第3章 暗い部屋を三つ通り抜けて奥に進むと

   1


 暗い部屋を三つ通り抜けて奥に進むと、日本で言う十二、三畳くらいの広さの板張りの広間だった。天窓からの外光が入って少し明るく、正面に三人の男たちがいるのが見えた。

 右手には、更紗の巻衣の上に金糸で刺繍を施した黒い上着を着た、頭の切れそうな初老の男。

 左手には、絣織の巻衣を腰に巻き、頭に黄色い絹のターバンを巻いた、太った中年男。

 そして中央には、金箔の貼られたロココ風の大きな椅子があり、驚くほど肌の白い青年が座っていた。

 この青年がこの場の主人であるのは明らかだった。背もたれの後ろには金色の日傘が立てられ、天蓋のように彼の頭上を守っていたし、金襴ソンケットの巻衣に、黄色い絹の上着、そして黄金の花が縫い付けられたビロードのトルコ帽という装束も、いかにも王侯貴族らしく見えた。

 あっけにとられて突っ立ったままの僕の傍で、アディは片膝をつき、青年に向かって深々と頭を下げた。

港務長官シャーバンダル」と、女性のように柔らかな声で青年が言った。「こちらのご客人は」

おそれながら申し上げますアンプン・トゥアンク」と、右手の初老の男が大時代な言い回しで答えた。そして僕がここに来るまでの経緯について簡単に説明した。十日前に浜に流れ着いていたこと。船は見当たらず、持ち物も何もなかったこと。どこの国の人間かは分からないが言葉が通じること。「殿下ヤン・ムリア」が戻るまでしきたり通りに隔離していたことなど。

 青年はいちいちうなずきながら、港務長官という男の話を聞いていたが、僕の顔を一切見ようとはしなかった。いや、そうじゃない。グレーに近い色をした彼の美しい瞳は、ただ虚空に向けられるばかりで、他の誰も、他のいかなる物も見ている様子はなかった。

 やがて青年が再び口を開いた。

「ご客人には、わたしの帰りが遅れたために、ご不便をおかけしたようですね」

 ご不便? 不法に外国人旅行者を足止めしおいて、ご不便で済むもんか。もしその間に茉莉に何かあったらどうしてくれる。僕は思わず声を荒らげた。

「旧王族か何か知らないが、一週間も人を幽閉しておいて、ご不便も何もあったものじゃない。わたしは一刻でも早く日本の家族のところに帰りたいんだ。幼い妹は泣いているはずだ。連絡を取らせてくれ。ここがどんな離島でも、電話の一台くらい……」

 左側に立った中年男が、こちらをきっと睨んで半歩足を踏み出し、短剣クリスの柄に手をかけたので、僕は黙った。アディが片膝をついたままで素早く移動し、僕を半身でかばうように前に出た。

 正面を向いたまま顔を動かさずに青年が言った。

「非礼はよさないか、宰相ブンダハラ。ご客人のご懸念はもっともだ」

 宰相と呼ばれた中年男は黙礼して位置に戻った。ハッタリだ、まさか抜きはするまいとは思っていたけど冷や汗が出た。

「懸念というか、混乱しています。まず教えていただけませんか。ここはどこなんです」

 僕の問いに答えたのは港務長官だった。

「ここはクンバンムラティ島。おおよそ、ドゥルハカ島より東に2日、カカトゥア島より南に半日ほどの行程になりましょうか」

 クンバン・ムラティジャスミンの花島とは、聞いたことの無い名だった。また他の二つの島の名も知らないものだった。でも僕が知らない島なんて何千もある。問題はそこではない。

「それで、この島はどこの国に属するのですか」

 今度は青年が自ら答えた。

「わが国の名もまた、クンバンムラティ王国と号し、いかなる他国の王にも属しません。わが名を名乗りましょう。ご客人、まずはあなたから名をお教えいただきたい」

「ヒロミ・ミナミ。ミナミは家族の名です」

「ミナミ殿、ではわが全名を名乗りましょう。わが名は、クンバンムラティ島のトゥアン・あらゆる民族バンサ信徒ウマッの庇護者・回教王スルタンにして正法王ダルマラジャ・アングレック・イスカンダル・シャー」

 王族や旧王族ならば傍系でも長ったらしい大げさな称号がつくのは常とは言え、この国の王と言い切ったのはさすがに衝撃だった。少なくとも国際社会に認められた国連加盟の独立国としてそのような国は無いはずだ。

