第30話 ひとつだけ忠告だ

 身支度を整えて、林太郎は出かけた。

 待ち時間は好きに過ごしていていいと言われたものの、なにもない部屋だ。すこし考えたのち、住子は林太郎の自室以外を見てまわることにした。

 手始めに覗いた台所にある嵌め込み式のオーブンは、非常に興味深い。正式な引っ越しはまだであるにもかかわらず、調理器具が一通り揃っているのは、事務所側があらかじめ手配したものなのだろう。

 ドラム式洗濯機があっても狭さを感じない、広めに取られた脱衣所。浴槽も大きく、これなら林太郎ぐらいの背丈があっても、ゆったりと浸かれそうだ。

 どこもかしこも真新しく、さわるのが怖いぐらいに綺麗な家。やはりどう考えても、場違いだ。

 動きまわることにも気疲れし、大杉が戻ってきたころには、ソファに座ってテレビをつけていた住子である。促されるままに車の後部座席へ乗り込むと、無言のまま元のアパートへ向かった。


 明るい日差しの下で見ると、焼け焦げた跡はどこか非現実で、まるでドラマか映画のようだ。特に誰かが見張っている様子もなく、立ち入りを禁じているふうでもなかった。土曜日ということもあり、休日の会社員も多いのだろう。一階の角部屋では玄関のドアが開いたままになっており、廊下には荷物がひとかたまりになって置かれている状態だ。

 大杉とともに二階へ上がった住子は、出会って以降、初めて林太郎の部屋を訪れた。

 家具の数は少なく、いささか生活感に欠けている。大杉が言うには、元からあまり荷物は入れていなかったし、新居を見つけてからはすこしずつ運び出していたらしい。細々とした日常的なものを残すばかりで、家具などは処分するつもりだったという。

 引っ越しの準備は、いつのまにか進められていたのだ。

 彼は本当に、あとほんのすこしでいなくなるはずだった。そんなこと、まったく知らなかった。気づかなかった。

 べつに自分に告げる必要なんてないはずだけれど、隠されていたというその事実が胸に重くのしかかり、唇を噛む。

 続いて、住子の部屋に移動した。見慣れた場所のはずなのに、いつもと違って見えるのはなぜなのだろう。

 火事という出来事は、思っていた以上に心を疲弊させているらしい。頭を振って憂鬱を追い出し、ひとつ息を吐いた。

 しかし、荷物をまとめようにも、いったいなにをどう整理しようか。悩む住子に大杉が問いかける。

「林太郎の言い分はともかくとして、おまえさん――いや、山田さんはどうするつもりだ」

「……このアパートに住むのは、無理みたいです」

「だろうな」

 管理会社に確認したところ、この機会に建て替える方向だという。取り壊し、部屋割りも見直す。これまでのような単身用ではなく、ファミリー層を見込んだ部屋を考えているらしい。現在の入居者は優先してくれるというが、悠長に待っている人はいないだろう。住子とて、そのひとりだ。

「ですから、早く次の物件を探さないといけません」

「つまり、林太郎の家に住むつもりはないと」

「あれはどう考えても無茶だと思いますが」

「だろうな。そこは冷静で助かった」

 脱力したように息を吐き、大杉は住子に向かう。

「まあ言わせてもらうならば、当面、あの家にいてもらうことになる」

「……理由をお聞きしてもよろしいですか?」

「いくつかあるが、一番大きいのは、林太郎のメンタル的な問題だな。あれはひどく単純な男だ」

「そうですね」

「今の状況であんたがいなくなると、あれは確実に崩れる。それは避けたい」

 大杉が断言し、住子は口ごもった。

 林太郎の思考が短絡的なことは同意するし、彼なりに自分を心配していることもじゅうぶんに理解した。けれど、こうして無事だったし、居場所さえはっきりしていれば、必要以上に心配することはないのではないかと思うのだ。

 すると大杉は首を横に振った。

「ここ半年ぐらいで、あいつは随分と変わった。あんたのおかげだろうよ。二十六の男に言う台詞でもないが、大人になった」

「あれで、大人になったんですか?」

 うっかり口をついて出た言葉に、大杉が笑う。なにがそんなにおかしいのか、身体をゆすり、しばらく笑いつづける。居心地わるく口元を結んだまま黙る住子に「すまん」と詫び、大杉はやや口調をゆるめた。

「声援を浴びること、目立つことを肯定しないとアイドルなんてもんはやってられん。そういった意味で林太郎は正しくアイドルなんだろうが、あれはどこか歪んでる」


 自分の顔を武器にそれを全肯定し、自分にはそれしかないと思っている。

 それと同時に、それらは「本物」ではないと思っている。

 一時的な熱であり、彼女たちにとって大切な唯一は、もっと他にあるのだと知っている。

 自分は虚構の存在で、現実リアルではない。

 芸能人で、そのなかでも「アイドル」という枠組みにある以上、そうであってしかるべきだが、林太郎が望むのは、自分自身を求めてくれる人なのだ。

 それは、ひどく矛盾した望みだろう。


「そこにきて、あんただ、山田さん」

「私はなにもしていません」

「だからいいんだろうよ。リンではなく、林太郎としていられる相手は貴重だ」

「……単に私が物知らずだっただけなんですが」

 フォレストを知らなかったから「リン」という存在も知らず、彼は最初から「山田林太郎」としてそこにあった。

 ただ、それだけだった。

「世の中のすべては偶然からはじまるんだ。そこからどうなるのかが、大事だろうよ」

「どうなるのか、ですか」

「もっといえば、どうするのか、だな」

 ずっと「なにもしない」ことを選択してきた住子にとって、自主的になにかをするという気持ちがわからない。しようという気持ちすら閉じこめつづけてきたため、なにかを欲する気持ちすら忘れてしまった。

