第28話 好きだよ

 車内は無言だった。

 こっそりと右隣の住子を見ると、俯いたまま膝に置いた手をぐっと握りしめており、林太郎は小さく安堵の息を吐く。 

 本当によかった。火事の一報を聞いたときは、生きた心地がしなかった。

 慌てて駆けつけ、アパートの前に立っている住子を見たときは胸を撫で下ろしたし、会えてよかったとも思った。渋る大杉をなんとか説得したのだ。ここでもしも住子がいなかったとしたら、徒労におわるところだった。

 だというのに、住子ときたら、とんでもないことを言い出すのである。

「やっぱりどこか、適当なところで降ろして」

「住子ちゃん、行くあてあるの?」

「ない、けど」

「だったらいいじゃん」

「でも……」

 口ごもる住子に向き直り、林太郎は告げる。

「頼ってよ。俺、そんなに頼りない? 役に立たない?」

「そんなふうには、思ってない……」

 力なく頭を振る声は覇気がなく、ひどく弱々しい。

 住子のことだ。きっと遠慮をして、自分だけでなんとかしようとしているのだろう。

 誰にも頼らず、たったひとりで乗り切る。

 そうでなければならないと、思いこんでいる。

 だけど、ちがうのだ。

 頼ってほしい。

 役に立ちたい。助けたい。

 手を伸ばしたいし、その手をちゃんと取ってほしい。

 住子を助けるのは自分であり、その役目は誰にも譲りたくないのだ。

「大丈夫だから、ひとりで勝手に決めないで。ちゃんと俺を頼って。俺は住子ちゃんに頼りにされたいの。俺が住子ちゃんを助けたいの。ぜんぶ俺の気持ちなんだから、住子ちゃんが気に病む必要なんてないんだよ」

「……なに、言って、るの」

 かすれた声。消え入りそうに儚い存在を繋ぎとめるように、力強く告げる。

「好きだから。住子ちゃんが好きだから、迷惑なんて全然思わない。むしろうれしい」

「……バカなの?」

「バカでいいよ。俺は住子ちゃんのためならなんでもする、住子ちゃんバカなの」

「……ほんと、バカ」

 ぽつりと漏らした声は嗚咽まじりで、林太郎は住子を抱き寄せた。腕の中で、住子が小さく震える。けれど振り払われることもなく、されるがままこちらに身を任せた。拒絶されないことがうれしく、まわした腕に力をこめる。右手で小さな頭を抱え、ゆっくりと撫でながら林太郎は囁く。

「好きだよ。練習とか、彼氏のふりとか、そういうのじゃなくて、俺は住子ちゃんが好きなんだ」

 あんなにも緊張していたはずの言葉は、驚くほど素直に口から零れ落ちた。

 穏やかに、凪いだ心で住子を抱きしめる。

 バカみたいだ。恰好をつけようとする必要なんてどこにもなかったのに、なにを身構えていたのだろう。

「ねえ、住子ちゃんは?」

 俺のこと、好き?

 耳許でそっと問いかけてみる。

 ぴくりと震えたのち、わかるかわからないかぐらいに小さく――ほんのわずかに頷いた住子を見て、林太郎はとろけそうな微笑みを浮かべたのだった。



  ◇



 ガタンと車体が揺れて、わずかに傾く。どこかへ降りていく気配を感じ、住子はゆっくりと顔をあげた。背中を抱いたままだった林太郎の大きな腕は、こちらの行動に合わせてゆるめられ、そのまま肩を抱く。スモークガラスの内側から見るとさらに暗いけれど、地下駐車場のような場所であることは推測できた。

 促されて、降りる。やはりどこかの駐車場らしい。まばらに停まった車を見まわしていると、林太郎に右手を取られた。

 練習と称して出かけた先で何度となく手を握られたけれど、今ひどく恥ずかしく感じるのは、車内でのやり取りのせいなのだろう。アパートの惨状からはじまり、なんだかふわふわとして、まるで現実味がない。

 その現実感のなさは、案内された場所でさらに加速する。

 宿泊先だというから、どこかのホテルだとばかり思っていたが、連れて行かれた先はマンションの一室だった。それも高級な部類に入るであろう、まるでモデルルームのような部屋で、住子はおもわずあとずさる。

 逃げ出したい状況ではあったが、背後には強面のマネージャーがどんと構えているため、逃げようがない。林太郎は林太郎で笑みを浮かべており、住子を中へと促すのだ。完全に包囲網が敷かれている。

 土で汚れた靴が場違いすぎて、玄関の三和土たたきに足を踏み入れることすら躊躇するというのに、林太郎は平気な顔をして靴を脱いだ。

「杉さん、スリッパないの?」

「今日は我慢しろ」

「俺はいいけど、住子ちゃんは女の子だし」

「あ、あの、いいですから」

 なるべく土を落とさないようにゆっくりと靴を脱ぎ、林太郎に手を引かれながら廊下を歩く。荷物は玄関に置いたままだ。

 リビングとおぼしき部屋には二人掛けソファーがあり、透明なガラス天板のローテーブル。あとは大きなテレビが目を引く程度で他に家具はなく、なんとも生活感に欠ける部屋だった。地続きでカウンターキッチンとなっており、薄暗い向こう側では冷蔵庫らしきモーター音が唸っている。