「では、マレーシアやインドネシアといった国の領域ではないとおっしゃるのですね」

「港務長官、いまご客人がおっしゃったような諸国を知っているか」

「存じません、殿下。この海域の国々ではありますまい」

 マレーシアもインドネシアも知らないなんて、そんな馬鹿な。そこまで孤立した島なのか。何か特異な政治的事情があるのか。それとも……

電話テレポンは? 電話をお借りできませんか」

「テレポンとは?」と港務長官は首を傾げた「どのようなものですかな。もしこの国で手に入るようなら準備させましょう」

「電話とは……」

 僕は次の言葉が思いつかなかった。

 ここは本当に、ただの浮世離れした離島なのか。それとも何か、今まで知っていたのとは別の世界なのか。それともここの連中全員で芝居を打っているのか。どれもありそうで、どれも馬鹿馬鹿しい。

 このまま茉莉に会えないのか。

 僕はめまいを感じて、アディの隣に座り込んでしまった。

 その時、背後からトトトトと床板を踏むネコのような足音がした。振り向く間もなく、アディと僕の間を赤いものが裸足でひらりと駆け抜けたかと思うと、玉座の青年の足元にぺたんと横座りして、片手を青年の膝に置いた。

 それは、赤い金襴の巻衣に象牙の柄の短剣を帯び、頭上に結った髪に金の花飾りをつけて正装したあの少女剣士だった。

「ご客人の前だ」と青年が言った。「不作法な振る舞いはいけないよ」

「ご客人じゃないわ」と少女は言った。見た目以上に幼く聞こえる声だった。「お友達です。さっき広場でお目にかかりましたもの」

 まさか「王妃です」なんて言い出すんじゃないだろうな。ユニセフだかアムネスティだかに通報するぞ、などと回らない頭で考えていると、少女が言った。

「お兄様、ご客人はお疲れみたい。お休みさせてさしあげては?」

「そうか。それは申し訳なかった」青年ははじめて顔を動かして、少女の方に向けた。「これはわが妹、ラトゥ・ムダ・プトリ・グテ・ムラティ王女です。ご覧の通りわたしは目が見えぬ故、幼いながらいろいろ力になってくれています。強く、優れた、良い子です」

 少女は王の片手を握り、にこにこしながら僕を見ていたが、兄の言葉を聞いて頬を赤らめた。

 両親が健在だった頃は、茉莉もよくこんな顔をしたものだった。


   2


 宮殿には渡り廊下でつながった別棟が両サイドに二つあり、僕は右側の棟に一室を与えられた。外国人への対応は港務長官の職掌らしく、僕の帰国には彼が責任を持つということだった。一か月後には大きな外国船が来るからそれに乗れるだろうという話だったが、まず「日本ジュプン」という国がどこにあるのか情報収集を始めるという有様なので、望み薄としか思えなかった。

 宮殿の一室はさすがに快適だった。ベッドや机もあり、浴槽やシャワーは無いけど床が簀子すのこになった専用の水浴び場もあった。女官に身の回りの世話をさせようという申し出は断った。どうせすることがないのだ。一人で横になってこの先のことを考えたり妹の心配をしているより、掃除や洗濯でもしていたほうがまだ耐えられる。本を読めればいいのだけど、この国には本というものがほとんどなく、あったとしても僕には読めない文字で書かれたものだった。

 出歩くことは自由だったので、僕はこの「王都コタラジャ」をひと通り見て歩いた。王宮前広場の周りには宰相や王族たちのやしきが並び、その周りには様々な人たちが住む大小の家が数百メートル四方に点々と広がっていた。集落の南側にはマングローブの茂った大きな川があり、西に向かって流れていた。近代的なものは何一つ無いものの、水も食料も豊富らしく、ひどい貧困の影は見られず、人々はのんびり暮らしているように見えた。

 護衛でもあり監視でもあるのだろうけど、僕が散歩していると必ずと言っていいほどアディが現れ、一緒についてきていろいろなことを教えてくれた。

 この国は、王が住む王都コタラジャ、港務長官が管轄する港市バンダル、密林に覆われた内陸ダラムの三つの地方からなり、それらが川によって結ばれている。国としての成り立ちは何百年も前のことでよく分からないが、昨年父王が崩御ほうぎょして即位した現王アングレックが第十代にあたるという。

 広場に置かれた丸太に腰かけて休憩しながら子どもたちの剣術を眺めていたとき、アディが僕に尋ねた。

「ミナミ、あんたはこの国をどう思う?」

「王都を二、三日歩き回っただけで国全体をどうこう言うのは難しいな。ただ、便利ではないけど平和そうだし、みんな暮らしに満足しているように見える」

「俺もそう思う。それもひとえに旦那様トゥアン御稜威ダウラットのおかげだ」

「なるほど」

「だが道理が分からん奴らもいる」

 僕とアディの視線の先には岩があり、歓声を上げる子どもたちの姿があり、今日もまた冴え渡った太刀さばきで男の子三人の攻撃を次々と弾き返すムラティ王女がいた。

「アディ、君を信頼して聞くんだが、港務長官というのはどんな人なんだ」

「お偉方のことはよく俺には分からないよ。ただまあ、力のある人だな。旦那様も姫様も重臣ムントゥリ連中もみんな頼りにしてる。もともとはこの島の人間じゃないんだけどな」

