第12話 ああ、例のお隣さん
「君の力になりたい。俺に守らせてくれないか?」
かたくなな彼女の心を溶かすように、甘く、柔らかく声をかける。
流れ落ちる前髪が顔を隠し、雄一郎の表情は見えない。ただ、寄り添うように囁く声だけが、恵美の耳の中にすべりこんでくる。
「恵美」
「……そんなふうに呼ばないで」
かすれた声。
恵美は苦しそうに
「どうして」
揺れる髪の一房を取り、指を絡める。癖のないまっすぐな黒髪は、窓から射す光を受けて輝いた。
恵美が顔を引いたのか、雄一郎の指にわずかな抵抗がうまれる。するりと抜けていく髪が名残惜しくて、今度は彼女の肩を掴んで引き寄せた。
「なぜ逃げるんだ」
「…………」
振りほどこうとした恵美の顔から、眼鏡が落ちる。
それすら気づかないように、雄一郎を見上げた恵美は、悲痛に満ちた声をあげた。
「もう私にかまわないで。同情もいらない。それとも、ちょっかいをかけて楽しんでいるの?」
乱れた髪と、目尻に浮かぶ涙。
恵美の言葉が雄一郎の胸に突き刺さる。
「――ちがう、そんなふうになんて、思っていない」
形のよい眉を寄せて、雄一郎は苦痛の表情を浮かべた。
「どうして、あなたがそんな顔をするのよ」
泣きたいのはこちらのほうなのに――と、一筋の涙をこぼした恵美を力強く抱き寄せて、雄一郎は己の気持ちを吐息とともに囁く。
「愛してるって、日本人はあんま言わないよな」
「おまえはMCでよく言ってるけどな」
慎吾の弁に、林太郎は振り返って考えてみる。
ライブに来てくれたお客さんに対しての挨拶のようなもので、そこに深い意味はない。
場の雰囲気、一帯となった高揚感から生まれるリップサービスのようなもの。
それはおそらく、観客だって同じだろう。愛は愛でも、彼女たちが自分へ向けるのは、恋愛感情ではないと知っている。
主に高校時代、騒がれることはあっても、それは「見た目」に対する称賛であり、山田林太郎という個人に向けた感情ではなかった。珍しい動物に騒ぐミーハー心理と大差ない。
そのことを、林太郎はよく知っていた。
「だってさ、俺が俺の顔で愛してるよって言ったら、みんなよろこぶわけで、フォレスト的には必要じゃん」
「それがおまえのキャラだって言えばそうなんだけど、
戻ってくることのない愛情。
かりそめの言葉を繰り返すのは、時として虚無感を伴うのではないだろうか。
慎吾がそう声をかけると、林太郎はからりと笑って否定した。
「無理はしてないよ、声援あびるのは楽しいし、うれしい。気持ちいい」
「そこまでいくと、ちょっとどうかと思うが」
「慎吾までそんなこと言うのかよ」
「俺までって、他の誰かに言われたのか?」
「こないだ、住子ちゃんがさー」
「ああ、例のお隣さん」
先日撮影が終了した、イケメン帰国子女と眼鏡女子の恋模様。
壁を背にして腕で囲い、林太郎はひたすら住子に愛を囁きながら、芝居の練習を重ねたわけだが、「うさんくさいし、疲れた」と住子は肩を落としていた。
うさんくさい理由は、愛しているという言葉が薄っぺらいからだというのだ。
「仕事上ではよく使うし、言い慣れてるし、言ったらよろこばれるから普通に言うよって話したら――」
「そらー、女の子にしてみりゃ、うさんくさいって思うだろ」
「なんでだよ。仕事なのに」
「仕事とわたし、どっちが大事なのーって。よく聞く台詞だろ」
「住子ちゃんは、そういうタイプじゃないよ。恋愛より仕事ーってかんじだし」
色恋とは無縁そうな山田住子を思いだして、林太郎はしみじみと頷く。
自分はつくづく恵まれている。幸運だ。本名を知っても態度がかわらず、普通に接してくれる異性は、親族以外では初めての存在なのである。今後も大事にしなければならない。
事務所へ向かう途中の道、移動の車中でそんな会話をしていると、運転中の大杉が低い声で注意をうながす。
「林太郎、わかってるとは思うが――」
「ちゃんと注意してるって」
「おまえの言い方って、どこか信用度が低いよな」
「慎吾までひでー。俺だって、好きでそうなったわけじゃないし」
「調整がつくまで、もうすこし待て」
「杉さん、俺もうすぐ誕生日で、二十六歳だよ? アパートのひとり暮らしぐらい、普通でしょ」
「おまえは時々、芸能人だという自覚が薄くて、おそろしいよ、俺は」
「意外とバレないよ? 困るのは、別の事務所のスカウトマンにつかまることぐらいで」
帽子をかぶって眼鏡をかけて、軽く変装していたとしても、林太郎の背丈と体格は人目を引く。モデルに興味はないか――と声をかけられることは、今でもわりとあることだった。
そんなときは、すでに所属しているのだといって、大杉の名前を出すと、大抵の人間は青ざめて慌てて引いていく。
杉さん、こえぇ……。
彼の影響力は、とどまるところをしらない。
「だいたい、付きまといに気をつけろっていうわりに、この前は、一人で帰れとかいうし」
「途中までは慎吾を付けただろ」
「え、慎吾ってそれで一緒にいたの? こっちに用事あるって嘘だったの?」
「おまえは時々、驚くぐらい素直だな」
慎吾は苦笑し、大杉は笑った。
◇
住子が勤める会社は、大手企業の子会社である。
先月、林太郎とおこなった「練習」は、外資系の会社が舞台だった。ゆえに、あんなドラマのような出来事は、日常の中では起こらない。閉じ込められるような会議室はないし、オフィスは親会社所有ビル内の間借りである。
