山田くんは微笑みながら睦言を囁く
彩瀬あいり
第01話 あなた、もしかして
なんだろう、これは。
山田
裏返しになっているけれど、どこか見覚えのあるそれは、運転免許証に見える。くるりと裏返してみればやはりそうで、けれど自分のものではなかった。
訝しげに眉を寄せる理由は、ひとつ。
性別は違うけれど、記されている名字が、己と同じだったからである。
奇妙な偶然だ。
とはいえ、どうしたものか。
安普請の賃貸アパートには、オートロックなんて
(警察、かな……)
しかし、アパート内の拾得物を届け出て対応してくれるものなのだろうか。管理会社に連絡しろと言われておしまい、という気もして躊躇していたからだろう。背後からの人影に気づいた時には、すでに拘束されていた。
右腕を取られ、アパートの壁に押しつけられている。
春とはいえ、日が暮れるとまだ肌寒い時節。ジャケット越しに伝わる冷気が、身体の内側へと浸透していく。
「あんた、どこの誰?」
「……それはこちらの台詞なんですが」
声も低く問うてきた男の声に、彼女は淡々と返す。
午後九時をまわった今は、廊下に据え付けられた蛍光灯だけが光源だ。ひび割れたコンクリートの壁を背にしているため、相手の顔は逆光となって影に埋没している。男の両手に挟まれる形で追い込まれ、右にも左にも逃げ場がない状態だった。
「訊いてるのはこっち。どこで知ったの?」
「なにをですか?」
男の言葉はまるで要領を得ず、住子はふたたび眉を寄せる。この薄暗さでは、眼鏡越しに瞳を細めても男の顔は見えづらい。背丈が高く、こちらを覗きこむように見下ろしてくる体勢ではなおさらだろう。
カチッと頭上の電灯が明滅した。
前々から薄暗かった蛍光灯の寿命が、ついにやってきたのだろうか。
そちらに目をやると、男もまた同じほうへ顔を向けていた。
高い鼻が目立つ美しい横顔。光に透ける髪が、銅色に輝いて見える。どこか日本人離れした容貌の男がふたたびこちらを向いた時、住子は気づいた。目の前にいる男が、手に持ったままの免許証に写っている人物に、よく似ていることに。
「あなた、もしかして――」
「しっ、黙って」
免許証を探しに来た人? という問いかけは、男の指によって
親指が唇に、人差し指は顎に添えられ、クイと上向きに力が加わる。仰ぎ見るように飛び込んできた男の顔はいつのまにか近づいており、住子は驚きのあまり目を見開いた。男は口の端に笑みを浮かべ、さきほどまでとはまるで違う甘い声色で囁く。
「頼むよ。黙っててくれないかな。この可愛い唇に免じてさ」
「どの口が言うか、変質者」
無防備なふくらはぎを一蹴りし、男の注意が逸れた隙に住子は壁際から逃れた。
三歩分ほど距離を取ったあたりで相手を睨むと、男は顔をしかめながらこちらを向いた。
「ってー……。なにすんだ」
「だから、それはこっちの台詞。警察に突き出してもいいんだけど?
