第25話 いまさら、なに言ってんだおまえ

 帰宅した住子は、自身の部屋の前に白い紙が落ちていることに気づいた。

 いつぞやの運転免許証を彷彿とさせるシチュエーションに、既視感を覚えて足を止める。それは、ハガキよりは小さく名刺よりは大きいサイズで、厚手のメッセージカードのような紙だった。

 玄関扉の隙間から差し込む形で、林太郎が時折メモを入れることがある。

 メールで済ませばいいようなものなのに、手書きのものを交わすことになにかこだわりでもあるらしく、同じことを住子にも促すのは正直面倒くさい。

 今回もそのたぐいのものかと考えたが、すぐに考えを打ち消す。林太郎はツアーのため、昨日から大阪へ行っているのだ。この紙は出勤するときには見かけなかったものだから、置いた人物が彼であるはずがない。

 住子はひとまず、それを手に取った。本当にただのゴミである可能性も、ないわけではないだろう。

 まっしろなカードだと思ったそれは、封筒になっているようだった。糊づけされて中身はわからないけれど、すくなくとも住子に宛てられたものではないことは見て取れる。

「……なにこれ」

 リンへ

 そう書かれた封筒を手に、住子は首をかしげた。



  ◆



 最終リハーサルを終えたあとの控室で、林太郎はスマートフォンの画面を眺めていた。表示されているのは住子の写真だ。以前、不意打ちのようにして撮影したものではなく、ここ最近のものである。

 ツーショット写真は断られてしまったけれど、お互いの顔写真ぐらいは持っておくべきだと主張し、林太郎は住子の、住子には自分の写真を撮らせた。不服そうな顔をしていたけれど、伯父さんへの証拠写真ということで納得させたのはいうまでもない。

 本当は壁紙に設定しておきたいところだけれど、さすがにそれははばかられた。うっかり誰かの目に止まってはまずい、という程度の気持ちは、林太郎とて持ち合わせている。

 三月も半ば。バレンタインから数週間は経過しているにもかかわらず、あの日の出来事は未だ林太郎の胸をそわそわさせる。

 外国の人はチョコレートにはこだわらないんでしょう? などと言われるけれど、日本で生まれ、日本で育った林太郎にしてみれば、バレンタインといえばチョコレートだ。小学生のころから、たくさんのチョコレートを貰ってきている。もっともそれは「かっこいい男子にチョコをあげる」というイベント的な動機のため、漫画にありがちな告白イベントは皆無。

 つまり考えてみれば、「好きな女の子からバレンタインに贈り物をもらう」というのは、二十六年の人生で初めての出来事だったのだ。浮かれないわけがないだろう。

 にへらと、だらしなく顔が崩れたとき、正面にいた慎吾がついに大きく息を吐いた。


「なにニヤニヤしてるんだよ、気持ち悪いぞおまえ」

「うっせーな」

 むっと口を尖らせたが、そのあとで顔を引きしめる。そして、なにか重大な告白をするかのような表情で、慎吾に告げた。

「あのさ……。俺、住子ちゃんのこと、好きみたい」

「…………」

 対する慎吾のほうはといえば、その言葉を耳にした途端、かたまった。自分が聞いたことを反芻し、林太郎の表情から嘘や冗談を言っているふうでもないことを受け取って、口を開く。

「……いまさら、なに言ってんだおまえ」

「いまさらってなんだよ!」

「いや、いまさらだろ。さんざんノロケておいて、なに言ってんだ」

「ノロケってなんだよ」

 憤慨する林太郎に、慎吾はひとつひとつあげていく。

 仕事で地方へ行くたび、真剣にお土産を吟味すること。

 時間があけば長電話。

 増えたメールの数。

 持参する手作りおにぎりの自慢。

「口を開けば、住子ちゃん住子ちゃんってうるさいくせに、好きみたいっておまえ……」

「お、俺だって、この前やっと好きだってわかったのに」

「アホだな」

 机に突っ伏して唸る林太郎に、慎吾は言った。

「なあ、写真見せろよ。どうせ撮ってるんだろ?」

「やだ。ぜってーやだ。見せない。減る」

「じゃ、今度ライブに呼べ。会ってみたい」

「それも絶対ダメだからな。おまえには会わせないし」

 どうにも頑なな林太郎に訝しんだ慎吾だが、以前のことを思い出して、ぽつりと呟く。

「あ、そっか。住子さんって俺のファンなんだっけ?」

「曲が好きっていうだけで、べつに慎吾おまえが好きなわけじゃないの」

「住子さんに同情するわ。よくおまえみたいなのに付き合ってくれるな」

 慎吾が呆れた声をあげると、林太郎は口をつぐんだ。

 山田住子という人は、とても辛辣な物言いをするけれど、それは人と距離をおこうとする心のあらわれだと思われる。その理由については、彼女の出生に起因していることがわかり、納得もいった。決して感情をおもてには出さず、表情が動くことはないけれど、ずっと見ていると気づくことはたくさんある。眉の動き、唇の動き、まばたき、目線。見つめていると、そこかしこに心の動きはきちんとあるのだ。