いくらかは知らないが、家賃が存在するらしい。おそらく、普通に賃貸で借りるよりは安いのだろうと思われた。
世間でいうところの「社食」もなく、外に食べに行く人もいれば、自作の弁当派もいる。配達の弁当会社も入っていて、一ヶ月の献立を見て注文を入れる男性も多かった。
住子は自作したり、コンビニで購入したり、配達弁当を注文したりと、さまざまだ。鈴木優子は自作弁当派で、旦那さんと二人分を毎日作っているという。
「山田さん、今日のお弁当すごいね」
「夕飯の余りなんです。たまごは今朝焼きましたけど」
「おかず、分けてあげようか?」
「大丈夫です」
そう返して、スプーンを手に取って、黄色い膜を破る。中から現れたのは、赤とオレンジを混ぜこぜにしたような色の米粒。
今日の住子の昼食は、タッパーに詰めたオムライスだ。
炊いた白米が余ったときは、ラップにつつんで冷凍している。
溜まってくると、ピラフにしたりチキンライスにしたりと味を変えて消費するようにしており、昨夜はチキンライスの日。賞味期限が近づきつつあるたまごを消費すべく、オムライスにしたのは、林太郎のリクエストだった。
本来ならば彼が消費するはずだったそれは、「ごめん、仕事で遅くなる」のメールで行き先を失ってしまったのだ。
翌日の夕飯にまで持ち越す気にはなれず、お弁当行きになったというわけだ。
朝食をあいだに挟んでいるとはいえ、連続オムライスは少々キツイものがある。
とはいえ、捨ててしまうのはもったいない。ホワイトソースをかけてドリアにするのもおいしいけれど、夏場に食べるものではないだろう。あれは、肌寒い季節にこそ、相応しい食べ物だ。
知らず、眉根が寄る。
「ねえねえ、ちょっと食べさせてもらっていい?」
「べつに、いいですけど、炒めてケチャップ味にしただけですよ?」
「旦那がさー、オムライス好きらしくて。ヤツの中で、理想のオムライスがあるらしいのよ。私が作ったものに文句を言うわけじゃないんだけど、でも心からの笑顔じゃないのがわかるわけ。悔しいじゃない!」
憤慨する優子は、とてもかわいいと住子は思う。
彼女の旦那はラガーマンだったという経歴が示すとおり、ガッチリした体躯の三十五歳。
スポーツは全般的に得意なのか、親会社が主催するスポーツ交流会にもよく出席し、入賞を果たしている。
「旦那さん、たくさん食べそうですよね」
「作り甲斐はあるんだけど、どうせなら心からの旨いを聞きたいわけよ」
「――私の素人料理じゃ、参考にならないんじゃ」
「私だって素人だよ。各家庭の味ってのを知りたいだけなの。ちょっと交換しようよ。私も夕飯の残りだからさ、やっぱ飽きるよねー」
お弁当の蓋にいくつかのおかずを出すと、住子の前へ。そして、オムライスの三分の一ほどを引き取っていく。
これはきっと、彼女の優しさだ。
さりげない気の使い方は、こちらに負担を与えない形でそっと提示される。
だから住子は、鈴木優子のことが、とても好きだった。
「あ、なんかまろやか。ケチャップだけじゃなくない?」
「炒めるとき、バター落としてますけど」
「具材はあんまり入れないほう?」
「余ってれば入れます」
「あ、わかる。ウインナーとかハムとか、肉系はそうなるよね」
困ったときのミックスベジタブルもあるけれど、今回は使っていない。あれにはグリンピースが入っているからだ。
林太郎は絶対に嫌がるので、敢えて使わなかったけれど、意味はなかったなと、考える。
「なんだろうねー、ハンバーグとか、カレーとか、オムライスとか。なんでそういうのが好きかね、男は」
「目玉焼きが載ったハンバーグってやつですか?」
「そう、それ。わかりやすくていいけどね」
「鈴木さん、この唐揚げ、おいしいですね」
「ごめん、それ、出来合い。このお店、絶品なの。山田さんの家って、どこだっけ? 近所ならおススメなんだけどなー」
悔しそうに箸を噛み、慌てて口から離す優子のことが羨ましい気がして、そんな自分に住子は驚く。
誰かと比べて、卑屈になったり、羨んだりといった思考は持っていない――否、持たないようにと戒めていたはずなのに、最近の自分はなんだかおかしい。平穏が崩れていっている気がして、じわりと胃の辺りが重くなる。苦しくなる。
そのとき、テーブルに置いていた携帯ポーチが震えた。
社内では常にマナーモードにしており、着信音が鳴ることはない。バイブの仕方は、電話とメールで変えてあるが、今の震え方はメールのほうだった。
三回、震えて収まったそれに手を伸べて取り出した携帯電話、サイドディスプレイに表示されている名前は、山田林太郎。二つ折りの端末を開いて受信メールを確認すると、食べ物の写真が添付されている。
"ケータリング、すげー豪華。差し入れのお菓子もおいしかった。今度買いに行こう"
テレビ番組やロケではお弁当だけど、ドラマの撮影はスタジオだから、いろんなケータリングがあっておもしろいよ、と語っていたことがある。
おそらく、それを証明する、というか、紹介したくて、こうしてメールしてきたのだろう。
山田林太郎という男は、もうすぐ二十六歳になるというのに、どこか子どもっぽい。それでいて、芸能人として仕事に向き合う姿は真面目で、ストイックでもある。
(そっか、ああいう人が近くにいるから、差を意識するようになったのかな)
己の心になんとなく納得がいき、昼食の続きに戻った。
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