。しかも、特別版だ。なにこれ、どうしたの?」
手に持ってこちらをうれしそうに見る林太郎に、住子は口をつぐんだ。
「おいしそうだね」
「……あげるわよ」
「え、でもひとつしかないよ?」
「いいわよ、べつに」
もっと他に言い方はないのだろうかと情けなくなった住子だが、林太郎はといえば、声を弾ませる。
「マジで? やった! 住子ちゃんからバレンタインもらった!」
「た、たまたまよ。ちょっと目に入っただけ」
「うん、でも俺の好きなやつだから買ってくれたってことだよね?」
「――コンビニのプリンぐらいで、なによろこんでるのよ」
「値段は関係ないよ。住子ちゃんが俺にくれたってことが大事なんだから」
それだけで死ぬほどうれしい。
高級そうなチョコレートを脇にやり、ただのプリンをしあわせそうに食べる姿に、住子はなぜか泣きたくなった。
こんな気持ちは、初めてだった。
どうすればいいのか、わからなかった。
舌に残ったままのココアパウダーは、ほろ苦く咥内に広がった。
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