 だから知っている。住子がいつだって、感情を殺しているということを。

 つまり、自分のこともうざいと思っているけれど、我慢してくれているのかもしれないのだ。

「なー、慎吾」

「今度はなんだよ」

「どうやったら住子ちゃんに好きになってもらえるかなあ……」

「――付き合ってるんだろ?」

「ふり、だけど」

「…………本気で意味がわからん」

 たっぷり五秒は黙ったあとで唸りをあげた慎吾に、林太郎は住子の母親のことは濁しながら、経緯を説明しはじめた。



  ◇



 移動も含めて一週間程度、林太郎が不在となる期間、手紙らしき封筒以外にも、物が置かれることが増えた。

 それは203号室と204号室のあいだにあるため、一体どちらに宛てられたものなのか、判別がつかない。たとえ住子宛の荷物だったとしても、宅配便を使用していない時点で、触る気にもなれない。放置しておくといつのまにか消えており、それは誰が持ち去ったのかもわからないため、対処のしようがない。

 今日もまた、袋が置かれていた。紙袋というよりは、ラッピングされた贈り物めいたもので、ここまで連続するとさすがに気味が悪くなる。

 立ち止まって考えていると、同じフロアにある205号室の男性が帰宅してきたところに出くわした。このアパートには林太郎をふくめ、多様な住人が暮らしているが、彼は大学生である。引っ越しのあいさつをしてくれた際、彼の名前が「林田はやしだ」ということがわかり、顔と名前が一致する数少ない住人となった。山田と林田で名前が似ていることもあり、顔見知りといえる間柄だ。

「こんばんは。どうしたんですか?」

「袋が置いてあるんだけど、誰のかなと」

「見覚えは?」

「朝はなかったと思うんだけど」

「俺が大学行くときも、見かけた記憶はないっすね」

 講師の都合で休講となり、出かけたのは昼前だったらしい。となれば、昼から夜――現時刻である八時までのあいだに、誰かが置いていったことになる。

 林田いわく、最近この付近で不審者情報があるのだという。

 近くに友達が何人か住んでおり、そのうちのひとりが近くのコンビニでバイトをしているそうだ。小火ぼやが発生したり痴漢が出たりと小さなトラブルが続いているようで、注意喚起のポスターを掲示しているという。

「山田さんも気をつけたほうがいいですよ。俺なんか、ゴミ袋が開けられてましたし」

「そうなんですか?」

「女の人は、なおさら気をつけなきゃですよ」

 お互い、気をつけましょうという結論に至り、会釈をして住子は部屋へ入った。鍵をかけ、ついでにチェーンもかけておく。

 ひとりで暮らすからには、面倒でも必ずチェーンをしなさいと祖父母にいわれて実行しているけれど、これまでになにか危険を感じたことはなかった。癖のようになっている行動も、ついさっき聞いた噂を思うと、胸のうちがひやりとする。

 不審者情報なんてものは、よく耳にするものだけれど、自分とは関係のない場所で発せられるものだというイメージが強かった。

 近くで不審者が、などといわれたとしても、やはり実感は伴わないところだと思うけれど、頻発する「不審物」の存在が、住子をいままで以上に不安にさせた。


 住子がここで暮らしはじめたのは、二十歳のころだ。学生寮が完備された大学ではあったが、やはり人がたくさん集まるところは苦手だし、寮生活ともなればコミュニケーションが求められる。表情を殺して生きてきた住子にとって、それは難易度の高い行為だった。年齢の近い同性ばかりの空間は、いちど孤立すると取り返しがつかないことは、それまでの学校生活で身に染みている。

 祖父母を心配させたくなくて耐えていた寮生活は、祖母の「そろそろひとり暮らしでもしてみたら?」という言葉で、終止符をうった。

 おそらくは、見透かされていたのだろう。自分からは言い出せない――言い出すことは決してないであろう孫娘を思い、祖母は住子を蜘蛛の巣から救い出してくれたのだ。

 以来、ずっとここに住んでいるが、こんな事態は初めてだった。

 セキュリティなどないに等しいアパートだし、奥まった位置にあるため人通りが多いともいえない。廊下に人がいたところで、訪ねてきた客人かと思う程度で、それが不審者かどうかなんて、どこで区別をつければいいのだろう。

 廊下を歩く誰かの足音が、ひどく怖い音に感じられて、住子は情けなくなった。

(誰かが置き忘れただけかもしれないし、そもそも私にはたぶん関係ないし)

 いったい、なにを弱気になっているのだろう。

 頭を振って、住子は台所に立った。

 軽くおなかに入れて、そうしてさっさと寝てしまおう。どうせ、林太郎はいないのだから、夜遅くまで起きている必要はないのだ。



 翌朝には、例の袋は忽然と消えていた。

 まるであれが夢だったかのようで、自分の視覚を疑いたくなってきた住子の背後から、足音が聞こえてくる。

 怖々と振り返ると、歩いてきたのは住子よりも年下であろう女の子で、横を通り抜ける際にぺこりと頭を下げられた。向かった先は205号室。古めかしいブザー音を鳴らしたあと、彼女は中に向かって声をかけた。

「りんくん、迎えにきたよー」

 リン。

 最近、妙に身近になってしまった名称にドキリとする。

 205号室の扉が開き、まだ眠たげな顔をした林田青年がのそりと現れた。気の置けない態度から察するに、あの女の子は恋人なのだろう。

 しげしげと眺めるのも失礼にあたる。住子はそこから目を剥がして、自室へ引き上げた。そして、引き出しにしまってあった封筒を取り出す。

 最初に見つけた白い封筒。「リンへ」と書かれたそれは、ひょっとしたら林田宛なのではないだろうか。

 以前に聞いたことがある彼の渾名が、林田という字を読み変えた「リンダ」であることを思い出したのである。

 その日の晩、林田に事情を話して封筒を見せたところ、友達かもしれないということで受け取ってくれ、住子はようやく謎の手紙から解放された。



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