第4章 何がこの島をこんな奇妙な場所にしているのか
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何がこの島をこんな奇妙な場所にしているのか。ここは一体何なのか。茉莉のいる世界とのつながりを全く断ち切られたように見えるこの国で、アディやムラティ王女のいる新しい日常みたいなものに巻き込まれつつも、僕はずっと考え続けていた。
可能性はいくつもあった。地理的孤立、異世界、
しかしどれも現実味が無かった。
地理的孤立と言っても、この現代に、周囲の国民国家の存在を知らないほど孤立している島なんてあるはずがない。ここの住民は、固有の言語も持ちながら、島嶼部の共通語であるマレー語の一種を日常的に使いこなしている。衣装や生活文化にも明らかにマレー・インドネシア文化の色が濃い。他の島々との交流が無ければあり得ないことだ。なにより「
異世界、つまりファンタジー的な意味で全く別の世界というのも、似たような理由で考えにくい。本当に別の世界なら、僕らの知っている言語や文化が同じ形で存在するはずが無い。なるほど小説や映画の中では異世界の人や生物が英語や日本語を話していたりするけど、それはフィクションの表現方法としての、翻訳劇や吹き替えみたいなものだろう。「標準マレーシア語とも標準インドネシア語とも微妙に違うマレー語方言」が話されている異世界だなんて、創造主のいたずらにしても馬鹿馬鹿しすぎる。
だったら、全て僕自身の脳が生み出した夢か妄想だ、という考え方が最も合理的なのかもしれない。僕は飛行機事故で意識を失って、長い夢を見ているのだ。それで全てが説明できる。
だけど、そんなことを言い出せばきりがない。それまでの現実だって夢かもしれない。両親の死も、茉莉との七年の生活も全て幻かもしれない。本当の僕はまだ五歳の子供で、妹も生まれてなくて、大人になった夢を見ているだけなのかもしれない。なんとでも言えてしまう。
たしかにそれは理屈としてはあり得るだろうけど、素朴な実感に反しすぎている。あまりにも全てが説明できすぎて、何も説明していないのと同じだ。こんな思考自体が
では並行世界という可能性はどうだろう。
アジアの歴史がどこかの時点から僕らの世界線とずれてしまった結果がこの世界なのだとしたら、この島の遥か北にはやはり日本列島があって、そこには茉莉もいるのだろう。
たとえば、緑の残る武蔵野の日本家屋に暮らす茉莉の姿を僕は思い浮かべる。藁葺の一軒家で、庭には柿の木があり、
「お兄ちゃんが帰ってきた!」
そして小さな冷たい手で僕の手を握って引っ張り――
いや、駄目だ。これこそ妄想に過ぎない。やめよう。馬鹿げている。
僕ははじめ、兄として、年長者として茉莉のことを心配してるつもりでいた。だけど今はそうじゃなかった。僕自身が、ただ一人の肉親である茉莉に会いたくてたまらなかった。茉莉に会いたい。顔を見たい。声を聞きたい。
でもそれが妄想や夢想であってはいけないのだ。現実の日本に帰って、現実の東京で、現実の茉莉の手を握らなければ何の意味もない。そうでなくては本物の茉莉は一人ぼっちのままだ。
だから僕は信じるしかなかった。ここがどんな世界でも、来た以上は必ず帰る道はあるだろう。それがこの環境における、僕にとっての言わば信仰になる。
茉莉、どうか僕を守ってほしい。必ず帰るから、僕のために祈ってほしい。それで気が済むのなら線香なんか
2
「心配は要らん。帰国の手立ては必ずある。君の母国については
初老の
アディに連れて来られたこの川沿いの家は、あくまで王都滞在中のための別邸であり、彼の本拠地である港市にある本邸とは比較にならないものなのだそうだ。たしかにここは王族たちの邸より小さく、高くそびえる三角屋根も無く、柱や外壁の彫刻も無い簡素な建物だったが、家具や調度はなかなか豪華だ。テーブルや椅子は西洋風の装飾的なものだったし、広間の屋根の
そんな部屋で僕と港務長官は二人で夕食のテーブルに向かっていた。アディは外で待っているのだろう。
「私は十日後に港市に帰る。そうすればもっといろいろなことが分かるだろう。その時には君も一緒に来てもらうつもりだよ。外国人の君にはここより居心地がいいはずだ。あちらで船を待てばいい」
僕はうなずいた。王都の居心地が悪いわけでもなかったが、港のある町に行けば日本に帰る第一歩になるかもしれない。