 入口で立ち尽くしていると、背後からやってきた大杉に背を押され、住子は慌てて脇へ避けた。林太郎が手招いたため、おそるおそる近寄る。

 ソファーに座らされ身体が沈みそうになり、慌てて体勢を整えると、隣から小さな笑い声があがった。

「背筋ピンってしてないで、もっと力抜きなよ」

「そんな失礼なことできない。っていうか、ここってどこ」

「俺の家」

「はあ?」

 あっさり放たれた衝撃の言葉に、住子は驚いて隣を見た。にこやかな笑みは嘘をついているふうでもなく、どうしたものかと思案する住子の耳に、大杉の野太い声が届く。

「そこのバカが言うとおり、ここは事務所うちが手配した、林太郎の家だ」

「バカってなんだよ。俺をバカって言っていいのは、住子ちゃんだけなんだからな」

「山田くん、きちんと説明」

「はい」

 促すと、林太郎が即座に答える。

 いわく、あのアパートは新しく住む場所を決めるまでの仮住まい。最初から長居するつもりはなく、一年ほどで出る予定だったらしい。

 以前に住んでいた場所はどこからか特定され、一般人が足を運ぶまでになってしまった。

 SNSの普及によって情報は拡散され、なんてことのない風景写真から居住地が特定されてしまう。行き過ぎた一部のファンが付近のマンションへ侵入騒ぎを起こすまでに発展し、林太郎は引っ越しを余儀なくされた。

 それでどうしてあのアパートへ辿り着いたのか甚だ疑問ではあるけれど、たしかにあんな寂れた一室に、天下のアイドルが住んでいるとは思わないだろう。

 だからだったのか、と住子は納得した。

 出会ったとき、雑誌記者かとこちらを疑い、なかば脅しつけるような真似をした理由。

 嗅ぎつけられ、また騒ぎになるかもしれないことを、彼は恐れたのだ。

 セキュリティの整ったマンションを手配し、慎重に慎重を重ねて引っ越しの時期を検討していたときに、あの火事騒ぎが起きた。こうなってはあそこに住むわけにもいかず、いい機会なので完全に引き払うことにしたのだという。

 新しいマンションは同じ階に部屋数は少なく、上へいくほど減っていく仕様。最上階はワンフロアすべてがひとつの家になっているというから、驚きだ。いったい、どんなお金持ちが住むのだろう。

 林太郎の家は、4LDK。ひとりで暮らすには贅沢すぎるが、事務所としては安全に越したことはないと考えたらしい。

「はじめはどうかと思ったけど、結果的によかった。これなら住子ちゃんも安心だしね」

「……ちょっと待って。意味がわからないんだけど」

「大丈夫だよ、寝室用の部屋には内鍵あるから」

「そういうことを訊いてるんじゃないの」

 林太郎の弁をそのまま受け取れば、まるで住子もここに住むかのような言い草だ。

 アパートがああなった以上、当面の宿は必要だし、その点ではたいへんありがたいと申し出といえる。すこし――いや、だいぶ豪華な宿だが、こんなことでもなければ住むこともないであろう高級マンションで寝泊まりするのも、不謹慎だがおもしろい体験だと思う。

 だがそれは、あくまでも仮宿だからであって、ずっと置いてもらうなんてことは、想定していない。

 山田林太郎はいつだって予想を超えてくる。ついさっきの告白だって、そうだ。

 芝居めいた空気もなく、真摯でひたむきな林太郎の言葉は、住子の虚勢を剥がした。

 あんなふうに――まるで懇願するように訊ねられたら、嘘なんてつけない。優しくされて、壁も殻も、なにもかもを剥ぎ取られてしまえば、もう隠せない。

 一生涯、表に出すつもりもなかった「好き」という気持ち。

 自分で認めて、かつ相手もそれを知っているのだと思えば、林太郎の視線に晒されるたび、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。

 隣にいるだけでもこうなのに、次の住居が決まるまで一緒に暮らすだなんて、ありえないだろう。

 だが林太郎は、もっとありえないことを言うのだ。

「住子ちゃんも、ここに住むんだよ。俺の家で、住子ちゃんの家でもあるの」

「バカなの?」

「なんでだよ、そのほうが安心だろ?」

「あなたね。事務所が手配した家に、赤の他人を勝手に住まわせるなんて、非常識にもほどがあるわよ」

「大丈夫、了解はとったから」

「はあ?」

 テーブルを挟んだ向こう。一人掛けのソファーに腰を下ろしていた大杉が、肩で息をついて肯定する。

「おまえさんを泊めることは許可を出している。事態が事態だったからな、放り出そうもんなら、林太郎まであんたと一緒にビジネスホテルにでも泊まりかねん。居場所が不確定だと、仕事に支障がでる」

「心配なんだよ。住子ちゃんが安全な場所にいるっていう保障がほしい。ここなら安心だし、いつでも会えるし、一緒にいられるし、悪いことひとつもないじゃん」

「――すみません、大杉さん、でしたよね」

 林太郎では話にならないと判断した住子は、大杉へ向き直った。肩に置かれた手を振り払い、居住まいを正す。

 だが大杉は、軽く手を振って、住子の弁を封じた。

「あんたも疲れただろう。時間も遅いし、詳しい話は明日だ。これからのことはともかく、今日は気にせず泊まってくれていい」

「……すみません、お世話になります」

 相手の言うことももっともだと思い、住子は頭を下げる。すると隣で、林太郎が拗ねたように呟いた。

「ここ、俺の家なのに……」

「借主は事務所なんでしょう? あなたじゃないわ」

「――住子ちゃんが冷たい。でも、そういうとこがかわいくて好き」

「…………バカなの?」

 直球の言葉を受け、住子はかろうじてそれだけを返す。

 せいいっぱい張った虚勢は成功していなかったのか、「……そういうのは俺が帰ってからやってくれ」と、強面のマネージャーは大仰に溜息をついたのである。



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