第11話 他人の眼鏡って、どうやって外すんだろうな
基本的に独立した形を持ち、各人物における横のつながりは存在しないドラマ『恋模様』だが、同企業を舞台にした物語はいくつか作られている。劇中で企業名は明確になっていないが、制服や小物などが同一であるため、視聴者の間ではシリーズものとして位置付けられていた。
オフィスシリーズと呼ばれるそれに、林太郎も加わることになったのはいいけれど、会社員というものがよくわからない。
林太郎の実家は自営業だ。祖父が興した輸入雑貨の店を母が継ぎ、父は公務員。姉が家を手伝っているため、身内に「会社員」がいないのである。
「だから、頼みの綱は住子ちゃん。よろしくお願いします、住子大明神さま」
「やめてよ、その言い方」
むっとした顔つきの住子が、氷の入ったアイスティーに手を伸ばす。
土曜の午後、夕方まで時間が空いている林太郎は、いつものように住子の部屋にいた。
梅雨もあけて、日中の温度は上昇気味。エアコンをかけていても、喉が渇く。持ち込んだ昼食を食べ終え、買ってきたデザートは冷蔵庫の中。となれば、やることは台本チェックである。
今回、林太郎が演じるのは、舞台となる会社の海外支社から応援にやってきた帰国子女の社員だ。
慣れない社内を歩いていたとき、派手系の女性社員集団に、一人の女性が囲まれている場に遭遇する。眼鏡をかけた地味な女性が、今回のヒロイン。なにも言い返さない彼女が不思議で、男は女に興味をもつ。
そうやって彼がかまうことによって、さらにヒロインは周囲から疎まれ、そんな彼女を庇うことによって、女性間の軋轢はいっそう深くなる。
もう自分にはかまわないでほしい。同情もいらない。それとも、ちょっかいをかけて楽しんでいるのか。
追い詰められたヒロインは、涙まじりに彼に詰め寄り、そこでようやく彼は自分の気持ちに気づくのだ。
住子は言った。
「迷惑な男ね」
「うん。住子ちゃんなら言うと思った」
「だってそうじゃない。彼のおかげで、主人公はますます孤立するわけで」
「一応擁護するけど、この男は、純粋に、主人公のことを気遣ってるんだよ?」
「つまり、空気がよめてないということね」
「日本人からみれば、そうかもね」
あまり近しくはないが、祖父の縁で海外とも一応つながりはある。実家の稼業で海外に買い付けに行くことが多い姉は、もっと密接なかかわりがあるだろう。家族の中で一番「日本」に浸かっているのは、実は林太郎だった。
「最後はさ、ちゃんと気持ちを伝えて、みんなの前で宣言するわけじゃん。主人公をいじめてた女性社員が、キーってなるわけだけど、女子的にはこれってどうなの?」
「迷惑ね」
「あいかわらずバッサリだね」
「考えてもみなさいよ。この男は応援で来ているだけなのよ。いずれ戻るわけでしょ。そのとき、残された彼女はどうなると思ってるの」
「俺もそれは思う。こういうのって、残されたほうが地獄だよな」
なんとなく沈黙する。汗をかいたガラスコップを持ち上げて、林太郎は薄まったアイスティーを飲み干した。珪藻土のコースターは、コップから滑り落ちた水滴を吸収し、瞬く間にその跡を消す。
住子がこちらに手を伸ばした。
林太郎がコップを手渡すと立ち上がり、台所へ向かう。製氷皿から氷を取り出す姿を見ながら、台本をめくる。
住子が指摘したとおり、林太郎演じる
だが、ヘイトを集める役まわりである女性社員たちがやりこめられる展開は、ドラマとしては必要不可欠。視聴者の留飲を下げるための通過儀礼だ。物語は「恵美は僕の大切な人だ」という宣言で終結するが、現実はそこでおわりではない。このあと、残された恵美が気の強い集団に立ち向かえるとは思えないし、それができるぐらいなら、最初からこんな立場にはなっていないだろう。
「まー、フィクションの世界ぐらい、しあわせに終わりたいよね」
「――そうかもね」
