第2章 時の流れは、僕をおそろしく奇妙な場所に


   1


 二十七年の時の流れは、僕をおそろしく奇妙な場所に運んできてしまったようだ。数え間違いでなければ、小屋に幽閉されて七日目は僕の誕生日のはずだった。妹は今年も何かプレゼントを用意してくれていただろう。そう思うと胸が痛んだ。

 母が病気で、父が事故で、一年以内にたて続けに亡くなった時、茉莉まりはまだ中学生だった。

 僕は成人したばかりで、外国語大学の学生だったが、少なくともこの子が高校を出るまでのあと五年間、決して人手に預けたりせずに面倒を見ようと心に決めた。といっても経済的な苦労があったわけではない。うちはそこそこ裕福だったし、二人には広すぎる郊外の家を手放して古いアパートを借りれば、当面は充分だった。茉莉はバレエを、僕は大学院進学をあきらめたけど、そんな贅沢ができないのは当たり前の話だ。

 いちばんの問題は茉莉の心の回復だった。最初の半年間は、彼女が自分の部屋で一人で寝られるようになること、ドアの前で僕が話し続けなくてもトイレやお風呂に入れるようになること、一人で学校に行けるようになること、一人で留守番ができるようになることなど、一つずつ課題をクリアしていかなければならなかった。

 大学を卒業すると僕はすぐに今の会社に就職した。アルバイトをしながらでも専攻の語学だけは手を抜かずに勉強していたおかげで、入社数年で語学屋としてそれなりに重宝されるようになった。僕が海外出張を任されるようになると、そのたびに泣いたり暴れたりする妹を不憫ふびんに思ったものだったけど、いつしか互いに慣れて、成人するまでには茉莉も取り乱したりすることはなくなった。

 それでも、さらなる別離や分離への不安が、大人になっても僕たち兄妹を膜のように包んでいるのを感じるときがある。

 茉莉は短大を出て今年から働き始めたが、それまでの仮住まいのつもりだったアパートをなんだかんだ言って出ていかないのは、経済的理由もあるだろうけど、やはり一人になりたくないのだろう。それならこの子が結婚するなりして出て行くまでそばにいてやろう、と僕は思っていた。

 今思えば不思議だけど、ちょうど今回の出張につ日の朝食の席で、茉莉は妙なことを口にした。

 話のきっかけは、仏壇の世話を忘れずにするようにと僕が茉莉に頼んだことだった。父親の命日が近いことを思い出して何の気なしに言ったつもりだったのだけど、茉莉は珍しくむきになって言い返してきた。

「わたし、お仏壇のことはちゃんとしてるよ」

「そうか。いや、それならいいんだよ」

「留守中ちゃんと毎日お線香あげて、お水とご飯、三つずつお供えして」

「三つ?」

 僕の反応に、茉莉が小さく息をむのが聞こえた。どうやらうっかり口を滑らせたようだった。

「お父さんと、お母さんと……」と言って妹は口ごもり、視線を落とした。「お兄ちゃんの」

「そういうことになるよな」

「ごめんなさい」

 要するに、僕が出張で留守の間、妹はいつも僕の写真を両親の写真と並べて仏壇に置き、毎日律儀に線香を焚いたり食べ物を供えたりしているということらしかった。何年前になるだろうか、僕の最初の出張のときから、それをずっと続けてきたらしい。不吉と言えば不吉だけど、その方が楽になる気持ちも分からないではなかった。

「別に謝ることはないよ。茉莉の気が楽なようにすればいいから」

「楽じゃないよ。自分でも頭おかしいと思ってるよ。意味無いし。縁起悪いし。病んでるみたいだし。でもやめられないの。怖いんだもの、待ってるのが」

「分かるよ」

「分かんないと思う」

 妹の目に、みるみるうちに涙が溜まった。

 僕は後悔した。余計なことをした。聞きとがめたりせずに受け流すべきだった。茉莉はもうすぐバスの時間だし、僕は彼女が帰宅する前に成田に向かわなければならないのに。

「悪かったよ。今はこんな話やめよう」

 茉莉はゆっくりと深呼吸をして震える息を整え、赤い鼻でうなずいた。涙のしずくは頬に落ちずに下まつげにとどまっていた。こんなことは久しぶりだった。出勤前のスーツ姿でメイクをした妹が、まるで十三歳の子どもに戻ったように見えた。抱きしめてやりたい、と僕は思った。だけどそれはいつの頃からか自分に禁じてきたことだった。

「お化粧が崩れるよ。今から仕事だろう?」

「……だよね」

 どうして僕はあんなくだらないこと言ったのだろう。あのまま普段どおりに別れたきり、今僕はこの、どことも知れない島の、得体の知れない集落の、わけの分からない小屋に閉じ込められて、いつまた彼女に会えるかもわからない。

 茉莉はどうしているだろう。あの会話のことを気に病んでいなければいいけれど。今ごろ僕のために線香をいているのだろうか。ひょっとしてそれにふさわしく、僕が留まっているこの奇妙な国は死後の世界なのだろうか。

 いや、僕は帰らなければならない。ここが死者の国だろうが異世界だろうが、必ず、生きて。

 小屋を脱出することは、もちろん何度も考えた。壁や扉や床は、その気になれば素手でも壊せそうだった。しかし問題はその後だ。ここがどれくらいの大きさの島なのかは分からないが、ここの社会の総意として異邦人の僕を閉じ込めているのだとしたら、逃げおおせることは容易ではないだろう。子どもたちまでが僕の存在を知っているくらいだから、周知の事実なのだと考えるしかなかった。

