第10話 住子ちゃんは、俺のだよ

 正面に立つのはよくあることで、隣を歩くことも最近は増えた。

 だけど、うしろからこんなふうに見下ろすのは、初めてかもしれないと、林太郎は思った。

 住子が濡れてしまわないよう、小さな折り畳み傘を前へ差しかけると、さすがに背中がびしょ濡れだ。丈の短いパーカーから流れた雨粒は、おそらくジーンズを濡らしていくことだろう。帰宅するころには、下着までぐっしょりの可能性も高い。

 手にげた土産品が入った紙袋は、大気中の水分をたっぷりと含み、しんなりしおれて元気がない。

(それでもまあ、全身濡れネズミになるよか、マシだよなぁ)

 コンビニの外で咲いた小さな青い傘。

 その下に住子を見つけたときは、天の助けだと思ったものだ。

 目に入ったのは偶然。今回のシングルで赤と青を基調とした販促活動をおこなっていることもあり、林太郎は日常のなかでも、無意識に青色に反応してしまっている。

 そんななかで見出した青い傘の下にいたのが、住子だった。

 これもまた、神様が自分の味方をしているにちがいない。

 滞在時間などほぼない、移動が大半だった今回の店舗訪問。慌ただしいのはたしかだけれど、林太郎としては嫌ではなかった。地方に住むファンの声を直接聞くのは、ツアーとは違った喜びがある。

 ライブに来るのはどうしたって一部の層で、CDを購入する人たち全員が、高いチケットを買ってくれるわけではないだろう。

 会場へ行くまでに交通費がかかる場所に住んでいれば、行きたくても行けない場合もある。学生ならば、なおのこと。

 収容人数や集客力を鑑みると、開催場所は固定されがちであるため、たまに初めての場所でライブをおこなうと、ファンからよろこびの声が届く。それだけではなく、会場のスタッフからも歓迎される。そういった声を聞くと、林太郎はワクワクするし、活力が湧いてくるのである。

 今回の地方訪問も同じ感覚を味わえた。その地域に住む人によるなまの声は、気持ちを高めてくれる。

 ふんわりと残る高揚感のまま、どんな行程だったかを語るこちらに対し、住子はいつもどおり淡々と返事をする。最初は歩きにくそうにしていたが、十数メートルも進むころには慣れたらしい。一定の速度で進むにつれて、林太郎の胸元あたりで頭が動き、ひとつに結わえた髪がしっぽのように揺れている。

 梅雨時期特有の湿り気を帯びた空気のなか、鼻先に香るにおいは、住子からくるものだろうか。

 通り過ぎる車の音がうるさく、聞こえづらくなった住子の声を求め、林太郎は前かがみになる。自然、背後から耳許へ顔を寄せる形となり、香りが強くなった。

 肌から発せられるぬくもりが感じられるいつもとは違う距離に、すこしだけ緊張する。

「――な、なによ、急にっ」

「いや、聞こえなくて」

「だったら横にくればいいじゃない」

「濡れるっしょ」

「傘ぐらい買えば?」

「買ってもあんま使わないんだよ」

 移動は車が基本だし、雨天の撮影となればスタッフ側がテントを張る。自身で傘を持ち雨露をしのぐなど、めったにあることではない。

 最後に傘を買ったのはいつだったか。

 そもそも、今の家に傘があるかどうかもさだかではないときている。

「大きいの買って、住子ちゃんに置いておいてくれる?」

「なんでよ」

「置き傘ってことで」

「意味がわからない」

「一本あれば、出かけるときに便利だろ?」

「どうして別々の傘を使うっていう発想がないの」

「キミと相合傘がしたいから」

 そっと耳許で囁くと、驚いた住子が林太郎へ顔を向ける。思った以上に近くにあった顔に驚いたらしい住子は、咄嗟に距離を取ろうとして離れる。

 ぐらついた彼女の身体を手を伸ばして支え、林太郎は安堵の息をついた。

「住子ちゃん、大丈夫?」

「ごめん……」

 だが住子は俯き、そして、水たまりと化したアスファルトに倒れた紙袋へ手を伸ばす。しっかりと水の上へ落ちてしまったそれは、今となっては手提げ袋とはいえない状態になっていた。