戻ってきた住子から、新しいアイスティーを受け取って、机に置く。そして、脚本を広げて、住子へ向けた。
今回、重要になるシーンのひとつが「彼女の眼鏡を外した顔に見惚れる」というもの。叩かれたらしい頬を隠そうとする恵美を壁際に追い詰め、彼女の顔から眼鏡を取り、互いに初めて近くで向かい合う、そんな場面。
脚本を読んだとき、真っ先に住子の顔が浮かんだ。マンションの隣人ネタに続く、ベストマッチしたシチュエーションである。
「他人の眼鏡って、どうやって外すんだろうな」
「知らないわよ」
「俺も知らない。だから練習させて」
まわりこんで住子の隣に座ると、肩に手を置いて正面を向かせる。
対する住子はどこか複雑そうな目をして、林太郎を見上げた。
黒色のフレームは無骨で固い印象を与えがちで、女性が使うのであれば、どこかにワンポイントとして色が入っていたりするものだろう。けれど、住子のそれは、ひたすらシンプルに黒一色。細くも太くもない、なんの特徴もない無個性なデザインだ。
初めは「野暮ったいし、地味で暗くて、古くさい」と思っていたが、今はこれが山田住子だと思っている。どんな眼鏡をかけていようと、住子は住子なのだ。
「……なによ、黙りこんで」
「いや、どこを持とうかなって」
苦笑いでごまかし、林太郎はひとまず顔の中心――、眼鏡のブリッジを摘まもうと手を伸ばした。鼻筋が通っていて、形も良い。住子は意外と綺麗なパーツをしてるのではないだろうか。
片方の手だけを使い、人差し指と親指でブリッジを掴むと、そのまま前へと引き寄せる。
しかし、つるの先にある曲がった先端部分が耳に引っかかり、そこで止まってしまった。
中途半端に外れて、斜めになってしまった眼鏡。それをかけなおしながら、住子が呟く。
「失敗ね。それに、なんか、目潰しでもされる気分になってこわい」
「あー、たしかにそうかも」
目と目のあいだにあるブリッジ。そこへ指が向かってくる状態は、心情的によろしくなさそうだ。
となればやはり、両側の
今度は両手を顔の横へ。ヒンジを超えて、こめかみ辺りでつるを摘まむとき、住子の黒髪が指先に触れた。己のそれとは違う感触に、動揺が走る。
(いやいや、髪の毛ぐらい、いまさらどうしたっていうんだよ)
そのまま持ち上げる。軽く外方向へ広げてからゆっくりと引き抜くと、つられて横髪が乱れた。いつもきちんとまとめてある髪がほつれた姿に、妙な背徳感を抱く。
眼鏡が外れる直前、反射的に瞳を閉じた住子が恐々と薄目を開けると、林太郎の顔へ焦点を合わせる。
対面で話すのはいつものことだが、この距離にまで近づいたことはなかったかもしれない。
まして、眼鏡を外した「素顔」の住子は、初めてだった。
ついさっき、なんとなく思った鼻の形だけではなく、瞳の形、大きさ。盛り上がった頬骨からつづく、なだらかな頬。ほっそりとした顎。形の良い唇はふっくらとして、ほんのり色づいてこちらを誘う。紅いルージュも美しいけれど、自然に近い肌を彩る薄い紅のほうが、住子には似合っている。
右手をそっと伸ばし、彼女の頬に触れる。あたたかくてやわらかい、吸いつくような感触を味わいたくて、親指でこするようにして何度か撫でる。モチモチしていてフニフニしていて、とてつもなく気持ちがいい。
住子の口元が引き結ばれる。眉根が寄り、不服そうな顔つきだ。
林太郎は気にせず、続ける。親指は頬骨のあたりに、人差し指と中指で耳たぶを挟むようにして、頬全体を包む。
「……かわいい。いつもそうしておけばいいのに」
「そんな台詞、あったっけ?」
「――あ」
「あ、じゃないでしょ」
「ごめんごめん。キミの素顔に見惚れたんだよ」
「バカなの?」
住子の呆れ声は変わったところもなく、林太郎は微笑みを顔に張りつけて、内心で汗をかく。
頬に当てていた右手をうしろにまわして握りこみ、さきほどまでの感触を殺した。
(……俺、なに言ってんだ?)