「な、んで、名前……」
「これ、探しに来たんじゃないの?」
ご老公の印籠よろしく免許証を見せると、男は驚愕の眼差しとなり、慌てて尻ポケットを探る。
「返せっ!」
「返しますけど。その前に言うことがあるんじゃないですか?」
「誰にも言うな」
「なにを」
「俺の、名前」
「山田林太郎?」
「だから、その名を口にするな!」
一体なにを慌てているのか、かなり取り乱した様子だった。
さっきまでの余裕はどこへいったのやら。まるで別人と化した山田氏に免許証を渡すと、ひったくるようにしてもぎ取り、尻ポケットへ押し込む。
そんな場所に入れるから、落としても気づかないのではないだろうか。
男性がよくやっている、尻ポケットに長財布をINの意味が、女の住子には理解できない。
でもまあ、これで用事は済んだ。
免許証は持ち主に戻り、見知らぬ他人の身分証明書の扱いからも解放された。あとは家に入って、夕食を兼ねた軽めの夜食を胃に入れて、風呂へ入って寝るだけだ。
だが、
「……まだ、なにか?」
「どこで手に入れた」
「はい?」
「免許証だ」
「どこって言われても、ここですけど」
そう言って、味も素っ気もない灰色の床を指差す。コンクリート製の床はじわじわと冷気と放ち、住子は溜息とともに告げる。
「落ちてました、ここに。踏みそうになったから拾いました。私の家、ここですから」
次に右手をひらりと横にやり、赤茶色に塗られた扉を示した。203と書かれた白いプレートが張り付いている。
免許証が落ちていたのは、住子の部屋のド真ん前。たぶん、ここで立ち止まる人でなければ、気づかなかっただろうと思われる場所に、それは落ちていた。大事な物を拾って感謝されるならともかく、非難されるいわれはないだろう。
「住んでる、だって?」
「それがなにか?」
「マジかよ……」
途方に暮れたように呟いた男は、続いてまたも「黙っててくれないかな」と言葉をもらす。今度のそれは、さきほどよりも弱々しく、懇願する色合いが強い。しかし、そこまで追いすがる意味がわからなかった。
免許証を落としただけで、なぜ、そこまで悲観的になるのだろう。住子は一応告げる。
「あの、拾ったのは、たった今だから、コピーを取ったとか、写真に撮ったとか、そういうことはしてないから安心してください」
とはいえ信用はできないかもしれないと思う。
なにしろ証拠がないのだ。防犯カメラなどというものは備わっていないから、証明のしようがない。
「やっぱり交番とか行きますか?」
そのほうが、お互いすっきりするだろう。
トートバッグを肩にかけなおし、踵を返した住子の腕を、「ちょ、警察はまずい。――わかるだろ?」と男がぐいと引き止める。
わかるだろ、と言われても、住子が推測できることは、なにかうしろぐらい事情があるということぐらいだった。くわえて、面倒そうな奴にかかわってしまった、という事実に嘆きたくなる。
「なんでも言うこと聞くからさ。あー、いや軽々しくなんでもーとか言っちゃマズイんだけど、俺ができる範囲でなら、なんでも。一緒に写真とかでもいいよ。ネットに上げるのは勘弁だけどね」
「いえ、結構です」
「え――」
「べつにお礼を寄越せ、なんて言いませんよ。たまたま拾っただけ。あなたは見つかってよかったでおわり。私も、他人の免許証を持っている、なんて怖い騒動が終結してよかったでおわり。それでいいじゃないですか」
住子が言うと、男は慌てた様子で詰め寄ってくる。
「ちょ、待って。あのさ、わかってなかったり、する?」
「なにをですか?」
「俺の顔、知らない?」
「こんな場所でナンパですか?」
「違ぇーよ」
「じゃあ、なんですか。どこかの業者さんですか? 制服着てないとよくわからなくて、すみません」
「そうじゃねーよ。フォレスト! フォレストのリン!」
「フォレスト? どこかの店ですか?」
問い返すと、男は目を見開いた。「嘘だろ……」と、もらした声も驚きに満ちており、住子はむっとした。
美形だからといって、誰でも自分を知っていると思うのならば、大きな間違いだ。まして、認識していないこちらのほうに非があるといわんばかりの言動は、客商売にあるまじき態度ではないか。裏でどんなふうに言ってもかまわないけれど、表に出してはいけないだろう。
知らず憮然とした顔つきとなった住子に、男は目を泳がせる。
すこしは恥じる気持ちが生まれたのだろうか。
「……えーと」
「あの、もういいですか? 早く家に入りたいんですが」
「そうだよな、わりぃ。中で話そうか」
「はい?」
中とはどこを指しているのか。
そして、まだ話すことがあるというのか。
「あの、山田さん。いい加減にしてくれませんか」
「その名は呼ぶな」
「じゃあ、なんて呼べと?」
「リン」
「下の名前で呼ぶのはどうかと思いますが」
そんなに山田という名字が嫌なのか。同じく「山田」である住子は、顔をしかめる。
「とりあえず、中で説明させてくれない?」
「ここでいいじゃないですか」
「俺の部屋のほうがいいなら、そっちでもいいけど」
「はい?」
「ここ、俺の部屋」
そう言って男の手が示したのは、住子の隣――204号室だった。
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