 僕らに気づいた王女が、岩を下りて駆け寄ってきた。絣織りの巻衣一枚で胸から膝までを覆っただけの格好で、今日はとても王族らしく見えない。竹の棒を二本持ち、やはり髪にはジャスミンの花を飾っていた。

 王女はまず僕に向かってにこっと微笑み、それからアディの目の前に棒一本を差し出した。

「アディ、相手してくれる? いいでしょ?」

「姫様、悪いが俺も子どものころとは違うんです。今じゃこれでも宮中武官のはしくれだ。女子供相手に棒を振り回してるようじゃ武門の名折れってもんです」

「宮中武官なのに、女で子どものわたしに負けるのが怖いのね」

「姫様の神聖なお身体に傷をつけちゃ大変ですから」

「いいの。宮中武官なら王族の命令を聞きなさい」

 王女に腕をつかまれると、アディは案外素直に立ち上がって僕に言った。

「ちょっとそこで待っててくれ。このあと俺はあんたを港務長官殿の屋敷に案内しなきゃいけないことになってるんだ」

 二人とも最初からずっと笑っていたところを見ると、たぶんいつものお決まりのやりとりだったのだろう。

 アディが岩の方へ連れられていくと、子どもたちが冷やかし半分の歓声を上げた。

 特に始まりの合図もなしに、二人は打ち合いはじめた。武官だと言うが、アディはさすがにたいしたもので、王女と互角に渡り合っていた――というのはおかしな言い方だろう。小さな身体でアディと互角に戦う王女こそ尋常の人ではない。

 しかし、激しい打ち合いが続くうちに、それはだんだん戦いのようには見えなくなっていった。王女もアディも風を切る勢いで棒を振り下ろし、打ち込み、ぎ払うのだが、それが互いの肌に触れることは決して無い。まるで、自分の攻撃を相手が必ず防いでくれると信じているかのようだった。

 リズムを合わせ、力の波に共に乗り、右を打ち、左を守り、押したり引いたりしながら、ひたすらに棒と棒だけがぶつかり合う。

 力としては互角に見えたが、形や動きの美しさでは王女の方が遥かにまさっていた。というよりむしろ、王女が美しく舞うためにアディが力を尽くしているようにも見え始めた。

 日が傾き始める頃だった。はじめは騒いでいた子どもたちも今は静かに見入っている。竹の鳴る音が打楽器のように複雑なリズムを刻む。

 この低い位置から水平に見ると、王女の身のこなしはますますバレエに似て見えた。茉莉もあれくらいたくましければよかったのに。しかし、いや、それは違うのかもしれない。茉莉は茉莉で、あの少女とは別な形で、あの少女と同じくらい強く闘ってきたのかもしれない。両親に死なれて以来、僕が彼女を守ってきたのと同時に、彼女も僕を守ってくれていたのではなかったのか。

 王女の動きに少し疲れが出てきたかな、と思いはじめた頃、足が滑ったのか、アディが一瞬わずかにバランスを崩した。その隙を見逃さず、王女がアディの肩に軽く一太刀ひとたち入れた。子どもたちがわっと歓声を上げた。島の言語なのでよくは分からなかったが、「姫様が勝った」と口々に叫んでいるようだった。当の二人は勝ち負けというよりなんとなく照れくさそうに、汗ばんだ紅い顔を見合わせていた。

 アディは笑顔で僕の方に戻ってきた。

「姫様はわがままで困るよ」

「素晴らしいものを見せてもらったよ。君は強いな」

「見てただろ? 姫様の勝ちさ」

「どうだろう。僕には分からなかった。しかし確かに王女も強いね。あの小さな身体でなぜあんなに強いんだろう」

「道理の分からん奴らから兄君をお守りするためさ。最初に姫様に剣をお教えしたのは俺だったんだけどな。今は俺よりよほど上手にお使いになる」

天賦てんぷの才?」

「まったくな。素晴らしいお方だよ。だが姫様は姫様だ。あの方が王子にお生まれになればよかったのに、と言う奴もいる。武門サトリアの家の娘にお生まれになった方がよかったのではと言う奴もいる」

「君と同じ階級にか?」

 アディは恨みがましいような目で僕を見た。

「姫様は姫様だよ。あの方のあの腕を使わせないために俺たちみたいのがいるんだ」

 子どもたちがアディに手を振って、四方へ帰っていく。ひとりムラティ王女だけがまた駆け寄ってきて、僕ににっこりと微笑みかけてから、アディに向き直った。

「今日はありがとう。次はちゃんと勝つからね」

 そう言うと少女は竹の棒を投げ捨てて、王宮に向かって走っていった。

 その姿が見えなくなるまで見送ると、アディは立ち上がった。

「さあ、行こうか。港務長官殿の屋敷に案内するよ。あんたとゆっくり話したいらしい」

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