第10章 何が起きたのか、その瞬間にはたぶん誰もわからなかった
1
僕の頭上で、だん! という大きな音が響いた。
何が起きたのか、その瞬間にはたぶん誰もわからなかった。目を開けた僕が見たのは、小さなほっそりした影が屋根のひさしを駆け下り、そのまま空中に飛び出して、長身の男の顔に飛び膝蹴りを見舞うところだった。
男は吹っ飛ばされて民家の壁に頭を打ちつけた。
飛んできたのはグレーの縞の
「アディ、あなた相変わらず敵の足元を全然見てないわね。それで何度叱られてた?」
侍女はそう言いながら
「さすが
「当たり前でしょ」
侍女は倒れかけた小男のターバンをつかみ、その頭に短剣の
「さっきは背後があんまり無防備なんで心配しましたよ。ファジャル様のお召し替えのお手伝いばかりしていて勘が鈍ったのかと」
「仮にも宮中武官が、あんな下らないやりかたをするなんて思わないでしょう。まして
侍女は――いや、この女性が本当に「侍女」などであるとは到底思えないけど――よく見ると素足だったが、倒れた二人の男の顔を二、三度ずつ強めに蹴った。
「当分は動けないわ。あとは
「俺が悪かったです。姐さん。このことはどうか姫様には……」
アディが言い終わらないうちに、侍女は彼の腰に回し蹴りを食らわせた。アディは板戸に叩きつけられた。
「痛ててて。姐さん、ひどいですよ」
「このバカ。王室のご信頼に甘えるのもいい加減になさい」
侍女はアディに背を向けて僕に一礼し、手を差し伸べた。
「ミナミ様、お手を。お邸までお送りします」
侍女にうやうやしく手を握られて、だけど僕は地べたに座ったまま立ち上がることができなかった。暴力と無縁に生きてきた僕にとって、1904年という時代がどんな意味を持つのか、思い知らされた気がした。茉莉がここにいなくてよかった。僕の力ではあの子を守ることができないだろう。茉莉には、二十一世紀の安全な世界にいて、僕のために祈っていてほしい。それだけでいい。
港務長官の部屋に入ると、窓際の長椅子に、四人姉妹が並んで座っていた。おそろいの薄紅色の巻衣をつけ、銀の花を髪に飾り、膝の上に一枚の大きな布を広げて、皆で刺繍をしているところらしかった。
僕に気づくと、ファジャルがはっとしたように僕の顔を見上げ、泣きそうな顔になった。服も化粧も顔もそっくりで区別がつかないと思っていた四人だが、いちばん右のその娘がファジャルだと、瞬時に見分けがついた自分に僕は少し驚いた。
「お前たち、席を外しなさい」と、テーブルの向こうから港務長官が命じた。「ファジャルもだ。私はミナミ君と二人で話をしたい」
三人の姉たちに促されて、ファジャルも一緒に部屋を出ていった。
僕は大きなテーブルの前に、港務長官と向い合せに座った。港務長官は、フィリピンの正装に似た白い
「
「いいえ」
そう尋ねるということは、生きているのだろう。侍女が二人を殺してしまったのではないかと思っていたので少しほっとした。
「もっと早く注意を促しておくべきだった。君は珍しい国の人間だし、川での一件でちょっとした有名人だ。君を憎む者も、利用価値があると考える者も少なくない」
「この僕にどんな利用価値があるんです」
「考えることはそれぞれに違うだろう。とにかく、案内人を振り払ったりされては、君の安全に責任を持つことは難しくなる」
僕は頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
「アディには王都に帰ってもらうよ。王室の命を
「しかしあれは、僕のために……」
「なに、彼は王室の、
「それならいいのですが」
「それより、君の帰国についてだが」港務長官はテーブルの上に少し身を乗り出した。「残念だが、今すぐにというのは少し難しい」
そう言われても、残念なのかどうかよく分からなかった。明治三十七年の日本に帰ったところで生きてはいけないだろう。どうせ僕が百二十何歳かになるまで茉莉は生まれてこないのだ。ならばいっそこの島に残ったほうがいいかもしれない。もし帰れないのなら、この国でムラティ王女に仕えて生きるのもいいかもしれないという気がした。
「今わが国の近海はやや危険なのだ。報告によると、
話の途中で、花模様が彫刻された扉が開いて、ファジャルが黙礼しながら入ってきた。ガラスの器を二つ手にしている。色と香りで、それがコーヒーであることが分かった。
「君は
「はい。国でもよく飲みます」
ファジャルは化粧を落としていた。テーブルに器を置く時、結われていない髪の先が、ほんのちょっとだけ僕の腕に触れた。
コーヒーは、舌触りはざらざらしていたが、香りも味も良かった。飲み下すと急に肩の力が抜けて、まぶたが開けていられなくなり、僕は自分でも驚くほど深くて長いため息をついた。
今日は色々ありすぎた。もう何も見たくない。何も聞きたくない。
「ファジャル、下がっていい」
港務長官の声が聞こえて、僕は目を開けた。
給仕の用は済んだはずなのに、ファジャルは何か言いたげに、僕と父親の顔に交互に目を向けていた。僕は「コーヒー、ありがとう」と言った。彼女は結局何も言わないまま合掌して一礼し、部屋を出ていった。