「まあ、釘はさしておいたから、いますぐどうこうって話にならんだろうが、ひとつだけ忠告だ」

「――はい」

「寝るとき、部屋の内鍵はかけておけ。万が一にも殴るときは、顔は避けてくれると助かる。メイクで誤魔化すにも限界があるんでな」

 なんと答えていいのかわからず、住子は俯いた。



 林太郎の部屋用に準備してあったダンボールを分けてもらい、住子は着替えを主とした荷物を詰めた。

 一晩放置してあった冷蔵庫の中身は、処分するしかないだろう。冬場とはいえ、電源が入っていない状態で半日経過しているとなれば、悪くなっている可能性が高い。開封していない真空パックの製品は残し、使いかけのハムや冷凍していた肉はゴミ袋へまとめた。半分ぐらい残っている牛乳も、もったいないけれどシンクに流す。

「あの、大杉さん」

「なんだ」

「炊飯器、持って行ってもいいですか?」

「そういやあの家にはなかったか。好きにしてくれていい」

 備蓄してある食材も、ダンボールへ詰めていく。なんだか妙に所帯じみているうえ、ケチくさい気がして情けなくなるが、今夜からの食事を考えると、どうしたって必要なのだ。そうそう奢ってもらうわけにもいかない。

 また、いままでのように、毎朝お弁当を作るというわけにもいかないだろう。当分は、配達されるお弁当を注文するしかないかもしれない。

 生ゴミをまとめ、住人用に設置してあるゴミ置き場へ行こうとすると、大杉がついてきてくれた。見た目は恐いけれど、意外と親切な人なのかもしれない。

(……まあ、私を見張ってるだけかもしれないけど)

 逃げ出す気はないし、そもそも追われるようなことをした覚えもないけれど、今の住子は彼が担当しているタレントにかかわりのある人物だ。気にかけておく必要はあるだろう。

 通りすがり、つい癖になっているのか、廊下を検分する。以前に見かけたような紙袋や手紙のようなものはない。そういえば、あの手紙は結局、林田宛だったのだろうか。

「どうかしたのか」

「すみません、なんでもないんです。ただ、ちょっと……」

「気になるなら言え」

「――最近、この辺りでは不審者情報があって。ゴミを漁られたって人もいたし、廊下に見慣れない袋が置いてあったりして。確認するのが癖になったっていう、それだけです」

 火元となったのはゴミ置き場だったそうなので、二階に置かれていたあれらは、放火とは関連はないのか。一応、不審物の件は伝えたものの、状況は不明だった。

 不審者情報の件は大杉も知っていたらしく、だからこそ、林太郎の引っ越しを早急に進めていたらしい。

 車で運べる程度の荷物を積んで、住子は大杉とともに林太郎のマンションへ戻った。



   ◆



 林太郎は、朝からひどく上機嫌だった。いまにも踊り出しそうな空気を醸し出しており、慎吾は頭をひねる。

 昨日、住んでいるアパートで火事があったとかで、かなり慌てて帰ったはずだ。これでも一応、心配していたというのに、悲観した空気は欠片もなく、放つオーラは真逆である。

 あまり聞きたくないと思って触れないでおいた慎吾だったが、林太郎のほうから話を向けてきた。どうも、言いたくてたまらなかったらしい。

「あのさ、住子ちゃんと一緒に住むことにしたから」

「…………え?」

「だから、ほら、アパートが火事被害にあって、安全に住める状態じゃなくなったからさ。さっさと引っ越しすることにしたんだよ」

「それはわかったが、なんでそうなったんだよ」

 説明をすっ飛ばして結論から述べた林太郎に、慎吾は辛抱強く問いかけ、なんとか状況を聞き出すことに成功する。それによると、同じように寝る場所を失った「住子ちゃん」を、自宅マンションに連れて行ったのだという。

 焼け出され、行くあてもない隣人に、当面の宿を提供する気持ちはわかる。まして相手が想いを寄せる女性となれば、放り出す気にはなれないだろう。

 しかし、だからといって、いきなり同居に発展するところが理解できなかった。

 騙されているのではないか。

 この機会に乗じて、フォレストのリンに取り入って、押しかけ女房のような存在になろうとしているのではないか。

 一度だけ、電話を通じて話をしたことがある「住子ちゃん」がそんな人物だとは思いたくないが、林太郎の振る舞いはあまりにも軽率すぎた。

「言いたかないが、おまえ、それ大丈夫なのか?」

「そうなんだよ。他に住む場所探して出て行っちゃうかも。なあ、どうしたら住子ちゃん、俺の部屋にいてくれるかな?」

 慎吾の心配は、別方向で解釈された。しかもどうやら「住子ちゃん」は、今回の同居に納得しているわけではないらしい。

「――引き止めるのは無理なんじゃないのか?」

「なんでだよ」

「だっておまえ、同性だって気を使うところだろ。それなのに、異性の家に住むなんて」

「たしかに異性だけど、恋人だし」

「恋人のふり、なんだろ?」

 呆れたように慎吾が呟くと、はたと林太郎が固まった。しかし次第に顔がゆるみ、それでいて目が泳ぎ、ちらちらと慎吾を見ては恥ずかしそうに顔を伏せる仕草を繰り返す。おまえはどこの乙女だと言いたくなる妙にむずかゆい空気に、慎吾は察した。どうやらうまくいったらしい。

「……そっか。よかったな」

「うん」

「だとしても、やっぱり難しいだろ」

「住子ちゃんは遠慮しいなんだよ」

「おまえが遠慮をしなさすぎるんだろ」

 三浦慎吾は、山田住子に心底、同情した。



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