 底が抜けないように抱え持とうとする住子を、林太郎はあわてて止める。

「俺が持つからいいって」

「でも、私のせいだから」

「中身はちゃんと袋詰めしてあるから、大丈夫。でも、ごめん。それお土産だったんだけど、渡せなくなっちゃったね」

「いいわよ、そんなの気にしないから」

「俺が気にするの。住子ちゃんには、綺麗なものをあげたいんだから」

「べつにいらない」

 ぴしゃりと断じる住子の弁は、冷たい雨のように冷え冷えとしている。

 けれど彼女のそれは、迷惑だと否定するものではなく、自分に気を使う必要などないと、遠慮する気持ちからくるものなのだと、林太郎は最近わかってきた。

 山田住子という人は、硬い表情の中に柔らかな心を持っているのだ。なぜか、それを隠そうとするけれど。

 だから林太郎は、気づかない振りを装って、自分の気持ちを押しつけることにしている。

「俺が住子ちゃんにあげたいから買ってきたの。気にしなくていいのに」

「――バカなの?」

「知ってるか? バカっていうほうがバカなんだぞ」

「子どもの理屈ね」

 ぎゅっと寄せられたままだった眉根が、ふっとゆるむ。

 跳ねる雨粒は勢いを失い、いまやぽつりぽつり、一拍二拍と間隔を空けたリズムを頭上で刻んでいる。帽子があれば、もう傘の必要はないかもしれない。

 住子から荷を奪うように引き取ると、青い傘を返却する。

「あともうちょっとだし、傘は返すよ」

「風邪ひいたらどうするのよ」

「いい男は風邪をひかないの。ほら、水も滴るいい男っていうだろ?」

「それ、風邪とは全然関係ない言葉」

「あれ? そうだっけ? なんとかは風邪をひかないって、たしか――」

「そうね、あなたは風邪をひかないかもね」

「誰がバカだって?」

「知ってるんじゃない」

「ボケたんだから、ちゃんとツッコミを入れてくれないと」

 わかってねーなー、住子ちゃんは。

 林太郎が口を尖らせて文句を言うと、嘆息した住子が口を開いた。

「我儘がすぎるのよ、バカ太郎」



   ◇



 アパートに据え付けられた鉄製の階段は、長年の雨に打たれたせいか錆だらけだ。時折ペンキが塗られてはいるが、ステップ部分は劣化が激しい。ところどころに穴が開き、階段の下は雨漏り状態である。

 カンカンと響く音が、違うリズムでふたつ重なる。

 背後から聞こえる己とは違う重い音に、住子は肩をすくめた。

 結局、林太郎は濡れてしまった紙袋を抱えたので、水色のパーカーには黒い砂が付着している。乾いてしまえば叩き落とせるたぐいのものだけれど、汚れは汚れだ。自分のせいかと思うと、気が重い。

 雨は細く、霧雨の様相をていしてきた。

 畳んだ傘から落ちる雫が、廊下に跡を残していく。

 前後に並んで辿り着いた203号室で、二人は足を止めた。

「着替えてから行くね」

「わざわざ来なくても……」

「え? じゃあ、住子ちゃんが俺の部屋に来てくれたりする?」

「どうして私があなたの部屋に行くのよ」

「たまには逆もいいじゃん」

 林太郎が部屋を訪ねてくることには、いつしか慣れてしまった。歓迎しているわけでは決してないけれど、以前ほどの緊張感はない。

 だが、誰かの家――他人の生活空間へ足を踏み入れることは、躊躇してしまう。

 押し黙った住子に林太郎がなにを感じたのかはわからない。

 いつものように微笑んで、「じゃー、あとでね」と言うと、隣の扉を開けて姿を消す。

 とりあえず自分も着替えてしまおうと、住子はカバンの内ポケットから鍵を取り出した。



 雨が降ると、部屋中がしっとりとする気がする。除湿機を稼働させても、正直あまり実感は得られないところだが、ないよりはマシだと思っている。

 部屋着になり、湯を沸かす。

 雨のせいで、すこし肌寒い。自分がそうであるなら、林太郎はもっと冷えたのではないだろうか。

(身体が資本のくせに、やっぱり考えなしだわ、あの人)