港務長官が口を開いた。
「あの子は四人の中でも最も頭が悪い。だが心根は清らかだ。それ故に私の手には負えん」
「お綺麗なお嬢さんです」
「あれ達の母親が美しかったからな。しかし私には女の美しさというものが理解できん。金銀や真珠などと同じようなものとしか思えない。もちろんあの子たちの財産ではあるのだが――」
港務長官は器を置き、僕をまっすぐ見た。
「君は今後とも、
「はい」
「君の国と
「少しは」
「我が国は未だ英国とは交渉が無いが、我々とて彼らの強大さを知らぬわけではない。
ちゃんと国際情勢を知ってるのだ。王都では何も知らないふりをしていたらしい。
「もちろん君の帰国のために我々はできる限りの手を尽くす。しかし君の滞在が長引けば、我々もまた君の力を借りることもあるかも知れない」そう言って、港務長官は笑った。「ファジャルなどは、愚かにもそれを願っているようだよ」
2
シンガポール国際空港の、カーペットが敷き込まれた広い通路には歩く人々の姿は無く、所々に並んだ椅子にも休んでいる人の影はなかった。どこまでも長く連なったムービングウォークも全て静止していた。照明もほぼ落とされ、非常口の案内サインやゲート番号の表示などが周囲をほのかに照らしているだけだった。
僕の近くにはフライト情報の液晶モニターがあったが、ただ”cancelled”という赤い文字だけが並んで点滅していた。
通路はまっすぐに続き、遥か遠くで暗闇に消えていた。左を見ても、右を見ても、床から天井まで全面ガラス張りだったが、そのガラスの向こうは完全に真っ黒で、そこにあるのが滑走路なのか、トランジットラウンジなのか、虚空なのかさえ分からない。黒いガラスがはめ込まれているだけなのかも知れない。
方向も分からないまま、僕は薄暗い通路を歩きつづけた。いくら歩いても通路の景色に変化はほとんど無かったが、次第に強く、はっきりと、あの白檀に似たお香の匂いが感じられるようになってきた。
前の方に、カーペットがぼんやりと半円形に明るくなっているところが見える。香りはその辺りから来るように思われた。
近づくにつれて、その光が通路の左側のガラスの向こうから来ていることが分かった。
ガラスの向こうは漆黒だったが、その辺りだけが白っぽいLEDの明かりで照らし出されているのだ。
だんだん見えてくる。淡いブルーの床。四つでひとつながりになった椅子。そこに誰か座っている。女性のようだ。その後ろ姿を目指して、僕は次第に早足になった。
ガラス越しに見えたのは、白いスニーカーに黒のスキニー、グレーのパーカーを着た若い女性の姿だった。下を向いているので、長い髪に隠れて横顔は見えなかったが、その髪の
茉莉、茉莉、こっちだよ。
僕は大声で呼びながら、両手の平でガラスを叩いた。
お香の匂いはますます強くなってくる。泣いているのか、眠っているのか、分からないけど、膝の上で祈るように両手を組んでうつむいたまま茉莉は動かない。
茉莉、お兄ちゃんはここだ。茉莉、助けに来たよ。こっちを見て、まりちゃん。
ガラスを叩く手に、何か、さらっとしたものが触れた。
ああ、これは夢だ。
僕は気づいてしまった。
またあの夢だ。嫌だなあ、怖いなあ。
手元を見ると、やはりそうだ。短冊大の黄ばんだ絹布がガラスに貼ってある。それも一枚じゃなかった。ここにも、そこにも、ガラス中いっぱいに。まりちゃんの姿が見えないくらいに。
この布を剥がせば何が出てくるか、僕にはもう分かってる。あのお仏壇の阿弥陀さまだ。ぼくはちいさい頃あのオブツダンがこわかった。おじいちゃんとおばあちゃんはオブツダンのなかにいるんだよ。そして父と母まで。まりちゃん、お兄ちゃんはここだよ。たすけてまりちゃん、ここはどこ? ここは空港ではなかった。まりちゃん。ここはシンガポールでもなかった。なんにもみえない。まりちゃんもみえない。まっくらだよ。
ここはどこ? いまぼくがいるのは――
誰かの声が言った。
「お仏壇の中だよ」
目を覚ましてからも、僕は全身の汗をぬぐいもせずにベッドでぼんやりとしていた。
空気が少し冷えていた。雨音が聞こえる。窓の
せっかく夢に茉莉が出てきたのに、顔を見られなかったな。
部屋にはまだあの香りが漂っていた。ベッド脇の机の上に小皿があり、その中に灰が残っている。僕はゆうべ、ムラティ王女からもらったあのお香を一センチほど切って
たしかに、王女が言った通り、このお香には会いたい人に会える効果があるようだ。しかし……。
恐らく元の世界では、僕は飛行機事故で死んだのだ。さっきの夢がそう告げていたように思えた。そして僕は、家族を全て失ってしまった妹のことを思って泣いた。もっとそばにいてやりたかった。もっと話を聞いてやればよかった。もう大人になるんだからなんて思わずに、手をつないだり抱きしめたりすればよかった。
朝食を持って来たファジャルの侍女がドアを開けるまで、僕はずっと声を出さずに泣き続けた。
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