 また、こういった僻地では、たとえ警察があったとしても、有力者の私兵みたいになっているかも知れず、頼りになるとは思えなかった。そういう連中に効き目があるのは金銭かコネか情だけなのだけど、今の僕には一円もない。本社か、取引先のどこかにでも連絡がつけばいいのだけど、バイクさえ無いこんな土地に電話屋ワルテルやネットカフェがあるとは思えなかったし、あったとしても簡単にはたどり着けないだろう。

 しかし結局、あれこれ考えたのは無駄らしかった。

 七日目の朝に扉を開けたアディは明るい顔で、僕の肩を叩いて言った。

「おい、旦那様トゥアンがお戻りになったぞ。ここから出られるぞ」

「僕は国に帰れるのか」

「きっと帰れるさ。さあ、行こう」

 扉をあけ放ったままで、アディははしごを降りはじめた。広場の石畳が朝日を照り返してまぶしかった。

 成田に着いたら、と僕は思った。

 何十時間かあとで成田に着いたら、何憚なにはばかることなく、ひとの目も、僕自身のルールも一切気にすることなく、あの子を思いっきり抱きしめてやろう。もし会社の誰かが来たら、茉莉を抱いたままで「僕は辞めます。二度とどこにも行きません」と言ってやろう。


   2


 アディに導かれて丸木のはしごを降り、初めて広場の石畳を踏んだ。村人たちと同様に僕も裸足で、与えられた無地の巻衣サルンを腰に巻いていた。ただその上に着たワイシャツだけが、僕が本来異なる文化圏に属する人間であることを示していた。

 見るとアディは、正装なのか、いつもと少し違った服装だった。渋い茶色の更紗バティックを腰に巻き、飾り金具のついた短剣クリスを帯び、頭にはターバンのような白い布を巻いている。

 遊んでいた子どもたちがわらわらと集まって、アディと連れ立って歩く僕の後ろをついて来た。彼らは口々に何か言っていたが、マレー語とは全く別の、この土地固有の言語らしく、その意味は何一つ分からなかった。中にはあの剣豪少女もいて、他の女の子たちに混じってしゃべり合っているようだった。

「アディ、僕らは今からどこに行くんだ」

御邸イスタナだよ。旦那様トゥアンがお帰りになったからな」

 御邸というのはおそらく、三層の屋根のあるあの大きな家のことだと僕は思った。この地域の有力者、たぶん昔の族長の血を引く地方議員か何かが住んでいるのだろう。こういった国ではよくあることだ。

「異国人が漂着した時は直々じきじきに検分していただくのがしきたりなんだ。でもまあ心配するな。きっと国に帰れるように取り計らってくださるよ」

 歩きながら辺りの様子を観察すると、広場に面した大きな家々の裏側にもたくさんの小さな家が連なっているのが垣間かいま見えた。物売りの露店などもあり、村というより小さな町のような景観だった。しかしやはり、車やバイクや自転車、Tシャツや携帯電話やコカ・コーラのブリキ看板、トタン板や電線やアンテナ、マンホールに至るまで、現代的なものは一切見当たらない。

 立ち止まって後ろを見ると、ぞろぞろとついて来ていた子どもたちは、あわてて互いにぶつかり合いながら足を止めた。どの子の目にも悪意は感じられず、見て取れたのは好奇の色だけだった。あの少女も同様に、剣術ごっこの時の手練てだれぶりが嘘みたいな無邪気な眼差まなざしで興味深げに僕を見ている。初めて近くで見る顔は、他の子たちよりも少し肌が白く、小さいけれど真っ直ぐな鼻やくっきりした眉が意志の強さを感じさせた。黒々とした髪を後ろで結び、サイドに白いジャスミンの花を飾っている。やはりあの頃の茉莉と同じくらいの年齢に見えた。

「気にするな」とアディが僕の腕に手を添えて促した。「子どもたちはただ異国人が珍しいんだよ」

 連れて行かれたのは、やはりあの大きな家だった。木造家屋とは言え、近くで見れば四、五階建てのビルくらいの大きさはありそうだ。柱や梁、壁や垂木に至るまで、花や鳥や人物などの素朴なレリーフがびっしりと彫られ、要所要所には白や赤、金色などの彩色も施されていた。そして仏塔のように重なった三層の屋根の頂点には、花の形の大きな木彫りが取り付けられていた。

 正面の入り口に向かって幅の広い階段があったが、アディは迂回して建物の側面に回り、通用口らしい戸口への階段を登り、ついてくるようにと僕に指示した。

 二階ぐらいの高さの階段の上から振り返ると、子どもたちはみんな下で足を止めていた。ただ一人あの少女だけが、巻衣の裾を気にしながら、ちょっと取り澄ましたような足取りで階段を登ってくるのが見えた。

「異国の客をお連れしました」とアディが薄暗い奥の部屋に向かってかしこまって告げた。「殿下ヤン・ムリアにお目通りを願いたいとのことです」

 ずいぶん大仰おおぎょうじゃないか、と僕は思った。こんな田舎で、まるでマレーシア連邦国王ヤン・ディプルトゥアン・アゴンの宮廷か何かみたいに。

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