第29話 キスして、いい?
ふたつ並んだ洋室、その片方に案内された。
壁際にはシングルサイズのベッドが入っている。味気ないまっしろなシーツと布団カバーが目に眩しいのは、室内が空虚なせいだろう。
家具の
「なにもなくてゴメンね。もうひとつのほうは、もう俺の荷物が色々入っちゃってるんだ」
「泊めてもらえるだけで、じゅうぶんだから」
「またそういうことを言う。ここはこれから住子ちゃんの部屋になるんだからな。明日、用事ある?」
「とくには、ないけど」
「杉さんに頼んでるから、アパートに行って荷物持っておいでよ」
林太郎が仕事をしているあいだ、アパートから荷物を引き取ってくるつもりらしい。そのついでに、住子にも引っ越しをしろという。
本当に、本格的な引っ越しをするかどうかはともかくとして、たしかに今の荷物だけでは、この先いろいろと困りそうだった。べつに買い足してもいいのだけれど、部屋から持参できるのならばそれに越したことはないだろう。
いつのまにか九時になろうかという時刻だったが、大杉が買ってきたお弁当をダイニングテーブルに広げることにした。
高級そうな無垢材のテーブルに、チェーン店のお弁当はどうにも不似合いだけれど、林太郎がいると不思議と締まる。絵になるとは、こういうことをいうのだろう。
食器棚には、最低限の皿が入っていた。ガラスコップをふたつ取り出して、ペットボトルのお茶をそそぐ。入っていた割り箸を使い、向かい合って、冷えてしまったお弁当を食べる。
林太郎と食事をするのはいつものことだが、こんなふうに静かで無音の空間での食事は初めてで、どこか居心地が悪い。生活音が響くあのアパートが、急に懐かしく感じられた。
ゴミをまとめて袋に入れ、コップを洗って乾燥機へ入れたあと、ふたたびテーブルへ戻り、住子は訊ねる。
「山田くん、明日は仕事なのよね?」
「うん。住子ちゃんは休みだよね」
「週末でよかった。これで明日も仕事ってなると……」
「仕事に使うものとか、ちゃんと持っておいでよ。月曜日はここから出勤なんだし。あ、道の確認もしなきゃだよね」
「そうね……」
車で連れてこられたため、ここがどこなのか、まだよくわかっていない。聞かされた住所も、なんとなくこの辺り、といった曖昧な位置でしかなく、実際に見て歩いてみないことには感覚がつかめそうになかった。経路はもとより、出勤時間はきちんと把握しておきたいところだ。
思案する住子に対し、林太郎は声を弾ませる。
「日曜日の朝なら、ちょっとゆっくりできるんだ。確認がてら、デートしようよ」
「デ――」
「とりあえず、駅から家までちゃんと覚えてね。迷子になったら、俺に電話すること」
「……あなた、どうしてそんなにうれしそうなの」
普段、自分が優位になることが少ないせいなのか、林太郎はどこか得意げだった。
住子へなにかを説明できる立場になったことが、そんなにうれしいのだろうか。
しかし林太郎は、笑顔でこう答えた。
「だってデートだよ? 住子ちゃんと初めてのデートなんだから、うれしくないわけないだろ」
「そんなの、べつにいままでに何度も……」
「あれはお芝居の練習だろ。恋人として出かけるのは、全然ちがうし」
「こい――」
「あ!」
そこで急に大声をあげた林太郎が、背筋を伸ばして住子を見つめる。なにやら真面目な表情を見せ、そしておもむろに右手を差し出した。
「山田住子さん。俺と付き合ってください」
バカなの? という言葉は、口のなかで消える。そんなふうに返せる空気ではないことぐらい、恋愛に縁のない住子にだってわかった。
女の子からの声援を浴びることが多い林太郎だけれど、プライベートにおいては、どちらかといえば苦手にしているところがあるように感じられる。見目がいいゆえに、昔から「観賞物」扱いだったせいなのだろう。
だからこそ、そんな彼の言葉に戸惑い、動揺する。
慣れない雰囲気に呑まれて返答に
「俺がこんな仕事をしてるせいで、きっと住子ちゃんに迷惑かけるし、たぶんいやな気持になることもあると思う。でも、ごめん。それでもやっぱり俺は住子ちゃんがいいし、住子ちゃんが好き。大事にするから、俺の彼女になってください」
いつのまにか移動して、林太郎は住子の傍に膝をついていた。顔をあげると、自然と頭の位置が同じになり、青みを帯びた瞳と出合う。
この人は、本当に綺麗だ。
怖いぐらいに顔が整っている。
顔の良さを笠に着て、やろうと思えばなんだってできるだろうに、こうして住子に対して、不安そうに眉を下げているのだ。
なんてバカなんだろう。
どうして自分みたいな女に、そんなことを言うのだろう。
