第15話 来年もまた、一緒に見よう
食べ終えたトレーを、備えつけのゴミ袋へ捨てたあと、林太郎は住子を誘って移動する。
やがて住子が口を開いた。
「ごめんなさい」
「なんで住子ちゃんが謝るんだよ。悪いのは俺なのに」
「どうしてあなたが悪いのよ」
「だって、俺が戻るの遅くなったせいで、あんなアホみたいなヤツらに絡まれて」
「べつにあなたのせいじゃないわよ」
「それでも、俺が一緒にいたら、あんなことにはなってない」
林太郎が怒気を強めてそう言っても、住子はいつものように、淡々とした口調を崩さない。だが、あんなふうに囲まれて、下卑た言葉を浴びせられて、平気なわけがないだろう。すこしの動揺もみせない住子に、林太郎は歯がゆさを感じる。
「怒っていいんだ。なんだあいつらって、住子ちゃんは文句を言ってもいいんだよ」
「べつに、あんなの、聞き流しておけばいいもの」
「よくない!」
「あのね、どうしてあなたが怒るのよ」
「耳に入った時点で、心がすり減るんだよ、ああいうのは。相手は軽口のつもりだろうけど、そんなのはな、受け取る側には関係ねーの。イヤなもんはイヤなんだよ」
日本人の名前なのに、彫りの深い顔立ち。生まれ持った顔は変えられないし、この容姿は気に入っている。
けれど、だからといって、何を言われても気にならないというわけではない。
家族環境を知っている義務教育期間はともかくとして、校区に縛られなくなった高校時代は、勝手な推測や憶測でものを言う奴らは、存在した。自分のことを言われるのもイヤなものだが、家族のことにまで言及されるのは腹が立ったものだ。
芸能界に入っても、似たようなもので。やっかみや中傷は、デビュー当初からある。
気にしないようにしていたとしても、まったく気にならないわけではない。
痛みは決して、ゼロにはならないのだ。
「怒っていいし、傷ついていい。あ、でも立ち向かうのはダメだから。危ないからダメ」
「……なんか矛盾してない?」
「腕力に訴えるヤツもいるし、危ないだろ。だから、今度なんかあったら、俺に言って」
住子へ向き直り、覗きこむようにして言いふくめる。
「今日はほんとゴメン。杉さんから電話かかってきて、長引いた。俺が頼んで連れ出しておきながら、イヤな思いさせたよな」
「マネージャーさん、なにか用事だったの?」
「このあとの仕事の話。――もう、そんなのいいんだって。話を逸らそうとしてるだろ」
「そんなことないわよ」
「いーや、ぜったいそうだ。俺は騙されないからな」
未だ眉を寄せたままの住子の眉間に触れ、指でなぞる。フレームに当たって眼鏡が傾き、レンズ越しに、瞳がぎょろりとこちらを睨む。
山田住子はいつだって、平然とした態度を崩さない。
否、崩さないようにしているのだと、林太郎は感じる。
(もうすこし、頼ってくれてもいいじゃん。お隣さんなんだし、もう『知らない人』じゃないし、俺ら友達じゃん)
部屋を行き来したり、一緒に買い物に行ったり、ご飯を食べたり。
わりと親しい部類だと思うのだ。知人ではなく、友達の範疇には入っていると、信じている。
「もし、俺が近くにいないときだったら、電話して。すぐに行くから」
「不規則な仕事をしている人が、適当なこと言わない」
「もう、そこはかわいくうなずいてよ」
「無茶を言わないで」
「もしかして、アイツらの言ったこと気にしてる? 忘れていいから。住子ちゃんの良さがわからないとか、アイツらはバカだけど、あんなバカにはわからなくていいんだ」
「――言っている意味がよくわからないんだけど」
「だから、住子ちゃんがかわいいのは、俺が知ってればいいの」
「バカなの?」
ふたたび眉根が寄り、深い皺が刻まれる。せっかく伸ばしたところなのに、台無しだった。
けれど、そんな顔もまた住子らしいと思うし、いつか他の表情を見てみたいとも思う。
広場のステージ方向から、司会者の声が聞こえた。そろそろ花火があがるらしい。人混みが動きはじめ、林太郎は住子の手を取った。
遠すぎず、近すぎない場所で足を止めると、花火が設置された場所を大きく開けて、人が囲っている。
ポンと、やや軽い音を立てて上がった花火が、夜空に花を咲かせた。青白い光が、チラチラと輝きながら、星を降らせる。続いて、赤みを帯びた花が大輪を咲かせた。白い光は柳のように垂れ下がり、黄色い光がまたたく。
ランダムに彩られる光が、真っ黒いキャンバスに浮かんでは、残像を焼きつけながら消えてゆく。
隣にいる住子を見下ろす。眼鏡のレンズに花火が映りこみ、白く反射していて、どんな表情をしているのか、よくわからなかった。
わからないことが、すこしだけ悔しいと感じる。
だからかわりに、握ったままの手に力を込めた。
「来年もまた、一緒に見よう。今度はちゃんと、ずっと傍にいるから」
花火の音や歓声に、消えてしまったかもしれない言葉。
明確な答えは返ってこなかったけれど、わずかに震えた手から、住子に聞こえていることを確信して、林太郎は微笑む。
「約束な、住子ちゃん」
◆
薄暗くなってきた空。
それに合わせて、動き出す人々。
花火を撮影する、高感度のカメラは一台のみ。集団を俯瞰で撮るためのカメラは、クレーンに載せられている。ドローンカメラでの撮影は、狙った通りの