 シュンシュンと蒸気を噴くころ、ノックの音がした。

「住子ちゃん、入ってもいい?」

「どうぞ」

「お邪魔しまーす」

 ラフな服装に姿を変えた林太郎が、いくつかの袋を抱えて入ってくると、まっすぐにリビングへ向かう。

 敷いてあった座布団に腰を下ろすと、大きく伸びをする。そして、そのままゴロリと転がった。

「あー、つかれたー」

「だったら部屋で寝なさい」

「お土産を渡しとこうと思ってさ」

「そんなものは、明日でもいいでしょう?」

「明日は明日で、朝から仕事なんだよ。こっちでのプロモーション活動があるの。遅くなるだろうし、そうしたら会えないじゃん。今日はほんとラッキーだった」

「あの小さな傘でラッキーって」

「そっちじゃないよ。住子ちゃんに会えてうれしかったってこと」

 また、そういうことを……

 言いかけて、住子はテレビで見た映像を思い出した。

 俺もみんなに会えてうれしい。

 店に集まった女の子たちに、そう言って微笑んでいたリン。

 今の言葉も、それと大差ない。

 傘を持った知人がいて助かった、お土産を渡すことができてよかった。

 タイミングが合ったことで、用事がすんで、手間がはぶけた。

 そう考えるとたしかに「ラッキー」なのだろう。いそがしい芸能人にとって、時間は惜しいにちがいない。

 だけど――

「お土産は受け取る。だから、はやく部屋に戻りなさいよ」

「……冷たい」

 顔を覆って泣く振りをする林太郎を見やり、住子は歯噛みする。

 べつに邪魔だと言いたいわけではなく、疲れているのであれば、自分の部屋でゆっくり休んでほしいと思うだけだ。

 東海・近畿・中国・九州と分刻みで移動して、ついでとばかりに九州方面で仕事をしてから飛行機で東京へ。

 出不精の住子には想像もつかない行動だ。自分なら、夕食を作るのも面倒で、さっさと寝てしまうことだろう。

 考えこんで眉を寄せる住子に対し、顔をあげた林太郎は微笑んだ。

「大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて」

「…………」

「中継地は時間なくてさ、九州のお土産ばっかりでゴメン。これ、カステラのラスク。激ウマだったの。食べて。そんで――」

 注釈を加えながら、ひとつひとつテーブルへ並べていく。

 ひとり暮らしの女性に渡すにしては、多すぎる量だ。日持ちするものはともかくとして、生麺のラーメン三食セットはいやがらせとしか思えない。

 最後のひとつを説明したあと、次に林太郎が取り出したのは、CDだった。

 各所で目にするフォレストの新譜。ビニール包装されており、店で売っているものと同じように見える。

「これも、プレゼント」

「――いらないわよ」

「まー、そう言わないで」

「貰う理由がない。買うならまだしも……」

「買ってもいいって思ってくれたんだ。やべー、超うれしい」

 破顔した林太郎が近寄ってきて、住子の両手を包んで上下に振る。

 熱烈な握手の仕方に、たじろいでしまう。

「完成したら各所に配るし、俺も慎吾も何枚か貰うんだ。部屋に置いておいても仕方ないから、住子ちゃんが持っててくれたら、うれしい」

「……わかった。ありがとう」

「うん。あと、これも」

 一緒に渡されたのは、林太郎――というか、リンの顔がプリントされたシールだ。モノクロ画に青い瞳が映えているが、ジャケット写真とは顔の向きが異なっている。

「なに、これ」

「初回封入特典のステッカー。二人組の写真とそれぞれ単体の写真、三種類がランダムで入ってる。どれが入ってるかはわからないから、俺のを渡しとく」

「それは開ける楽しみというか、意味がないんじゃないの?」

「だって、もし慎吾の写真だったらどーすんだよ」

「どうもしないわよ。ああ、こっちが当たったのね、ぐらいで」

「ダメ。住子ちゃんは、俺のだよ」

「駄目って言われても……」

「開けてみて」

 包装を取り払って、ケースを開ける。

 二つ折りになったジャケットを抜き取ると、挟まっていたお知らせの紙とともに同梱されている一枚のステッカー、青い瞳と対面した。

「当たりだね、住子ちゃん」

「どういう判定基準よ、それ」

 正直なところ、二枚もいらない。

 というか、ステッカー自体、必要ない。

 そう言ってしまってもいいのだけれど、ご満悦の林太郎を見ていると、気持ちも失せてくる。

 まったく本当に、この人はあの「リン」なのだろうか?

 住子のなかで、「アイドル」という単語がもたらすイメージが崩壊していく。


 窓を叩く雨音が聞こえる。

 ふたたび雨が降りはじめたらしい。買い物に行くのも面倒だし、今日の夕飯はあるもので済ませよう。

 机の上に並べられた土産物の中から、ラーメンの箱を取り上げた。

 今日はこれでいいことにしておこう。

「山田さん。ラーメン、食べていく?」

「俺も食べていいの?」

「三食も買ってきてなに言ってるの。消費するの、手伝いなさい」

「ラーメンどんぶり持ってくるよ」

 林太郎を見送って、住子はテーブルを片付ける。

 冷蔵庫にモヤシが残っていたはずだから、それを全部食べてしまおう。作り置きのゆでたまごは、輪切りにして載せる。たしか冷凍庫には、刻みネギもあったはず。

 自分以外の誰かにご飯を作るなんて、随分と久しぶりだった。

 胸の内がもぞもぞする住子の耳に、玄関を開ける音が聞こえる。

「なあ、ハムのブロックがあった。これも入れようぜ」

 焼き豚もどきにしてやるか。

 住子はフライパンを取り出した。


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