滲んできた涙を、林太郎の手がぬぐう。頬を包むあたたかで大きな手が、住子の心を溶かしていく。
差し出された手を取っても、本当にいいのか。
先のことなんてわからないけれど、今ほんのひとときの安らぎを求めてもいいのだろうか。
だけど、そうしてそれを受け入れたとして。いざ手放したとき、自分はまたひとりに戻ることができるのか。住子にはわからなかった。
「俺を、住子ちゃんの大事な人に加えてくれる?」
「……そんなの、とっくになってる」
ぽろりとこぼれた言葉は、すとんと胸に落ち、音を立ててはまった。
そうなのだ。住子にとって、心から大事だと思える人は祖父母だけで。なによりも大切にしたい人は、その二人だけだったはずなのに、知らないあいだに林太郎が居座ってしまった。圧倒的な存在感で、祖父母を凌駕する勢いで、大きく膨れあがって、いっぱいになってしまったのだ。
破顔した林太郎の顔が近づいて、こつんと額がぶつかる。触れ合った肌から、じわりと熱が伝わってくるなか、林太郎がそっと問いかけた。
「キスしていい?」
「…………っ」
「したい。キスしたい。ダメ?」
動揺し、答えられない住子に、林太郎の顔がすっと離れる。引いた熱に心が冷えたとき、大きな手が頬を包んだ。いつかのように眼鏡が外され、机に置かれる音を耳の端で捉える。
ふたたび近づいた林太郎の顔はすこし上に向かい、額にやわらかな感触が生まれた。そうして同じように、今度は目の端に唇が落とされる。右に左に、額に瞼に頬に目尻に、何度となく繰り返される行為に、身体のこわばりが解けていく。
いつしか瞳を閉じ、住子は林太郎の唇を受け止めていた。
ふと、ぬくもりがやみ、住子は薄く目を開ける。目前にある林太郎の瞳に、自分の顔が映っていることを、ぼんやりと認識する。
「キスして、いい?」
熱のこもった囁きにあらがう気持ちはどこかに消えてしまい、住子は知らず、小さく頷く。
ゆっくりと近づいてきた林太郎の顔を見ながら瞳を閉じたあと、唇にあたたかな熱が生まれた。
そっと触れるだけのキスを何度も何度も繰り返したあと、林太郎の手が背中にまわる。腕の中に抱きしめられて聞こえる鼓動の主は、自分なのか彼なのかわからないまま、住子はすがるように相手の背中に手をまわす。触れた箇所から伝わる熱で身体が溶けてしまうのではないかと思いながら、林太郎の胸に顔をうずめた。
なぜだかわからないけれど、涙があふれて止まらなかった。
◇
翌朝。殺風景な部屋で目覚めた住子は、身支度を整えてから部屋を出る。リビングに時計はなく、時刻を知るためにテレビをつけようとして、はたと止まる。他人の家だ。勝手な振る舞いは控えてほうがいいだろう。
もっとも、林太郎に言わせれば「ここは住子ちゃんの家でもあるんだからな」とのことだが、当然ながらそんなことは受け入れていない。
(……どう考えても、山田くんが暴走してるだけじゃない)
大きく息を吐いた住子の背後から、ドアの開閉音が聞こえた。振り返ると、髪を跳ねさせた林太郎がやや眠たげな顔をして歩いてくる。目が合うとへにゃりと顔を崩れさせ、「おはよう」と声をかけてきた。
「ゆっくり寝ててよかったのに」
「お邪魔してる身で、そんな呑気なことできるわけないでしょう」
「住子ちゃんらしいね」
湯を沸かして、インスタントコーヒーを入れているうちに、チャイムが鳴った。出迎えに行った林太郎とともに入ってきたのは、マネージャーの大杉だ。手渡されたコンビニの袋には、おにぎりとサラダが入っている。朝食にしろということだろう。
礼を言って、金額を訊ねる。そういえば、昨夜のお弁当だってご馳走になったままだった。合わせて支払おうとする住子に、大杉は手を振る。
それらの金は、林太郎が出しているものであるらしい。休憩時間などに買い物に行ってもらうことが多いため、マネージャーに一定額のお金を渡してあるのだそうだ。林太郎に関するものはその財布から支払われており、今日のように簡単な食事などを買ってくるのはいつものことらしい。
林太郎のことだ。住子がなにを言ったところで、受け取ったりはしないだろう。
さっそく朝食を取りはじめた林太郎の前に座り、住子はサラダの蓋を開けて差し出す。
「ちゃんと野菜も食べなさいよね」
「……はい」
背を縮め、やや不服そうに返事をする林太郎の声は、住子にとっては聞き慣れたものだが、もうひとりにとってはそうでもなかったらしい。離れた場所で待機している大杉の、吹き出して笑う小さな声が耳に届いた。
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