夏休み期間の『恋模様』は、花火大会を舞台にしたドラマが三本、海を舞台にしたドラマが三本と、それぞれオムニバス形式で配信されることになっている。同じ場所を舞台にしたカップルが通行人として登場するなど、各話に繋がりを持たせる特別版だ。
そのため、花火を見上げるシーンは、一堂に会して撮影がおこなわれる。騒音であったり、花火の手配であったり。都合をつけるのは大変らしい。
林太郎は、エキストラに説明をするスタッフを見やりつつ、先日の祭りのことを思い返していた。
花火が終わったあと、住子とアパートまで戻った。仕事へ行かないのかと訊かれたけれど、部屋から持っていくものがあるのだと言い訳をした。あんなことがあって、暗い道を一人で歩かせるのはイヤだったせいである。しかし、それを言うと、住子は拒否するだろう。
(……ほんと、住子ちゃんって素直じゃないっていうか)
いままで近くにいなかったタイプで、興味深い女の子だ。
「リンさん、なにか楽しいことでもありましたか?」
「いや。花火、どんな感じかなーって思って。楽しみだよね」
「近くで見られるのはうれしいですよね」
声をかけてきたのは、菜摘役の女優ではなく、別の話を担当している女優。『恋模様』に参加して、最初に共演した田坂かおりである。男女それぞれ、別の人と共演していくため、彼女と現場で会うのは久しぶりだった。
「田坂さん、最近は大活躍だな」
「大、といえるかは、まだわかりませんけど」
「でも、映画が決まったって聞いたよ? うちの事務所の新人も端役で出るし、シンが作中の楽曲を作って、田坂さんが歌うんだよな」
「そうなんですよー。フォレストの曲、好きだから、うれしいです」
「シンに言っとく」
「よろしくお伝えください」
ぺこりと頭を下げる。背筋がまっすぐと伸び、腰を折ってお辞儀をするさまは、浴衣姿と相まって、大和撫子という言葉を彷彿とさせる。田坂が担当している話は、しっとりとした大人の恋愛劇であるため、役作りもあるのかもしれないが、それだけではない素地が感じられた。
「田坂さん、浴衣すごく似合ってる。姿勢もいいし、和服に慣れてるの?」
「祖母が和裁をやっていたので、着物は身近でした。でも、だからって、着て育ったわけじゃないんですけど」
「いいね。すごく綺麗だよ」
「――リンさんって、天然ですか?」
「なにが?」
「素でそれはすごいです。女の子はイチコロですよ」
「そんなことはないと思うけど」
「このドラマ、カッコいい俳優さんばかりだから、なんか感覚が麻痺しそうです、私……」
嘆息して去っていく田坂を見送って、林太郎は首を傾げた。
誉め言葉は、意識して使っているわけではないし、なんとなく口に出しているところがある。
言うと喜ばれるため、中学のころから、笑顔とセットにして活用してきた。もはや染みついた習性であり、けれど、周囲に好印象を与えようとしての行動であるので、「天然」という言葉はおそらく当てはまらない。打算にまみれた行動だ。
顔と声は、林太郎にとっての武器だ。芸能界という戦場で、生き残っていくために必要なもの。
その甲斐あってか、こうして配信ドラマのレギュラー枠を得ることができた。芝居の練習相手として、最適な相手も近くにいる。
たしかに、楽しいな。
さきほど、田坂が言っていた「なにか楽しいことでもあったのか」という問いに答えを見出し、林太郎の顔にはふたたび笑みが浮かぶ。
「準備できましたー。スタンバイお願いしまーす」
スタッフの声が、拡声器を通して響く。
今から、花火を見上げるシーンの撮影となる。
それぞれのカップルが、別々の場所に立って観覧しているさまを、カメラ位置を変えて撮っていく。
菜摘役の女優と手を繋ぎ、エキストラのあいだに並んで立つ。
花火を見上げながら、最後の台詞がある。声をあとからかぶせる可能性もあるが、一応、収録しておくことになっているため、ただのんびり見上げていればよい、というわけではなかった。
菜摘役の女優が、口を開く。
「……今日は、ありがと」
「なんだよ急に」
「わ、私がお礼を言っちゃいけないわけ?」
「突っかかるなよ」
「どうせ私は、かわいげがないわよ」
「そんなこと、言ってないだろ」
つい声を荒げそうになるが、踏みとどまる。菜摘のそれは、哀しさの裏返し。彼女はいつだって素直に自分の気持ちを吐露せずに、自虐じみた言葉で己をごまかすのだと気づいたのは、ついさっきのこと。
反発してしまうのはお互いさまで。
だからこそ、一歩を踏み出そうと夏彦は決めたのだ。
菜摘の手をぐっと握る。驚いた彼女がこちらを見上げる視線を感じながら、夜空の花を見つめる。
本当にかっこいい男なら、こんなときはきちんと彼女の目を見て伝えるのだろうけれど、まだそんな勇気はない。手を握るので精一杯。ほんのすこし前に交わしたキスだって、半分以上が、勢いだ。改めて考えると、恥ずかしさのあまり、駆けだしたくなるぐらいなのだ。
「来年もまた、一緒に見よう。今度はちゃんと、恋人同士として」
「……うん」
小さく――けれど、はっきりと肯定した菜摘の声に、夏彦はもう一度、手に力をいれる。
対して菜摘は、夏彦の腕にそっと身を寄せる。
これまでとは違う距離。
夏の暑さも、人混みの熱気も、己の顔の熱さには敵わないにちがいない。
そう思いながら、菜摘は彼の手を握り返した。
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