唾を呑み、深く息を吐くと、住子へ問うた。
「住子ちゃんって、目悪いの?」
「眼鏡をかけてる人間に訊くことなの、それ」
「いやだってさ、眼鏡してないけど、見えてるっぽいし」
「――免許証を更新するには眼鏡が必要なレベルよ」
「それって、日常生活ではかけてなくてもいいってふうに聞こえるけど……」
「よく見えるに、こしたことはないでしょ」
そう言ってテーブルに置いた眼鏡に取ろうとしたので、住子の腕を掴んで止める。
「なによ」
「続き、やろうよ」
「べつに眼鏡しててもいいじゃない」
「ダメ。恵美が眼鏡を外しているシーンなんだから、住子ちゃんもそうするんだよ」
「面倒くさい」
「まあまあ、俺の顔に免じて許してよ」
「どういう理由よ、それ」
林太郎は、眼鏡を住子から遠い位置へ置き、台本を二人のあいだへ置いた。裸眼で読めるだろうかと不安に思って見ていると、住子は眉を寄せ、しかめっ面をつくっている。おそらく、焦点を合わせようとしているのだろう。
眼鏡を外したら美女だった――というのは使い古されたネタではあるけれど、シチュエーションドラマとしては有用な設定といえる。短い時間でわかりやすくがモットーだからだ。
ヒロインを務めるのは、一期から出演している二十四歳の女優。清潔感のある雰囲気で、最近では清涼飲料水のCMで人気を集めている。彼女ならば、眼鏡によるビフォーアフターを効果的に演じられるだろう。
今回のメインともいえる眼鏡のくだりは、会社の書庫でおこなわれる。
「書庫って図書室みたいなとこだよな?」
「すこし違うと思う。会社で書庫っていうと、資料を保管している場所をさすほうが多いし」
ハンドル式の書架に並べられるパイプ式ファイルや、フラットファイル。企業における「書庫」とは、そういった場所をさすのが一般的だろう。脚本を見るかぎりは、一定の間隔を持って据えられた棚が並ぶ場所――どちらかといえば資料室や倉庫といった要素のほうが大きそうだ。
ドラマは、棚をひとつ挟んだ向こう側から、覗き見をするような雰囲気を漂わせながら、繰りひろげられる。書架を壁のように見立てた「壁ドン」があったり、座り込んだ恵美を腕のあいだに囲い込んだりといったやり取りだ。
最初はただ、落下物から彼女を守るために手をついた状態が「壁ドン」に近い体勢になったにすぎないし、床に座り込んだのは、足元を転がったなにかに驚いただけ。
意図したものではなく、偶然の体勢。
そんな雄一郎の接近に、恵美は戸惑い、反発する。
「助けたのに怒られるって、雄一郎は悪くなくね?」
「普段の態度が問題なんじゃないの? 嫌がってるのに声かけてくるとか、恵美にしてみたら迷惑じゃない」
「イヤならイヤって――」
「言えない性格なんでしょ、恵美は」
「……雄一郎と恵美って、全然合わないよな。なんで付き合うことになるんだ?」
「あなたがそれ言ったら駄目でしょうに」
林太郎は考える。
雄一郎はなにがしたかったのだろうか。
書庫でふたりきりになって接近して接触して、そして素顔を見て、ついでに恵美になじられた結果、彼女が好きだと自覚する――
「やっぱ、顔が好みだったのかな?」
「――あなた、本当に恋愛モノに向いてないわよ」
嘆息した住子。以前にも言われたことだが、改めて非難されて、林太郎は腹が立つ。
だが彼はポジティブだった。
わからないなら、わかるように練習するのみだ。
「住子ちゃん、こっち来て、ここ座って」
壁際に移動し、床を手で叩いて示す。
億劫そうな住子を手招きし、壁を背に座らせたあと、林太郎は両手を壁に突き立てて、住子を腕の中に囲い込んだ。
普段は胸元にある住子の頭が、今は顎の下あたりにある。相手役の女優の身長がいくつかは知らないけれど、映像で見たかぎり、さほど高いわけではなかったはずだ。住子と同程度と想定する。
うつむいた恵美の耳許に唇を寄せ、雄一郎は囁く。
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