金屏風の陰から、料理や飲み物を持った女たちが入れ代わり立ち代わり現れて、港務長官と僕に給仕をしてくれる。スパイスの効いた
料理は美味しかったけど、広いテーブルに港務長官と僕だけが向かい合い、女たちが無言で動き回っているという状況は僕にとってはどうも落ち着かないものだった。彼女たちは皆一様に紫色の巻衣を着て、薄いベールのようなものを肩にかけ、皆一様に豊かな胸と鼻筋の通った中東的な顔立ちを持ち、花の精油のような甘い香りを強く漂わせながら、屏風の陰から器を持って出たり入ったりを繰り返すものだから、いったい全部で何人いるのかさえ分からなかった。
「君には聞きたいことも教えてやりたいこともまだまだあるんだが、それは港市でまた話そう。この王都では私は余所者だからね。誰の耳があるかも分からん。
「この島の方ではないと聞きました」
「隣のカカトゥア島の出だ。それに、こう見えても私の血は西方なのだよ。曽祖父はメスィルの人間だからね」
一瞬、「メスィル」という単語が分からなくて聞き流しそうになったが、何か強いひっかかりを感じて、口の中で「メスィル」「メスィル」と唱えてみた。辞書が無いのがもどかしかったが、給仕の女たちの一人のアイシャドウを入れた顔が視界の隅に見えたのをきっかけに、ふと思い出した。Mesir。そうだ、たしかエジプトのことをそう言ったはずだ。
「この世界に、
「知らんかね? 遠い国だ。私も見たことは無いが」
僕も見たことはないけど、エジプトと言えば一つしかない。ピラミッドがあり、カイロやアレキサンドリアがあり、クレオパトラがいて、ナセル大統領がいて、中東戦争があったあのエジプトだ。この同じ大地の上にあのエジプトがあるのならば、ここが全くの異世界である可能性は消える。
「閣下、世界には他にどのような国が……」
「
実在の国ばかりだ。とにかくこの島を出て、たとえば中国なりシンガポールなりにたどり着けさえすれば、どこかの空港から帰国できるはずだ。彼が挙げた中には欧米諸国が含まれていなかったことに僕は気づいたが、そのことが何を意味しているかは分からない。弁髪や
「さあ、遠慮なく食べたまえ。君はまだ若いのだろう?」
屏風の陰からまた女たちが現れる。ひとりが籠に入ったマンゴーやマンゴスチンを運び、ふたりがガラスの器に注がれたぶどう酒を持っていた。
彼女たちがテーブルに物を置くとき、薄衣越しのなめらかな腕と肩や、きつく巻かれた巻衣に押しつぶされそうな肉付きのよい胸が僕の肩に近づき、熱帯の花を煮詰めたような香りが襲ってくる。僕は反射的に体を縮めて身を遠ざけてしまう。港務長官はそれを見てちょっと興味深げな顔をした。
「君は、家族はいるのかね。妻や子は」
「妹が一人いるだけです」
「ああ、幼い妹がいると言っていたな」
「もう二十歳ですから幼くもないのですが、七年前に両親を亡くして以来ふたりで支えあってやってきたのです。あの子をひとりきりにするわけにはいきません」
「そうか。では殿下と王女のご兄妹と同じだな」港務長官は眼を細めた。「先王ご夫妻が、何者かの手にかかって
「何者かの……?」
「アディから聞いていなかったか? これはここで口にしても構わぬだろう。表向きはご病気による崩御だが、何者かが毒を盛ったと、誰もがそう思っているのだから」
平穏そのものに見えていた王都が、急に不穏な場所に思えてきた。皆が王室を慕う平和な小王国、そう見えていたのだが。そしてムラティ王女のあの見事な腕前も、それを聞くと違って見えてきた。健気にもあの子は本気で、自分の剣で病弱な兄王を守ろうと考えているのだろうか。
「誰が、と問いたいであろうが、真相は分からんのだ」と言って港務長官はガラス杯の葡萄酒をあおった。「王族の誰かだとか、外国人だとか、
青いガラスの
「なぜ僕にそんな話を?」
「私と同じ外国人だからだよ。王都の人々は民に至るまで血統も貴く、みな気高く善良だが、塔の上から景色を見るということを知らぬ。君には違った見方が必要だろう」
ぶどう酒を何杯か飲み、食事が終わり、女たちは金屏風の向こうに消えたきり姿を見せなくなった。港務長官はもう何も言わず、両手をテーブルに置いて微笑んでいた。ランプの火が窓からの夜風に揺らめくと、テーブルに散らばったほのかな光点も揺れた。
「そろそろ失礼します」と僕は言った。
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